歴史のかけら


合戦師

26

 武田の大軍勢が天竜川を渡河した後、浜松に向かって来ているという諜報を得た家康は、 出陣して乾坤一擲の勝負を仕掛ける腹を固めた。このまま黙っていれば、4時間もすれば武 田勢に浜松城が囲まれてしまうことになる。そうなってからでは、まともな勝負などでき たものではない。

(三方ヶ原が良い・・・)

 家康は思った。
 三方ヶ原は、浜松の北方に広がる広大なテーブル型の台地で、地形はところどころうねうね と入り組んではいるものの、見渡す限り荒涼とした荒れ地になっており、水の手がないため 田もなく大木も生えず、大軍が自由に進退するのに都合が良い。

(信玄をおびき出し、三方ヶ原で決戦する)

 血の気が下がり切った青白い顔でそう決意すると、家康は全軍に出陣の用意をさせ、諸将 を集めて最後の軍議を開いた。


「ここは城を捨て、一刻も早く岡崎へ向かうほかござらぬ!」

 織田の客将 佐久間信盛は、ここを先途と力説した。

「いま浜松を討って出て、百に一つも勝利がござろうか!?」

「出れば、必敗でござる!」

 滝川一益も、声を励まして家康を止めた。ここでわざわざ討って出ても、信玄に大敗する だけのことで、誰も何も得をしないのである。そうでなくとも、雷神のように恐ろしい信長 から、絶対に戦うなと再三命じられている。織田家の客将たちも必死であった。

 家康は、すでに出陣の決意は固めてしまっていた。家康の重臣たちも、避けられぬ戦なら ば討って出て戦うという家康に、従うことを心に決めていた。
 平八郎も、それは同じであった。家康が決めたことに、どこまでもついていく覚悟を固め ている。
 もはや軍議は、家康の一決を待つだけの状態だった。
 そのとき、物見がまた駆け戻って来て新しい情報をもたらした。

「武田勢は有玉村より進路を西に取り、三方ヶ原へと進軍中!」

「・・・な、なにぃ!?」

 諸将が怪訝な顔をした。
 当然であろう。信玄は浜松へ来るものとばかり思っていたのに、ほんの10kmほど手前で突 然進路を90度変え、三方ヶ原へと登って行くというのである。
 家康の重臣たち――酒井忠次や大久保忠世の顔にまで、悦びの色が浮いていた。

「信玄は、浜松を素通りするつもりなのじゃ!」

「これは助かった! 我らが手さえ出さねば、信玄は去って行くぞ!」

「殿さま、この奇禍を諒とされよ! 信玄を行かせてしまいましょうぞ!」

 救われた気持ちになったのは、織田家の客将たちも同じであった。信玄が去ってくれるの ならば、これと戦うということもなく、信長の言いつけを守れることになる。

 家康は――
 家康は真っ青な顔をしていた。

(信玄に馬鹿にされた!)

 という思いが怒りとなって、脳細胞を真っ白に焼いているようであった。そうであろう。 こちらは決死の思いで出撃を決め、華々しく玉砕するほどの覚悟を固めていたのに、あろう ことか信玄は自分を無視し、勝つことがほぼ間違いない戦をしようとさえせず、さっさと 浜松から去っていこうとしているのである。
 そもそも信玄には、浜松城を攻める気が最初からなかった。その意味で、これは家康の勝手 な思い違いなのだが、家康は信玄に、自分の赤心を踏みにじられたような気持ちになってし まっていた。

「出陣する!」

 家康は、ほぼ反射的に叫んでいた。

「敵が、我が庭先を土足で踏み荒らして行くのを、黙って見過ごすなぞ男のすること かっ!」

 血走った眼を見開き、幽鬼のごとき顔で、家康は狂人のように一喝した。

(・・・・この男、狂ったか・・)

