歴史のかけら
合戦師
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「武田勢が天竜川を渡った!」
元亀3年(1572)12月22日に届いたこの報告ほど、家康の心臓を縮み上がらせたものは生涯
なかったであろう。
(ついに来たか・・・・・!)
蒼白な顔でしきりに爪を噛みながら、家康は虚空の一点を見つめ、めまぐるしくその頭脳
を回転させていた。
(篭城か、決戦か・・・)
この議論は昨夜から、家康の諸将と織田の客将たちの間で、延々と討議し尽くされたこと
であった。
「これは、我らが主 織田 弾正忠(信長)様のお言葉でござる!」
織田の援軍の大将格である佐久間信盛は、よく太った身体を激しく揺すりながら、45とい
う年のわりには抜け上がった頭に青筋を立て、がなりたてた。
「三河殿(家康)単独での決戦はなんとしても不可! また、弓矢の意地にて、どうにも
浜松で武田と刃を交えたいと申されるならば、軽く一戦した後すみやかに退却し、岡崎まで
お返しなされよ!」
信長は、派遣軍の将校たちに、
「絶対に信玄と戦うな。浜松の城を守っているだけで良い」
と、しつこいほどに訓戒した。
信長の感覚から言えば、確実に負けると判っている浜松で兵を減らすのは無駄の無駄で
あった。武田との戦いが避けられないならば、なんとしても家康を岡崎まで連れ戻し、これ
を先頭に立てて武田勢と決戦したい。信長にとっては、家康に死なれるのも、三河武士
団が壊滅するのも、織田家が兵を失うのも、痛手以外のなにものでもなかったのである。
家康には、信長の気持ちが鏡で写すようにすべて解っていた。しかし、それは織田家の大将
である信長の論理である。遠江と三河の武士の棟梁である家康には、家康の論理がある。
家康がもしここで岡崎まで兵を引けば、豊橋以東のすべての地侍や豪族たちが雪崩をうった
ように信玄に寝返り、「家康の遠江」は煙のように消えてしまうだろう。しかもそれは、高天
神城や掛川城に入れてある3千近い三河の軍勢を、敵中に置き捨てにするということでもあ
った。そんなことが、今の家康にできるわけがない。
信長の織田家なら、それができたであろう。現に信長は、越前で家臣を捨て、家康を捨て、
ただ1人で京へと駆け去ってしまったことさえある。
織田家というのは、この時代では例外的に極めて近世的な臭いをもった武士集団であった。
たとえば滝川一益、羽柴秀吉、明智光秀などといった織田家の有名な武将たちは、元をただせ
ばただの浪人者で、信長自身がその才能を見抜き、泥の中からそれを拾い上げ、禄を与え、
兵を与え、身分を与えて人らしくた連中なのである。極論すれば、これを信長が捨てようが
殺そうが信長の勝手であった。織田家に古くから仕える譜代の家臣たちも、こういう「新しい
織田家」と信長が醸す門閥無視、能力主義の雰囲気を、濃厚に嗅ぎながら20年やってきてい
る。
しかし、家康の三河武士団というのはそうではない。
中世的な武士団というのは例外なく相互扶助の関係で出来上がっており、主人が自分たちの
一族を守り、先祖伝来の土地を保護してくれるからこそ、侍は主人のために命を捨てて奉公す
るのである。この契約の基盤を外し、家康が彼の郎党たちを捨てるようなことをすれば、郎党
たちはたちまち家康を見限り、自分たちを保護してくれる新しい主の元に走ってしまうで
あろう。ここで家康が自分の郎党たちを捨てるということは、三河での「徳川家康」という
存在そのものを、この世から消滅させることになりかねないのである。
「浜松を捨てるくらいなら、弓矢を踏み折って武士をやめたほうがマシだ・・・!」
家康は、搾り出すような声でそれを言った。
家康には、浜松城に篭って全滅覚悟で篭城するか、信玄の軍勢に玉砕覚悟で挑みかかるか
の、どちらかしか選択肢がなかった。
飛躍すれば、もう1つ選択肢がなかったわけではない。ここで織田の援軍3千を血祭りに
