歴史のかけら


合戦師

19

 家康は、元亀元年(1570)――「姉川の合戦」が行われる直前――に、居城を長年住み暮ら した岡崎から遠江の浜松へと移した。
 天竜川と浜名湖に挟まれた三方ヶ原台地の東南に、5丁(500m)四方の広大な縄張りを張り、 石垣を積み、曲輪をめぐらせ、梯郭式の堅固な城を築いたのである。

「先祖以来の岡崎を捨てるなぞ、殿さまは狂いなされたか!」

 岡崎に長く暮らした子飼いの岡崎衆からは、不満が続出した。
 それも当然であったろう。家康は、武田信玄という強大な敵に備えるためとはいえ、いわ ば敵に向かって首都を移したのである。家康の領国というのは今や東西100km以上にもわたっ て長く伸びており、岡崎に本拠を置いたままでは、駿河(静岡県東部)からも信濃(長野県) からもやってくる武田信玄の軍勢に対処しきれなくなっていた。

「我らに何の相談もなく居城を浜松に移すとは、困惑する」

 家康を便利使いしたい信長からも、このことには強い抗議が届いた。岡崎からなら織田領ま で2日と掛からないが、浜松からでは難所も多く、呼び出すのに時間が掛かってしまうのであ る。
 しかし家康は、この浜松移転だけは我を曲げず、頑として譲らなかった。
 家康が、その生涯で信長の意向に逆らってまで行ったことといえば、この武田信玄への対決 行動だけだったといっていいだろう。家康は、その存亡を賭けて、本気で、戦国最強と言われる 武田信玄と戦う気持ちを固めていたのである。

 しかし、百に一つも勝てるとは思っていない。


「鍋、供をせよ」

 元亀3年(1572)夏のある日、家康は平八郎を伴って三方ヶ原へと鷹狩に出た。

「信玄は、明日にも押し寄せてくるやもしれぬ・・・・」

 従う者は、家康の命でわずかな手回りのみであった。家康は、平八郎と話すことで、自分 の思考をまとめたかったのであろう。
 平八郎は、自ら家康の馬の口を取り、歩いていた。

「敵はおそらく2万から2万5千。駿河より大井川を渡って遠江に入り、掛川城、高天神城 と攻めかかって来よう。わしの手持ちの軍勢はせいぜい8千。迎え撃ちに出れば、三箇野 (現 袋井市)あたりで決戦することになるか・・・」

 この2年ほどの間に――心労のためでもあろう――家康はげっそりと痩せてしまっていた。血走った大きな目には濃い隈が浮き、豊かだった頬は見違えるようにこけ、一種の鬼相を帯び るようになっている。

「鍋は、どう見る?」

「おそれながら、敵は信玄ほどの名将、そう正直には参りますまい」

「存念を申せ。鍋ならわしをどう攻める?」

「されば、まず、軍勢を3つに分けまする・・・」

 駿河から5千ほどの1隊を進ませ、掛川城、高天神城を攻撃させる。同時に別の1隊を もって信濃伊那口から三河の東北部へ攻め入らせ、手薄な岡崎を脅かす。そして本隊が、 信濃から青崩峠を越え、天竜川に沿って遠江北部へ進入し、直接に浜松を目指す。

「武田勢は、数においても力においても我が方を上回っておりますれば、信玄子飼いの名の ある武将に率いられた5千の軍勢を破ることさえ、容易ではありませぬ。なればこそ、敵が 一度に三方から攻めてくれば、我らは振り回され、東西の救援もままならぬまま、最後には 浜松にて決戦となり、為すすべないかと・・・」

「その通りじゃ・・・」

 家康は蒼白になった。

「我らにはこの戦、もともと勝ちはない」

「いかに負けぬか、という思案をいたしまするか?」

 平八郎も、この数年、武田の圧迫を肌で感じながら、懸命に対処法を考え続けていた。

「申してみよ」

「遠江と三河のすべての城を捨て、すべての手勢をまとめ、岡崎に引きこもりまする。され ばお味方は1万3千。これに、織田殿から援軍が2万も加われば・・・勝敗は天の知ると ころでござるが、面白き戦ができるやもしれませぬ」

