歴史のかけら


合戦師

24

 二俣城は、なかなかに粘る。
 2万を越える天下最強の武田勢に囲まれながら、1千に満たない徳川勢は頑強に抵抗を続 けていた。

(三河者の頑固なことよ・・・)

 そう思いはするが、この状況は、半分は信玄の計略でもあった。
 信玄は、家康をどうにかして城から引きずり出し、野戦で決着をつけてしまいたい。合代 島(豊岡村)に本陣を据えたまま、信玄はさかんに小勢の別働隊を浜松に出没させ、町を焼き、 村を焼くことで家康を挑発した。二俣城の包囲を続けているのも、それ自体が家康への無言 のプレッシャーなのである。
 軍隊が人間の集団である以上、その内側を支えているのは人間の信頼関係であるというこ とを、信玄ほど熟知している人間はいない。殊に戦争という命のやり取りの場において、奮 戦する家臣を見捨てるという主君の行為が、士卒にどれだけ重大な心理的影響を与えるかと いうことを信玄は知り尽くしていた。つまり、信玄に包囲された二俣城の軍勢が健気に戦え ば戦うほど、彼らに対する味方の同情が集まり、それを救援に向かわない主君に対する不信 感が高まるのである。
 だから信玄は、決して二俣城を無理攻めにはしなかった。包囲しているうちに、家康が出て きてくれればこんなありがたいことはないのである。損得の勘定から言っても、敵の数倍も の死傷者を出してまで急いでこの城を陥す必要はなかった。

 家康は――
 家康は焦燥で顔色をどす黒く染めながら、祈るような気持ちで信長からの援軍を待ってい た。二俣城の攻防の様子は、当然毎日のように物見からの報告で耳に入っている。しかし、 救援に向かおうとする家康を、重臣たちは許さなかった。

「ここで討って出ては、甲斐入道(信玄)の思うつぼではござらんか!」

「せめて、織田殿からの援軍が到着されてからになされよ!」

「どうせ武田と戦うならば、ここは織田の加勢を待ち、後々にまで伝わるほどの大戦をしよう ではござらんか!」

 犬のように主人想いな三河者たちは、家康がすでに決死の覚悟を決めているということを、 その雰囲気や言葉の端々からなんとなく悟ってしまっていた。同じ玉砕覚悟なら、家康のた めに歴史に残るような華々しい大合戦をして、せめて後世に名を為さしめてやりたいという、 まるで鎌倉武士のような古風な感情を、多くの三河者たちが持っていたのである。彼らはみ な、家康を竹千代のころから愛している者たちであり、その家康と生死を共にするというこ とを、議論の必要もないほどに当たり前に感じている人間たちであった。
 家康にも、そういう家臣たちの気持ちが伝わっている。だからこそ、なかなか二俣城の救 援には踏み切れなかった。
 11月の下旬、いくら待っても来ない信長の援軍に業を煮やし、家康は「鬼作左」と呼ばれ た本多 作左衛門 重次を再び使者に立て、信長に支援を求めた。


 信長はこのとき、実は家康の救援どころの騒ぎではなかった。
 本願寺勢力の指嗾(しそう)によって領国のあちこちで一揆が頻発し、さらに越前の朝倉氏 が1万を越える軍勢を派遣して北近江の浅井氏を応援しているため これに四六時中引っ張ら れてしまっているところへ、本国である美濃に秋山信友が攻め込み、あろうことか岩村城が 奪取されてしまったのである。
 信長は猛烈な勢いで岩村城を取り返しに掛かったが、天下の堅城に篭るのが最強の武田勢 というのだから始末に悪い。力攻めでは陥ちず、しかも浅井-朝倉軍の南下を阻止せねばなら ないため東美濃に兵力を集中することもできず、結局は、本拠である岐阜城の喉首に刃物を 突きつけられたような状態のままでこれを放置せざるを得ず、ほとんど悲鳴を上げたい ような状況になっていた。
 岩村城が武田のものになってしまった以上、信長が本国から大軍勢を出してしまえば、 その隙を突いて信玄が本隊を信濃経由で美濃に回してくる可能性さえある。なんといっても 岩村城から岐阜城までは、たった2日の距離なのである。この状態で、大軍勢を国外に出せ るわけがなかった。
 信長にとって、岐阜-浜松の150kmという距離は、絶望的に遠かったのである。