あげて、その首を残らず信玄に送り、武田に寝返る、という選択である。
しかし、家康はそれを考えまいとした。
武士としての「美しさ」を選ぼうとした。
この決断の理由は、家康が生来持っている律儀で頑固な性格ということも もちろん考え
に入れなければならないが、それよりもむしろ、極限状態に追い込まれた家康の、まだ30とい
う「若さ」であり、若者にのみ許された「血気」であり、その生涯でただ一度だけ陥った
「物狂い」とでも言う方が、より適切であったかもしれない。
(篭城は、ダメだ・・・)
家康は思った。
篭城戦というのは、有力な援軍が見込めて初めて成立する戦略なのである。浜松城でどれ
だけ踏ん張っても、信長が出馬してくることがあり得ないことは、3千しか援軍を送ってこ
なかった信長のやり様を見れば明白であった。
ただ、雪が溶けるまで我慢し続けることができれば、越後の上杉謙信が信濃を脅かすだろ
うことは期待できる。そうすれば、九死に一生を得る可能性はなくもない。
(しかし・・・春まで保つか・・・)
天下最強の信玄の軍勢を、4ヶ月近くも支え続けなければならないと考えただけで、家康
は気が狂いそうであった。しかも、篭城戦を始めて城に閉じ込められてしまえば、信玄が兵
の一部を割いて家康の所領を侵しまわるのは間違いがなく、空になっている本拠の岡崎を衝
かれる可能性も極めて高い。そうなれば家康の家臣たちが動揺するのは確実で、家康がそれ
を阻止できないことが明確になった時点で、自分の土地と家族を守るために信玄へ寝返る連
中が続出するだろう。
家族とも思う三河武士団から、そんな惨めな思いをさせられることだけは、家康は耐えられ
ない。考えただけでもおぞましかった。
(・・・・死ねばよいのだ・・)
この極限状態で、家康はむしろそちらに飛躍した。
三河武士たちと心を合わせ、燃え尽きるようにして華々しく散るというのならば、家康に
なんの否やがあろう。もとより、死は覚悟の上ではないか――
(野戦で信玄と決戦し、死中に活を見出す・・・)
家康の結論はそれであった。
この時点で、信玄が自分を無視しようとしているなどということは、家康は考えてもいな
かった。
信玄は――
信玄は、家康を浜松で滅ぼすことを半ば諦めていた。篭城するであろう家康に、何ヶ月も
関わりあっているほどの時間が、信玄にはなかったのである。
信玄は浜松に、家康をしばらく押さえるだけの軍勢を一旦置き、本隊をそのまま西へ進
めるつもりでいた。信玄の本隊が岡崎を脅かす形勢を見せれば、あるいは家康が慌てふため
いて出てくるかもしれない。これを野戦で討つことは難しくないし、出てこないならば、こ
ちらに上洛という目的がある以上、それはそれで仕方がない。織田軍と連携させないよう
細心の注意を払いながら、とにかく進むだけである。
信玄は、そういうつもりで、現在の神増から浜北大橋のあたりで天竜川を渡った。
ちなみにこの頃、「山家三方衆」を吸収した山県昌景率いる6千の別働隊はすでに信玄
の本隊に合流していた。美濃に派遣した秋山隊3千を差し引いても、北条氏からの援軍2千
を含め、武田勢はほぼ3万にまで膨れ上がっている。信玄は、このうち5千ほどの軍勢を二
俣城をはじめとする遠江の中心部の城に配った。つまり西上する信玄の本軍は、2万5千と
いうことになる。
軍勢を集結させた信玄は、現在 秋葉街道と呼ばれている道を辿り、全軍を浜松へと南下
させた。
(家康は、本当に動かないのか――?)
ということを探るためであり、それを確認するためであった。
ところが、軍勢を再び西へ向け、三方ヶ原を通る街道を使って井伊谷へと抜ける進路をと
ったとき、信玄は驚くべき報告を受けた。
徳川の軍勢が、浜松城を出陣したというのである。
(・・・小僧、死ぬ気か?)
信玄には、家康を哀れに思うだけの余裕があった。
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