 信玄の目的は、京に武田の旗を立てることであろう。
 つまり信玄の本当の敵というのは家康よりもむしろ信長で、尾張国境の近くまで武田信玄が 攻めてくれば、「桶狭間」のときのように、信長としても全力を出して信玄と戦わざるを得 ないのである。

「我ら一手にて武田に当たるは、もともと無理の無理。あの武田信玄を破るには、これより 手はないと勘考仕りまする」

「それは・・・な、わしも解っておる・・・・」

 家康も、そのことについては考え尽くしている。戦略家としての家康は、それが最上の策 であるということは、とうに解っていた。

「織田殿も、当然そう考えておろう。しきりに岡崎に引き返せと申してくる」

「御意」

「だがな、・・・鍋はそれで幸せか?」

「・・・・・は?」

 平八郎は、質問の意味が解らず、馬上の家康を見上げた。

「己の主人が、武田信玄の軍勢に恐れをなし、一戦もせずに城や領地を捨て、織田殿の膝元 に逃げ込み、その助けにすがる・・・・。そのような情けなき主人を持つことが、侍にと って幸せか?」

「・・・・・・・・・・」

「我が領民は幸せか? 危機においてこそ頼むべき領主が、自分の領地を守らず、一戦もせ ずに領民を捨てて織田殿の元に逃れたとあれば、なんのために我が百姓は、我らに米を収め るのだ?」

 家康は昂然と前方に広がる三方ヶ原を眺めやった。

「わしは、小さきといえども武門の棟梁である。我が郎党たちの“一所懸命”の地を、わし が命を捨てても守るからこそ、我が郎党たちはわしに命をくれてきたのだ。そのわしが、信 玄を恐れるのあまり、我が郎党たちの血と汗で購ったこの領地を捨て、城を捨て、織田殿に すがったならば、わしのために今まで死に狂いして働いてきてくれた我が郎党を裏切ること になるではないか!」

「・・・・・・・・・・・!」

 平八郎は、目の覚めるような思いであった。戦略家として――合戦師としての視点では、 大名である家康の目線には届いていなかったのである。

「鍋、この家康になって思案せよ。われが家康ならば、信玄が来たりと聞き、尻尾を巻いて 逃げるか?」

 平八郎は、すでに死を決してしまっている家康の気持ちが解った。もはや、戦略論をどう こうするときではないと悟っていた。

「・・・・・・・・・・・・・逃げられませぬ」

「避けることができぬ戦ならば進んで戦い、避けることができぬ死ならば進んで死ぬ――そ れが、武門というものではないか――?」

 まるで自分に言い聞かせるように、家康はぼそぼそと言った。
 家康は、本来、英雄じみたところが1つもない男であった。常に臆病なほどに慎重であり、 その思考は牛が草を咀嚼するように決断がのろく、その行動には爽快さが微塵もなかった。この 男に、英雄としての資質をただ1つ認めるとするならば、「信玄西上」のときの、この 死を賭した狂気のような決断であったろう。
 家康は、自分の郎党に対しては常に慈悲深く、その不幸には共に泣き、その幸せには共に 喜んでやるといった一つ家族のような優しさがあった。家康の、その体温さえ感じてしまう ような泥臭さと思いやりというものを知っているからこそ、家康の家臣たちは損得利害を超 えて、家康のために喜んで戦場に赴いたのである。
 それこそが、この家康をして、後に天下を獲らしめたものであったに違いない。


「殿さまの仰せ、誠にごもっともでござりまする。平八郎が間違うておりました」

 平八郎は、胴が震えるほどに感動していた。家康に仕え、家康と共に生き、共に死ぬこと ができる自分の幸せが、嬉しくてたまらなかった。

「さればこの平八郎、喜んで殿さまのご馬前で死にまする。死ぬと決めれば、たとえ武田の大 軍団が相手といえど、もはや怖るるに足りませぬ!」

 平八郎は、この遠江で家康と共に死ぬことを心に決めた。




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