 しかし信長は、家康の救援要請を無視することはできない。家康には連年に渡って借りが あり、義理の上からもこの要請を蹴ることはできなかったし、まして援軍が来ないとなれば、 今度は家康の方が信長を見限り、信玄に寝返って尾張に攻め寄せてくる可能性さえ否定でき ないのである。
 戦国とは、そういう裏切りが無数に行われた時代であった。

 信長としては、このさい家康に岡崎まで引き返してもらいたかった。岡崎ならば本国であ る美濃からも近く、ここまで信玄を引きつけてしまえば、信玄が大軍勢を奥三河経由で美濃 へ送り込もうとしても、なんとか対処できる。
 つまり信長にとって、信玄が尾張を目指そうが伊勢を目指そうが、決戦は岡崎平野でしか ありえないのである。

(それが解らぬ家康でもあるまいに・・・・)

 信長は、浜松に張り付いてしまっている家康を怒鳴りつけたいような気分であった。
 生まれた瞬間から織田家の相続者であり、性格的にも天性の「人の主人」といっていい信 長には、大庄屋程度の小大名の家に生まれ、半生を人質として過ごしてきた家康の、自分の 郎党に対する泥臭い気持ちというのは理解できなかったであろう。
 信長にとって、家康とは織田家の東方の番犬であり、使い捨ての利く便利な働き者であった が、便利で使い勝手がすこぶる良いだけに、絶対に手放せない存在でもあった。とくに家康 が率いる三河武士団というのは戦場では不思議なほどに強く、その強さを信長ほど正当に評 価している男もない。

(家康という男は、敵に回すと面倒だ)

 という思いが、10年の同盟関係を経て、信長の中に生まれている。その家康を、この「信玄 西上」という最悪の局面で敵に回らせるわけには断じていかなかった。

 信長は、佐久間信盛、滝川一益、平手汎秀、水野信元らに3千の兵を預け、遠江へと派遣 することにした。しかし3千という過小な兵数が表すように、この援軍派遣は信長が岡崎平 野での決戦構想を捨てたということではない。信長の軍勢というのは、家康への同盟の義理 を果たし、さらに家康を岡崎へと呼び返すための使者であり、なおかつ家康が信玄に寝返ら ないための監視者であった。


 信玄は兵気が緩まない程度に城攻めを続けながら家康の来襲を待ったが、そうこうするう ちに1月が経ち、美濃の東部国境へ向かった別働隊の秋山信友が、11月14日、先に岩村城を 手に入れることに成功していた。

(信長の動きは封じた。そろそろこちらも動くか・・・)

 信玄は二俣城の水の手を断ち、城の将兵を干上がらせる作戦に出ることにした。
 二俣城の水の手は井戸ではなく、滑車を使った特殊な井楼で天竜川の水を直接汲み上げる 仕組みになっていた。信玄ほどの男である。旧今川家の浪人などからすでにこの情報を得て おり、城攻めの間にその場所まで探知していた。

「大筏(いかだ)を組んで川上より次々と流し、その井楼にぶつけて粉砕してしまえ!」

 信玄の知略でたちまち井楼は破壊され、二俣城の将兵は、足元に水音を聞きながら、飲み 水も得られず、飯も炊げないという地獄のような状況になった。こうなってしまっては、戦 闘など続けていられるものではない。

 元亀3年(1572)12月15日、ついに家康の元に織田の援軍が到着した。

(どれほどの大軍を送ってくれるか・・・)

 と内心で期待していた家康とその家臣団は、わずか3千という織田の援軍を見て、呆然と せざるを得なかった。
 しかし、ともかくも時間がない。
 家康は、織田の援軍を貴賓のように丁重に扱い、3日間を休息にあててもらいながら自身は 軍勢の出撃準備を整え、12月19日、浜松を出陣した。
 しかしこのとき、粘りに粘った二俣城では、ついに城将が戦闘の継続を諦め、城兵の命の無 事を条件に開城してしまっていたのである。

 城を落ち延びた城兵たちに出くわした家康は、彼らを収容し、血が滲むほどに唇を噛み締め ながら浜松へと引き返さざるを得なかった。

 信玄はこうして、天竜川を安心して渡るための条件を満たした。
 信玄は、重要な軍事拠点となりうるこの二俣城の改修工事をすぐさま命じ、城攻めの先鋒で あった武田勝頼をそのまま城に入れ、この拠点を守らせることにした。




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