歴史のかけら
合戦師
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平八郎たちの活躍もあり、姉川ではどうにか勝利を収め得たものの、信長の惨憺たる日々
というのは、むしろ始まったばかりであったと言うほうが正しいかもしれない。
足利義昭(よしあき)という男がいる。
足利12代将軍 義晴の次男で、若くして奈良の興福寺一乗院の門跡となり、僧名を覚慶(かく
けい)と名乗っていた。兄である将軍 足利義輝が松永久秀らに殺された後、還俗し、南近江
の六角氏、若狭の武田氏、越前の朝倉氏などの庇護を求めて諸国を放浪し、ついに岐阜の
信長を頼り、その武力によって足利15代将軍となり、そのまま最後の将軍になってしまう男
である。
義昭は、陰謀の人であった。頭の回転が速く、小知恵が剃刀のように切れる。
若くして僧籍に入ったために世間も苦労も知らず、「征夷大将軍」という肩書
きが持つ煌びやかさと神聖権だけを無邪気に信じ、その将軍家の血筋に生まれた自分が天下の
権を握ることが当然であると思い込み、何の実力ももたないくせに、往年の足利家の復権と
天下の諸侯に号令する自分の姿を夢に見続けていた。
どんなに切れ味が鋭くとも、しょせん剃刀というのは、顔を剃ることくらいにしか使えな
いということかもしれない。
義昭は、信長を利用することで将軍職に就いた。しかし、信長も自分を利用しようとして
いるだけらしいということに、ほどなく気づくようになった。
信長の武力によって保護され、その銭で三度の飯を食い、館を建ててもらい、容儀を整え、
何人もの女を囲っていたこの男は、将軍である自分が信長の傀儡であることに我慢がならな
くなった。足利将軍の名を使ってしきりに四方の群雄に手紙を書き、信長を討てとけしかけ
始めたのである。
元亀元年(1570)からの信長と家康の悪戦苦闘というものは、そのほとんどが義昭の陰謀が
原因であったといっていい。
元亀2年(1571)の一連の政治的トピックは、足利義昭という陰謀の達人が作り上げた
一大傑作であったといえるだろう。義昭は、すでに信長と交戦状態にある朝倉・浅井両氏に
加え、摂津(大阪)の石山本願寺の大勢力、比叡山の僧徒、伊勢長島の一向門徒、南近江の
六角氏の残党、阿波の三好氏、さらに中国の毛利氏、小田原の北条氏、越後の上杉謙信、
甲斐の武田信玄などに御内書を密送し、喧嘩を仲裁し、上洛を促し、信長に対して一大包
囲網を形成しようとしたのである。
「信玄の西上」という戦国史に残る一大事件は、こういう時代の流れの中で起こった。
武田晴信――入道して徳栄軒 信玄。このとき51歳。
新羅三郎義光を祖とする甲斐源氏の名流 武田氏に生まれたこの男の生涯は、合戦と謀略と
侵略の半世紀といっていい。21歳のとき、クーデターを起して実の父親を駿河へ追放し、甲斐
の国を実力で相続した信玄は、以来常に他国に討って出ての侵略戦争を繰り返し、元亀元年ま
でで自ら出陣すること実に60回。勝率はほぼ7割に達し、黒星がたったの3回。あとは勝敗つ
かずの痛み分けで、つまり、戦えば9割5分の確立で負けなかった。信玄ほどの戦争上手とい
うのは、我が国の長い歴史を見渡してもごく稀少といっていい。
有能な兄弟と勇猛な武将を多く抱え、強大な騎馬軍団を擁し、独特の訓練法で信玄の呼吸さ
えも感じ取るまでになった甲州兵というのは当時天下最強と言われた。
外交・政略をもっとも得意とし、知略も抜群で、調略で城を奪ったり敵を寝返らせたりす
ることは名人のように上手く、「信玄堤(つづみ)」や「棒道」や金山発掘でよく知られるよ
うに土木工事を特技にし、しかも民政と人心収攬が巧みで、信玄が治める国では、彼はほと
んど神のように崇拝されていた。
「人は城、人は石垣、人は堀」
という有名な言葉が、信玄にはある。
信玄は人材を愛し、その長所をよく引き出し、適材適所に使った。家臣団の団結力と信玄へ
の心酔というのは凄まじいほどで、現に信玄が生きているあいだ、彼の家臣で離反する者は
ほとんど出なかった。
これほどの武田信玄が、その生涯を賭けて築き上げた版図がたった120万石そこそこという
のは逆に奇異な感じさえするのだが、信玄の不幸は、山国で平地が少なく、海さえない甲
斐(山梨)、信濃(長野)といったあたりを本拠にしなければならなかったことと、北の隣国で
ある越後に上杉謙信という稀代の戦争芸術家があり、東に関東8ヶ国――250万石の覇王 北条
氏康が盤居し、信玄を含めた三竦みの状態になっていたことであろう。
「川中島の戦い」や「敵に塩を送る」という故事でもよく知られるように、信玄と謙信と
