歴史のかけら


合戦師

 織田信長が家督を相続した天文20年(1551)ごろから話を始めたい。

 織田家が支配する尾張(愛知県西部)というのは、先進地帯である。
 肥沃で広やかな濃尾平野は物成りが良く、何本も大小の川が貫通していることから水運も 良く、地理的に他国へと通ずる道が四通八達し、また熱田から伊勢への海路も拓けていて、 まず商業の一大中心地と言ってよかった。
 それに比べると、三河(愛知県東部)は尾張とはまるで違っている。

「三河は人よりも猿の数が多い」

 と、この当時、尾張のあたりでは言われていたらしい。
 土地のほとんどが山で平野が少なく、とても稲作に向いていると言えるような土地柄ではな い。そこに住んでいる三河人というのは、わずかな畑にかじりつくようにして粟(あわ)とか 稗(ひえ)とか言ったものを食べている。
 とにかく貧しい。
 当時から、三河はそれほど極端な後進地帯だったのである。
 自然、尾張人と三河人とは、これが地続きの国かと疑わしくなるほどに暮らしぶりも人間 性も違ってしまっている。

「尾張人は狡猾」

 と言われる。
 早くから商業が盛んな土地柄だったためか、人々に投機的な気分があり、陽気で利に聡く、 機転が利く。悪く言えば、こらえ性がなく、ズルイ。
 これに比べ、三河人は極端なまでに農民型であった。
 投機を嫌い、土地にしがみつく。律儀で篤実で義理に厚く、我慢強いかわりに、排他的で 非開放的で陽気さがない。
 しかし、兵は強い。

「尾張兵3人に三河兵1人」

 などという評価さえある。
 三河武士というのは常に、寡兵よく敵と戦う。主人には犬のように忠実で、劣勢に粘り強く、守戦に恐ろしく強い。
 尾張の人間から見れば、自分たちとは別人種かと思うほどに三河人というのは不思議な集団 であった。


 平八郎 忠勝を産んだ本多一族というのは、もともと三河に根を張る土豪であった。
 奥三河の松平郷という山深い集落に、古くから松平党と呼ばれる武装集団がある。豪族と いうのは、内部に多くの小豪族を系列会社のように吸収することで出来上がってい るのだが、松平党の中核を担っていた本多一族というのは、三河の土豪のなかでも大族で、 松平党の結成直後からこれに付き従っているという、いわば最古参の譜代の1つであった。

 ちなみに三河には、本多姓が多い。「鬼作左」と呼ばれた本多 作左衛門 重次や、後に家康 の謀臣として寝所にまで出入りを許されたという本多 弥八郎 正信などが有名だが、平八郎 忠勝の本多家は、本家の当主が相次いで戦没したため、この当時、当主不在であった。

「本多の家は後家で保つ」

 などと、三河の岡崎城下では言われている。
 気丈な後家が、当主の不在を健気に1人で守っていたのである。
 名を小夜(さよ)と言う。
 まだ20歳に過ぎない若後家であった。


 この時代、三河は暗黒時代であったと言っていい。
 当時、松平党は、岡崎を中心に三河の3割ほどを勢力範囲にしていて、三河では他に頭1 つ抜きん出た存在であった。
 当主を、松平竹千代という。後の徳川家康である。

「竹千代さまほど、お可哀想なお子はない」

 と、岡崎に住む者たちは常に泣きながら東の空を見上げていた。
 竹千代は、遠江と駿河(現 静岡県)を治める今川氏の人質になっていたのである。

 この当時、三河は今川家の属領であった。
 今川氏というのは、甲斐の武田氏、小田原の北条氏などに比肩しうる強大な軍事力 を有する守護大名で、当主の今川義元は凡庸な人物ではなく、「海内一の弓取り」な どと呼ばれている。事実、そうであったであろう。
 三河というのは、つまり西へと膨張しようとする今川家と、それを阻止しようとする織田家 とが衝突を繰り返す場所なのであった。当主を人質に取られている三河の武士たちは、今川家 の奴隷のように扱われ、常に一番危険な戦場に放り込まれ続けていた。
 三河人は、今川家の武士たちから平素は人として扱ってもらえぬほどの差別を受け、過多な 年貢を巻き上げられ、戦場においては捨石のように使い捨てにされた。
 自然三河には、東を呪詛する声が絶えたことはない。
 彼らはそれでも、歯を食いしばるようにして耐えていた。

「竹千代さまが岡崎にお帰りになれば・・・・!」

 そのことだけを心の拠りどころに、三河人たちは不遇の時代を我慢し続けていたのである。


 本多の後家――小夜には1人、息子がいる。
 先代 本多忠高との子で、鍋之助という。まだ4歳の子供であった。

 夫の忠高は2年前、今川義元の命令で三河衆が織田家の支城であった安祥(あんじょう)城 を攻めたとき、見事に城に一番乗りを果たし、そしてその直後、針鼠のように全身に矢を 浴びて死んだ。22歳の若すぎる死であった。
 忠高の父 忠豊も、その3年前に竹千代の父 松平広忠の身代わりになって壮絶な討ち死にを 遂げている。本多家とは代々、死狂いに主君のために働き続けてきた一族なのであった。
 当時まだ18歳でしかなかった小夜は、夫の訃報に接しても、涙1つ流さなかった。幼子 であった鍋之助をかき抱き、まんじりともしなかったという。
 本多家の本家には、戦場働きができる男がいなくなった。

「鍋之助、早う大きゅうなりなさい」

 幼い鍋之助を背負い、自ら泥田のなかを這いずるように働きながら、小夜は懸命に生きた。

「そなたの父上は、織田の安祥の城に一番乗りを果たされ、見事なる討ち死に をなさいました。そなたも、父上に負けぬ男にならねばなりませぬ」

 小夜は、幼い「鍋」の子守唄代わりにこのことを言い続けた。

「殿さまを守って討ち死になさった祖父上のように、駿河におわす竹千代さまのために死に なさい。殿さまのために、見事一番乗りの武功を樹てられた父上のように死になさい」

 鍋之助――後の本多 平八郎 忠勝は、この気丈な母が創ったといっていい。





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