歴史のかけら
合戦師
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元亀3年(1572)10月13日に行われたこの「一言坂の戦い」は、伝説のように長く土地の人
々の記憶に刻まれることになった。
一言坂と名付けられた広くもない街道の坂下を、びっしりと埋めた馬場 美濃守 信春の軍
勢は3千。馬の産地である甲州を本拠とする武田家は、騎馬武者の割合が他家に比べて高く、
その軍勢は“武田の騎馬軍団”として天下最強と恐れられていた。
馬場信春の軍勢は、足軽小者にいたるまで白木綿の羽織を着用し、その統一された色調か
ら「武田の白備え」と呼ばれている。その白い軍団が、西日を浴びて血の色に輝いていた。
坂の上では、黒の漆(うるし)で塗られ黒糸で威された漆黒の鎧を着込み、肩から黄金色
に輝く大数珠を袈裟懸けに垂らし、燃え立つ炎を形取ったような鹿の角の兜を被った若い
武者が、“蜻蛉切”と名付けられた長大な槍を小脇に構え、馬上から敵を睨み据えていた。
それだけで、一幅の絵になるような惚れ惚れするほど見事な武者振りである。
本多 平八郎 忠勝であった。
「懸かれや!」
馬場信春が太刀を振り上げ絶叫すると、配下の騎馬武者たちが津波のように坂を駆け上が
り、殺到した。
「続けぇっ!」
平八郎を先頭に、手勢の3百が杉の木のようになって坂を駆け下り、敵に突撃する。
たちまち凄まじい格闘戦になった。
馬上の平八郎は、“蜻蛉切”を振り回し、群がり寄せる武田勢を突きまくり、なぎ倒し、
坂の下まで蹴落とすような勢いで攻めたてた。
平八郎隊の勢いに辟易した馬場隊の先鋒は、支えきれず、転がるように後退する。すかさ
ず平八郎は坂の上まで手勢を引き上げ、再び隊伍を整えるが、馬場隊も第2陣が息つく暇も
なく入れ替わり、悪鬼のような雄叫びを上げ再び坂を駆け登ってくる。
その先頭に向かって、平八郎がまた突撃し、突き崩す。
3陣、4陣と波のように寄せてくる武田勢の中で、平八郎は戦っては引き、引いてはまた
突撃し、手勢を手足のように指揮しながら阿修羅のように暴れまわった。
混戦――そして乱戦。
地獄のような修羅場の中を、平八郎は生き生きと駆け回り、突いては殺し、殺してはまた
突き伏せた。その旗指物は敵の刃によってボロボロに切り裂かれ、漆黒の鎧にはいつの間に
か5筋もの矢が突き立っていたが、平八郎の動きにはいささかの怯みも停滞もない。そのあ
まりに見事な武者振りに、眺めていた馬場信春までもがついに感嘆の声を上げた。
(家康の元には、これほどの武者がおったのか・・・!)
鳥肌の立つ想いである。
天下最強と呼ばれる武田軍の中でも最強と自負する自分の軍勢を、たった3百の手勢一手で
引き受け、一歩も引かないなどは尋常のことではない。
(これが、山県昌景が言うておった、本多平八郎か・・・!)
かつて平八郎の手勢と自ら槍を合わせた山県昌景は、この西上作戦の前に、同僚の馬場信春
に語ったことがある。
「徳川家には、鹿角の兜を被った見事な男がおる」
まるで荒ぶる神のように、神々しいほどの輝きを放っているではないか!
(・・・・殺すには惜しい・・・)
自分から見れば孫のような年齢の武者が、これほど見事に戦っている姿を見てしまっては、
馬場信春ほどの男ならばそう思わざるを得ない。
どんなに屈強な男でも、10倍の敵に延々と攻められ続ければやがては疲労し、手勢も削り
取られるようにして死に絶え、遠からず力尽きることになるだろう。しかし、そうまでして
ここでこの男を殺さなくとも、やがて信玄が家康と決戦すれば、そのときはどうせ死なねば
ならぬ運命なのである。
(これほどの男だ・・・同じ死ぬなら、主の馬前で華々しく死なせてやるか・・・・)
夕日が山の端に沈みこむ頃、馬場信春は引き鐘を打たせ、手勢を坂下まで引き下げた。
「さても見事な武者振りでござった!」
ただ一騎で進み出た馬場信春は、坂の中腹で輪乗りしながら息を整える平八郎に向け、大
声で呼びかけた。
「この続きはいずれ、我らの主君が決着をつけるときに致そうぞ! もはや我らはおぬしを
追わぬ! そうそうに引き取られるがよかろう!」
それだけ言うと馬首を巡らせ、手勢の真ん中を駆け抜けて、この猛将は去っていったので
ある。
まるで群れをなす獣のように、無言のまま、そして整然と、彼の部下たちは将の後を追って
去った。その統制され尽くした部隊運動は、平八郎が見惚れてしまうほどに見事なものであっ
た。
馬場信春は信玄の元に戻り、追撃の不首尾を詫び、いきさつを詳細に語った。
「美濃(馬場信春)ほどの者を男惚れさせるとは、その本多 平八郎という者、たいした男では
ないか」
信玄は口数の多い男ではないが、このことは素直に感心してみせた。平八郎を褒めるこ
とで、馬場信春という歴戦の勇士の名誉を救ってやろうという気になったのかもしれない。
信玄は、いっさい信春を責めなかった。
この翌日、平八郎が奮戦した一言坂(磐田郡豊田町)に、立て札が立てられた。
家康に 過ぎたるものが 2つあり 唐の頭に 本多平八
「唐の頭(からのかしら)」とは、旄牛(ヤク)の尾毛で作られた兜の飾りのことで、輸入品
であるため当時相当に貴重なものだったのだが、家康は自らの誇りとする7人の武将にこれ
を与え、名誉の印にしていた。「家康のような小身の大名が、『唐の頭』を持っているなど
は贅沢だ」ということに掛けて、「家康には本多平八郎ほどの家臣はもったいない」とい
う意味を詠ったものであろう。
この落首は、信玄の近習 小杉左近という者が作ったものだという。戦国最強と自他共に
認め、有能な人材を豊富に抱える武田勢からこれだけの言葉が贈られたというのは、ある
いはこの時代で最大の賛辞だと言っていいのかもしれない。
浜松に帰城した平八郎を見たときの家康の悦びようというのは、その後しばらく三河者た
ちの笑話になるほどであった。
「鍋! 鍋! 鍋! よう戻った! よう戻った!」
平八郎の腕を、肩を、背中を、家康は痛いほどに叩きながら叫んだものである。
家康は、先に浜松に帰りついた大久保忠世などからおよその状況は掴んでいたのだが、平
八郎がただ1人で殿(しんがり)を買って出たと聞いて、その生死については絶望的な気持ち
になっていた。天下最強の兵を引き受けての殿戦である。いかに平八郎が非凡な将でも、た
だで帰れる道理がない。
しかし平八郎は、むしろ平然と帰って来た。鎧には痛々しくも5筋の矢が突き立っており、
その指物は半ばちぎれるほどにズタズタに切り裂かれていたが、平八朗自身はかすり傷1つ
その身に受けてはいなかったのである。
家康は平八郎の奮戦のおかげで、平八郎隊を除いては1人の怪我人を出すこともなく、
無事浜松の城に帰還することができた。
「まことにお前は、八幡大菩薩がわしに遣わしてくだされたとしか思えぬ!」
家康には、もうこれ以上平八郎を褒める言葉がなかった。
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