いうのは宿命のライバルといったような関係で、戦えばほとんど勝敗がつかず、信玄はこの
謙信という男とのつばぜり合いで、一生の精気のほとんどを使い尽くしたようなものであっ
た。
北条氏康は北条氏康で、北条氏の家祖 北条早雲をも凌ぐといわれたほどの人物であり、
いかに信玄や謙信が挑みかかろうと、そのつど侵攻を跳ね返し、戦争で奪った部分は政略
で取り戻され、結局、関東の地盤を揺るがすことはできなかった。
大北条氏の氏康が死に、三竦みの状態に終止符が打たれたのが、この元亀2年であった。
信玄は――足利義昭の仲介などもあって――北条氏と同盟し、本願寺勢力と結びつくことで
加賀の一向門徒勢力を操作し、これを使って上杉謙信を牽制することで、ようやく京都への
出兵が可能になった。
信長は、この武田信玄という男を生涯恐れた。
そのはずで、信長の本拠である岐阜というのは、信玄の信濃と隣接しているのである。
信玄がその気にさえなれば、瞬く間に岐阜城まで軍を進めることができるであろう。
信長は、外交ではひたすら信玄に平身低頭し、季節ごとに金に糸目をつけない音物を贈り、
自分が京を押さえてしまったことについてもいちいち言い訳のような報告をし、その感情を
損ねまいと気を配り、虎を穴から引き出さないよう細心の注意を払い続けていた。
信玄には勝頼という後継者がいるのだが、信長はこれがまだ正妻がないことを知り、養女を
人質として送るようにして輿入れさせた。この養女がたまたま病で死ぬと、今度は自分の息子
に信玄の娘を娶わせたいと懇願したりして、とにかく信玄を敵に回さないようにあらゆる手を
打ち続けていたのである。
家康も、もちろん信玄などを敵に回したくはない。
しかし、信玄の方は許してくれなかった。
信玄は、駿河を平定するや家康との協定を無視して遠江にまで手を出し始め、元亀元年
(1570)にはついに信濃(長野)から直接 本国の三河へ軍勢を派遣してくるようになった。
三河は、海際の岡崎平野と豊橋平野を除けば三河高原という山地ばかりの国で、とくに三
河東北部は「奥三河」と呼ばれ、独立心の強い豪族が多く根を張っている地域であった。この奥
三河に盤居する「山家三方衆」と呼ばれる豪族三氏がいち早く信玄に寝返ってしまったため、
家康は三河の3割ほどの土地を失うはめにさえなったのである。
元亀2年3月、信玄は自ら2万5千の大軍を率いて遠江の高天神城を包囲した。高天神城は
大井川の手前にある高天神山に作られた難攻不落の城で、「高天神を制する者、遠州を制す」
といわれたほどに重要な遠江東部の軍事拠点である。
このときは信玄自身に本気で攻める気がなく、威力偵察くらいのつもりでいたこともあ
って、城将の小笠原長忠の奮戦でなんとか追い返しはしたものの、家康は、もはや媚
態外交を続けていられる状態ではなくなった。
このまま家康が弱腰を続ければ、三河はともかく、遠江の新参の家臣たちが家康を次々と
見限り、信玄に寝返ってしまうおそれさえあった。家康は限界を悟り、信玄と対決する腹を
固め、上杉謙信に同盟をもちかける使者を送った。信玄を南北から挟み撃ちにしようと提案
し、武田家と断交したのである。
「小僧、わしに敵対するか!」
信玄は、この家康の動きに激怒した。
というより、激怒するふりをしてみせた。内心は、これで公然と徳川領に攻め込む理由
ができたと、ほくそえんでいたのである。
この家康の外交は、信長には大迷惑であった。
家康と同盟している信長は、家康が信玄と敵対してしまったために自動的に信玄の敵になり、
本国の岐阜が脅威にさらされることになってしまったのである。
そうでなくとも、去年、摂津(大阪)石山の本願寺が信長に宣戦布告したため信長の領国で
は一向一揆が続発し、たとえば伊勢の長島では10万人規模の一揆勢力が気炎をあげていたし、
3千といわれる比叡山の僧兵たちまでが信長に対抗しはじめていた。浅井・朝倉氏、南近江
の六角氏残党もあいかわらず頑強に抵抗を続けており、阿波の三好氏も摂津にたびたび出没
しては虎視眈々と京を狙っている。
信長の周りは、足利義昭のおかげで、今や敵だらけになっていた。兵を分散させられ、
信長自身も今日は琵琶湖で戦い、明日は大阪で戦い、といった風に西に東に振り回され、飛
び回るようにして四方の敵と戦い続けていた。
この状態で、戦国最強の武田軍団など相手にできるわけがない。
「信玄西上」という事件は、信長にとって、生涯最大の危機であったといっていい。
これは同時に、家康にとって滅亡の危機でもあった。
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