 織田の客将たちばかりか、家康の重臣たちまでが、この瞬間の家康を信じられないものを 見るような目で眺めた。
 家康が吐いたのは、とても1万もの軍勢を指揮する大名の論理ではなかった。郎党を救う ため、止むに止まれず勝ち目のない戦をするというのなら、まだしも解る。しかし、去って いこうとする敵に対して自ら挑みかかり、負けるのが確実な戦を仕掛けるというのはどう いうことであろう。「男としての名誉」などは一騎駆けの勇者の論理で、そんなものは大将 たる者の吐いていい言葉ではないのである。
 しかし家康は、床几を蹴って立ち上がるや真っ先に広間を出、凄まじいほどの勢いで床を 踏み鳴らし、すでに表へと歩きだしていた。
 この「大将の一決」に抗う権利は、この場の誰もが持ってはいなかった。


 家康は軍勢を置き去りにするような勢いで城から北へ2kmほど突出し、三方ヶ原の南方 犀ヶ崖に軍勢を集結させた。
 犀ヶ崖というのは土地の名前で、三方ヶ原台地を東西に走る 深さ10m、幅30mほどの切り 立った谷である。三方ヶ原台地の南端にあたる場所で、頭上には三方ヶ原の台地があり、 家康はこの崖の下を戦闘のための最終準備地にした。
 家康はこの間も、大量に物見を放ち、武田勢を隙間なく諜報している。

(本当に信玄は浜松を素通りするつもりなのか・・・?)

 という疑問が、家康にはある。もし突然、武田軍が進路を変えて浜松へ行こうとしても、 この犀ヶ崖からならば武田勢よりも早く浜松に引き返すことが確実にできる。
 血気に任せて出撃したとは言っても、家康はやはり慎重だった。

 このとき、元亀3年(1572)12月22日の太陽は、まだ真上にあった。


 この徳川軍の出撃が、信玄に諜報されていた。

(三河の小僧はどうするつもりか・・・?)

 信玄は、むしろ好奇の気持ちさえ抱きながら、そ知らぬ振りでそのまま進軍を続け、西へ 西へと三方ヶ原の街道を進んで行った。二俣城から別ルートで南進して来た武田勝頼隊とも 予定通り合流を果たし、信玄はさらに西進を続けて行く。

 家康にすれば、この信玄の西進中がチャンスといえばチャンスだった。
 武田勢は2列縦隊で延々と行軍しており、この長蛇の列の横腹に、全軍をもって突撃する という選択肢もあった。しかし、家康はあえてそのチャンスを見逃した。

 途中、街道が交差して進路が北西に変わる。
 信玄はそこで全軍を休止させ、戦闘準備を整えつつ陣形を変えた。
 奇策といっていい。
 信玄は、背後から攻撃してくるであろう徳川軍を迎え撃つために、行軍の先頭を小荷駄隊、 黒鍬隊、金堀隊、輜重隊などの戦闘力がない部隊とし、後ろにゆくほど戦闘力の高い部隊を 配置したのである。常識的には考えられないことだが、この場合は背後に敵があることが 判っており、しかも信玄は数キロ先まで偵察者を何人も放ち、長篠城までに織田の別働 部隊がいないこともすでに確認していた。
 完璧な戦場諜報を身上とする信玄の真骨頂だといっていい。

 信玄は、家康が挑みかかってくるのを待っていた。
 このため、家康のためにわざと隙を作ってやろうとさえ思った。
 信玄が進んで行く先――三方ヶ原台地の北西の終点に祝田という土地がある。ここは台地か ら降りる場所だけに急な坂がつづら折れになっている難所で、軍勢が寡少な家康とすれば、 武田勢がここを降り切ったあたりで、坂の上から攻撃を仕掛けられれば絶好という地点で あった。

(戦に目の利く者であれば、必ずここで仕掛けてくる・・・)

 信玄には確信があった。
 この戦の達人は、狡猾にも罠を張ることにした。




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