歴史のかけら


合戦師

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 平八郎の活躍もあり、家康は、最悪な状況での決戦をなんとか回避することができた。
 しかし、武田信玄に遠江の中心部――現在の袋井市から磐田市の辺り――を軍事占領されて しまっている現実に変化があったわけではない。家康は、遠江東部の高天神城や掛川城など といった重要な拠点に篭めてある軍勢との有機的な連絡を絶たれ、いわば片腕をもぎ取られ たような格好になっていた。

(さて、これで三河の小僧がどうでてくるか・・・)

 という関心が、信玄にはある。
 「三つ者(忍者)」などから情報を得ることによって、信玄は、家康が決戦兵力として使え る兵数に関しておよその想像がついていた。

(どんなに多くとも、1万を出ることはあるまい・・・)

 自軍の半数以下である。通常の状態で野戦をすれば、絶対に負けることはない。
 けれど、城攻めをするとなれば、これは面白くない。浜松城は、家康がいわば対信玄を想 定して築いた城で、平城ではあるがなかなかに堅い。これに決死の三河武士たちが篭って頑 強に抵抗すれば、陥すのに何ヶ月掛かるか知れたものではないのである。
 信玄は、家康も信長も怖れなかったが、ただ1人、上杉謙信だけは怖れていた。

(雪が解けるまでに京に旗を立て、信濃に軍勢を返さねばならぬ)

 こういう焦りが、信玄にはある。

 信玄がその腹に秘めている上洛ルートは、こうである。
 まず遠江、三河を押し通って伊勢湾まで出る。そこから水軍を使って海を横断し、伊勢に 上陸する。伊勢では反信長勢力を吸収しつつ伊賀を通って南近江へ出る。そこからは もう、京は目と鼻の先である。信長の動きを睨みながらこれと決戦し、美濃へ入り、岐阜城 を陥し、信濃へと軍勢を返せばいい。
 信玄はだから、時間の浪費と兵の損耗を極度に嫌っていた。

 信玄の本音は、家康が信長を見限って、自分に寝返ってくれればそれが一番ありがたい。 もし家康と戦うなら、野戦で勝負を一気に決めてしまいたい。
 信玄が一番嫌なのは、家康が城に篭って出てこないことであった。背後に1万近い無傷の 軍勢を残したまま西へ向かえば、いつ織田の軍勢と連携して挟み撃ちにされるとも限らない し、どこかで長期帯陣になった場合の補給線の問題も出てくる。さらに加えれば、武田勢が 伊勢に去った後、せっかく武田の勢力圏になっている遠江の一部をまた家康に取り返されて しまう公算が高いのである。
 本来の信玄の戦略的嗜好から言えば、ここでいったん東進し、掛川城、高天神城を陥し、 天竜川以東の遠江を完全に制圧してしまいたい。
 しかし、信玄には時間がなかった。

(わしは、もう長くないかもしれぬ・・・・)

 そういう予感のようなものが、信玄の中に芽生え始めていたのである。
 信玄は、昨年一度、病に倒れていた。若い頃からの戦陣生活が祟ったということもあるの だろうが、50を越えてから体力が急に衰え始め、近頃は身体を動かすことさえも酷く堪える ようになっている。周りには悟られないようにしてはいるが、自分を騙すことはできなかっ た。

(今をおいては、上洛の機会は巡って来ぬだろう・・・)

 信玄は、時間が惜しかった。だから一刻も早く、家康をなんとかしてしまいたい。

(しかし、家康は城から出てはくるまい・・・)

 そういう確信が、信玄にはある。
 信玄は、戦争をするときには、戦うその相手の性格までも知ろうし、あらゆる手を使って情 報を集め、どんな些細なことでも入念に検討を加えるような性格の男であった。三河を攻め るにあたっても、当然、家康が今までどういう生き方をし、いかなる選択を重ねてきた男で あるのかということを調査し、結果、どういう考え方をする人間かということまで予想がつい ている。

(臆病なほどに用心深く、慎重。しかも律儀で頑固か・・・。面倒な男だ・・・)

