歴史のかけら


合戦師

20

「信玄来たる!」

 という最初の報が家康の元に届けられたのは、元亀3年(1572)10月5日であった。

「武田勢は、信州下伊那(現 根羽村)より奥三河へと討ち入った模様!」

「敵は進路を南に取り、設楽郡を経て長篠城へと進軍中。その数、およそ1万」

「敵は『赤備え』、敵将はおそらく山県昌景殿! 『山家三方衆』2千を先頭に立て、 その数およそ8千」

「武田勢は長篠城に入った模様! その数およそ6千!」

 あらかじめ各地に配ってあった諜者から、情報が続々と家康の元ににもたらされる。報告 は、日を追うごとにその精度を増していった。
 全軍を戦闘準備で待機させつつ、家康は諸将を集め、軍議を開いた。

「敵は信玄ではございませぬな。どうも別隊のように見受けまするな」

 徳川家の筆頭家老 酒井忠次が、まず口を開いた。
 酒井忠次はこのとき45歳。徳川家の東方の旗頭に据えられ、家康が誇る二大軍団長の1人 として家康の片腕になって働いている男であった。家康との付き合いは今川家の人質時代か らであり、家康の叔母を妻にしていることもあって、この忠次に対する家康の信頼は絶大な ものがあった。戦場の経験にも不足はなく、「姉川」をはじめ多くの合戦で全軍の先鋒をつ とめ、数え切れないほどの軍功を積み重ねてきている。

「長篠から、どちらに向かうかが問題でござるな。進路を東へ取り、井伊谷を抜き、浜松へ 来るのか、南へ取り、我が吉田城(豊橋市)を陥しに掛かるか・・・」

「酒井殿の吉田城は、守りに徹すれば1月やそこらで抜ける城ではござるまい」

 平八郎と共にもっとも若い榊原 小平太 康政が発言した。

「山県昌景殿が別働隊であるとするなら、本隊が必ず近々に押し寄せてくるはず。我らが山 県隊に攻めかかれば、山県殿は長篠城に篭るかもしれず、そうなれば時間を稼がれ、手薄に なった浜松を衝かれぬとも限りませぬ。むしろそちらが問題・・・」

 家康は、軍議ではめったに発言しない。自分が発言すると、周りが意見を言いにくくなる ということを、この苦労人はちゃんと弁えていた。上座にあって、諸将の議論が出尽くすま で聞き入っているのが常である。

「山県昌景だけが、一手で吉田城を囲むほどの深入りはしますまい。必ず信玄の本隊と合流 しようとするはず。つまり信玄本隊は、青崩峠を越え、天竜川伝いに北から寄せてくることに なりましょう」

 平八郎にとっては、予想の通りの形である。

「解るか、平八郎?」

「小平太よ、駿河から来るのでは遠すぎる。我らが全力で山県隊に当たる時間をくれるほど、 信玄という男は甘くはあるまい」

「確かに・・・」

 各個撃破は戦略の基本である。分けた部隊を個別に討たれるような愚を信玄ほどの男が 犯すはずはなく、また信玄の宿将 山県昌景もそれを許すほど愚かな戦略家ではない。

「駿河からもし来るとすれば、それも囮の別隊であろう。信玄は必ず、北から来る」


 平八郎の予言通り、10月10日、ついに信玄の本隊が遠州北部に現れた。2万7千の軍勢 (内2千が北条氏からの援軍)を率い、遠江の北部でいちはやく信玄に寝返っていた天野景貫の 犬居城(現 春野町)に入ったのが同11日である。
 信玄は、ほぼ4万の手勢のうち1万を国内の警備に残し、残る全軍をこの西上作戦に投入 していた。今回は、本気だったのである。
 家康はすぐさま信長に援軍を要請し、同時に上杉謙信へも信玄の後方で暴れてくれるよう 使者を送った。しかし、越後の上杉謙信は、道が雪で閉ざされてしまっているために満足な 連携作戦ができる状態ではない。もちろんそこは信玄も計算済みで、だからこそわざわざ 雪の時期まで出兵を遅らせていたのである。

 武田軍の侵攻は火の様であった。
 徳川方の只来城を武田勝頼隊に攻めさせ、同時に天方城、飯田城、各和城を卵でも潰すよう な勢いで攻め潰し、わずか2日で4城を抜き、一気に遠州灘を望む三箇野(現 袋井市)まで 出た。

(早い・・・・!)