 欲深い男なら、調略で堕せる。猜疑心の強い男なら、内部分裂を謀れる。軽薄な男なら、 謀略で騙せる。しかし家康という男は、どのタイプからもほど遠かった。

(わしに、少し似ている・・・)

 と、思わないこともない。
 力の規模ということでいえば何倍も違うし、年季ということでいえば熟成の度合いが大きく 離れているし、知略の鋭さ、謀略の切れ味、大事にあたって小事を冷徹に切り捨てられる精神 の強さといったものに関してはそもそも比べ物にならないが、性格や嗜好ということでいえ ば、信玄と家康とは年の離れた双生児のように似ている。

(三河の小僧は、わしに私淑しておるらしい)

 ということまで信玄は聞いていた。
 家康は、信玄という巨人を尊敬し、その強大な武田軍団に対しても恐怖と同量の憧憬の念を 持っていた。信玄の人の使い方、領地の統治法、軍勢の進退の仕方や訓練の方法などを知ろう とし、それを真似ようとしているらしいということも知っている。自然、家康という若造に対 しては、敵とは言いながらも悪感情を持っているわけではなかった。

(しかし、わしに降らぬ限り、敵は敵だ・・・・)

 そこは、戦国の非情を煮固めたような信玄である。情けをかける気はなかった。


 元亀3年(1572)10月14日――「一言坂の戦い」の翌日――信玄は再び北進を開始し、合 代島(豊岡村)に本陣を据え、徳川方の二俣城(天竜市)を囲んだ。
 二俣城は天竜川と二俣川が合流する地点に築かれた天然の要害で、城の東西南の三方を流れ る川が堀の役目を果たし、北側には空堀を設けて敵の侵入を防ぎとめる縄張りになっており、 蜷原台地という岡の上に建っていることもあって攻め口の傾斜がきつく、非常に攻めにくい。
 余談だが、6年後、家康の長男 信康が、信長によって切腹を命じられ、21歳という若さ で悲劇的な最期を遂げることになるのが、この二俣城である。

 信玄は、この堅固な城を無理に力攻めする気になれない。緩やかに城を囲んでしばらく 様子を見、その間に別の手を用意することにした。
 信玄は3千の別働隊を作り、これを秋山信友に預け、いったん信濃の伊那まで引き返して 信長の本国である美濃の東方を脅かすよう指示した。

(信長を本国に縛りつけ、徳川への援軍を出せぬようにすれば、家康を潰すにも易く、また 万に一つ、家康が音を上げ、こちらに転ばぬとも限らぬ・・・)

 信玄の真骨頂とも言うべき抜け目ない戦略だった。
 秋山信友はこのとき41歳。30年の軍歴を常に信玄と共に過ごし、軍事にも外交にも練達の 武将であった。武田家において織田家との外交担当者であり、東美濃にも何度も攻め込んだ 経験を持っている。

「それがしに万事、お任せくだされよ」

 信友はすぐさま東美濃に侵攻し、つい先頃 城主である遠山景任が病死した岩村城(岐阜県 恵那郡)を囲んだ。
 岩村城は天下三大山城に数えられるほどの要害堅固な名城で、遠山景任の未亡人であり、 織田信長の叔母でもある お艶(つや)の方 が女城主になっている。信友は迎撃に出てきた 織田方の軍勢をさんざんに打ち破り、岩村城を囲んで兵糧攻めにし、さらにそこから外交交 渉に入り、驚くべきことに、この お艶を自分の妻にすることで岩村城を無血開城させ、天下 の堅城を奪いとってしまった。
 自分の叔母でありながら、織田家を窮地に落とすような お艶のこの振る舞いは、当然 だが信長を激怒させた。

「信友め、天下の名城と美しき嫁(かかぁ)とを一度に陥すとは、やりおるわ!」

 信長の織田家というのは美人の家系であり、お艶の美貌も隣国まで響くほどであ ったから、信玄は珍しく手を打って可笑しがった。



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