 さすがの家康も、ここまで勢いが凄まじいと為すすべがない。援軍を送ろうにも、城の方が 持ちこたえられず、間に合わないのである。しかも信玄の大軍勢が遠江の中心までいきなり 出てきてしまったため、遠江の東西の連絡が完全に途絶え、掛川城や高天神城に入れてある 軍勢が活用できなくなってしまっていた。
 またこのとき、別働隊の山県昌景は長篠から東進を始め、瞬く間に柿本城(現 鳳来町)を 陥し、すでに井伊谷(現 引佐町)の手前まで迫っていた。

(この際、山県隊は捨てる・・・)

 とっさに家康は決意した。この別働隊に振り回されてしまっては、なにもかもが信玄の思う ままにされてしまうだろう。
 家康は、信玄本隊との決戦を考えた。信長が桶狭間でやったように、今動員しうる徳川軍の 全兵力を、信玄の本隊にぶつけてしまうのである。時間が経てば、それだけ武田勢は遠江での 勢力をどんどんと伸ばしてしまうだろう。しかし今なら、5千とも8千ともいう山県隊が信 玄の本隊にいないのである。

(・・・他に手はない・・・!)

 13日、家康は、武勇抜群と見込んでいる大久保忠世、内藤信成、そして平八郎の3将に3千 の兵を預け、武田勢へと先発させると、自ら残る全軍を率い、浜松を出陣した。

 信玄はこのとき、三箇野北西の久野城(袋井市)を囲んでいたが、城将 久野宗能が守りに徹し て動かないため、この小城を無視することに決め、南進をやめ、見附(磐田市)から北に進路 を取って天竜川に平行して行軍していた。

「あれが天下に名高い武田信玄の軍勢か・・・」

 天竜川を渡った平八郎たちは、猟犬のように村々を駆け過ぎ、間道を抜け、林を縫うように 走りながら敵とつかず離れずの距離を保ち、信玄の軍勢を偵察した。

(・・・・これは・・・聞きしにまさり凄まじい!)

 平八郎は、信玄自らが率いる軍勢を初めて見、ほとんど呆然とした。
 全軍が、まるで一匹の巨大な猛獣のようであった。歩卒の足音までが一糸乱れず、軍気は 静まり返っているのに内に秘めた闘志が上空に向けて湧き立つように迸っている。しかも、 行軍中であるにも関わらず全軍が引き絞った弓のようにしなやかで、後ろから平八郎た ちが討ちかかれば、たちまち反転して大攻勢を掛けてくるような殺気をはらんだ緊張感が 足軽の端々にまで漲っていた。

(・・・・ダメだ。いま討ちかかっても怪我をするばかりで、とても勝てぬ・・。それどこ ろか、お味方が天竜川を渡ってしまえば、下手をすると川に追い込まれて全滅するぞ・・ ・)

 天竜川というのは、甲州、信州の大河が集まってできた川で、川幅が広く、その流れは滝 のように凄まじく、瀬音なども轟々として尋常ではない。この天竜川に押し付けられるように して武田軍から攻められれば、味方は、進めば討ち死に、引けば溺死である。
 平八郎の背に、冷たいものが流れた。

 平八郎は一旦引き、他の2将を集めた。

「大久保殿、内藤殿、これはとてもダメじゃ。わしは一旦戻って殿さまに敵の様子をお知ら せし、ここでの決戦を避け、浜松に引き返すよう進言しようと思う。ご両所、どうか?」

「平八郎の申す通りじゃ。わしもここで戦うは愚策と見た。我らはここに残り、新たな殿さま の下知(命令)あるまで信玄の軍勢を追う。平八郎、早う行け」

 年頭の大久保忠世が平八郎を支持し、家康の異母弟と噂のある内藤信成も異論を挟まなか った。
 平八郎は天竜川に向けて行軍中だった徳川本隊に駆け戻り、家康に見たままを報告した。

「今うかうか戦えば、お味方は全滅するやもしれませぬ。ここは一旦兵を引き、浜松で織田 殿の援軍を待ち、次の機会を窺う方が得策かと存じまする!」

 家康には、躊躇も迷いもなかった。

「引き上げる!」

 ただちに全軍を反転させ、浜松へと撤退することにしたのである。

 家康は、平八郎の戦場における勘というものにはすでに全幅の信頼を置くようになってい た。だからこそ、この信玄相手の重要な局面でさえ、平八郎に先鋒を任せたのである。

 家康は、平八郎に、すぐさま前線へと駆け戻り、先発させた軍勢を連れ戻すよう指示し た。




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