歴史のかけら


合戦師

17

「小平太! 小平太!」

 家康は、旗本の侍大将である榊原 小平太 康政を呼び出した。
 榊原康政は、家康が平八郎と共に最も信頼する若手の武将で、後に徳川四天王に数えられ、 「およそ康政が向かふ所、打破らずといふ事なし」とまで言われたほどに合戦上手な男であ った。

「われは今すぐ朝倉勢の脇を衝けっ! 急げ!!」

「承知!」

 康政は、この乱戦にも関わらず家康の本隊から5百人を引き抜き、これをまとめ、一散に 姉川の下流に向かって駆け出した。戦場を大きく迂回し、ちょうど朝倉方がやろうとした側 面攻撃をしようというのである。
 朝倉軍には、この榊原康政隊に対応できるだけの目の利く武将がいなかった。
 康政は戦場が一望できる台地の上に這い上がり、そこから一直線に朝倉勢の伸びきった 脇腹に向けて突撃した。
 さすがの朝倉勢も、一瞬狼狽し、勢いが失せた。

「今ぞ! 三河武士の底力を見せろや!」

 家康は絶叫した。
 このわずかの隙をついて、全軍を挙げて反撃に転じるべきであった。浮き足立った正面の 敵さえ壊走させれば、連鎖的に敵の中軍も混乱し、確実に逆転へのきっかけになり得るのであ る。
 しかし――

 しかし、家康にはもう予備の兵力がなかった。すべての三河武士たちが、すでに全力以上の 死力を振り絞って戦い続けているのである。どの顔も疲労し、蒼白になり、呼吸さえ満足に 整えることができないでいた。いま戦を止めていいと言われれば、誰もがその場に大の字に なって倒れ、起き上がれなくなっていただろう。

 家康の叫びも虚しく、朝倉勢が、再び勢いを取り戻そうとしていた。

 そのとき――

 そのとき平八郎は、敵の別働隊を壊走させ、これを追撃し、戦闘力を完全に奪い去って 再び主戦場に戻ろうとしていた。
 戦場が見渡せる高台まで引き返したとき、平八郎が見たものは、朝倉勢に肉薄され、いま にも崩れ去ろうとする家康の本隊と、旗本に囲まれながら、懸命に馬を走らせ、鞍壺を乱打 しつつ絶叫する家康の姿であった。

(・・・と・・殿が死ぬ・・!)

 瞬間、平八朗の意識は地上から失せていた。
 前後の見境もなく、自分が将であることさえ忘れ、馬に一鞭入れるや高台を駆け下り、 まっしぐらに朝倉勢の本隊目掛けて突撃したのである。平八郎のあまりの無謀に、後続すべ き平八郎の寄騎たちは躊躇した。
 続けなかった。
 いや、続けないであろう。悪鬼のような殺気を放ちながら奔流のように雪崩をうって走る 人間の大集団に、正気の人間がたった一人で突撃できるものではない。寄騎たちには、その 意味で、まだ正常な意識があった。同じ死ぬなら、家康の馬前で、という気持ちもある。死 にたくない、という生物としての正しい欲求もある。彼らは、狂えなかった。

 平八郎は、狂っていた。
 すでに、意識さえない。
 ただ、もっとも敵が多くいるあたりに突き入り、手当たり次第に敵を殺して回っていただけ である。“蜻蛉切”が宙を薙ぎ、血煙があたりに舞い上がり、阿鼻叫喚の地獄絵を描き出して いた。

 家康は、見ていた。
 平八郎隊が、不意にはるか前方の台地の上に現れ、その中から鹿角の兜を被った漆黒の武者 が、たった1人、敵陣に向かってまっしぐらに突撃していく姿を見ていた。

「・・・鍋っ!!」

 家康は、魂が震えるほどに感動した。たった1人で、1万の敵に突撃してゆく武者のな んと健気なことであろう。自分への忠誠のために、命を捨ててしまった男の姿を見、家康 は泣き出していた。

「鍋が死ぬっ!! 鍋が死ぬっ!!」

 家康が、狂った。
 この自己保存に過剰なまでに敏感な男が、我を忘れ、一騎駆けの武者のよ うに太刀を抜き放ち、旗本どもの静止を振り切り、朝倉勢へ向かって突進したのである。

「鍋を討たすな!! 鍋を討たすな!!」

 家康は泣きながら絶叫し、絶叫しながら駆けた。
 このとき、奇跡が起きた――

 家康の狂気を、すべての三河者たちが感じ取っていた。
 狂気が、水面を奔る波のように伝播し、すべての三河武士を狂人へと変えた。彼らは死を 忘れ、生さえも忘れ、家康とともに面も上げずに槍をかざし、朝倉勢へと突撃し始めたので ある。
 朝倉勢の前衛が、浮き足だった。
 当然であろう。
 死兵と化した三河武士たちが、味方の屍さえも乗り越えて、怒涛のように前進してくる。 そうでなくとも中軍では榊原康政が鬼神のごとく切り働いて退路を断っており、もはや引く ことも踏みとどまることもできないのである。
 ついに前衛隊が崩れたち、四散して逃げ去り始めた。
 勢いを盛り返した徳川勢は、そのまま敵の中軍に向かって突き進んだ。

 そのころ織田勢は、ついに11段目の備えさえも破られ、佐久間信盛率いる第6陣が半ばまで 切り裂かれていた。

「使番! 稲葉隊に浅井勢の横腹を衝けと伝えよ! 織田殿を助け参らせよ!」

 狂気の去った家康は、すぐさま右翼の稲葉通朝隊を浅井勢の右側面へ突きこませた。
 ちょうどそのころ、戦況の不利を悟った信長は、横山城の押さえに回していた3千の兵から 1千5百の別働隊を引き抜き、浅井勢の左側から横撃するよう指示を出していた。
 これが、ほぼ同時だった。
 左右両横から立て続けに浅井長政の本隊を直接攻撃された浅井勢は、さすがに混乱し、 突撃の勢いが死んだ。しかも、川下では朝倉勢が徳川軍によって崩れたち、中軍でも支えき れず、ついに全軍が壊走を始めようとしていたのである。
 このことが、勝敗を決定付けた。
 浅井長政は戦闘の継続を諦め、軍をまとめて一斉に退却に移った。
 死にかけていた織田勢は息を吹き返し、逃げ惑っていた尾張兵たちが目が覚めたように敵に 向かって駆け始め、瞬く間に攻守が逆転した。

「追え! 一兵たりとも逃がすでない!!」

 信長は、ここで自ら馬を出し、織田全軍が猟犬のように浅井勢を追撃し始めた。


 平八郎は――
 平八郎は生きていた。
 平八郎は単騎で朝倉本隊の中央まで突き進み、そこで大力無双の豪傑といわれた真柄直隆 と一騎打ちを演じていたのである。
 この時代、合戦というのは、あくまで個人の功名手柄が人々の利害基盤になっていた。 集団戦は確立していたが、それはあくまで足軽などの軽卒がするもので、馬に乗るほどの武者 になれば、一騎打ちなどということも普通に行われていたのである。この、「手出し無用の一 騎打ち」が、あるいは平八郎の命に幸いしたかもしれない。
 真柄直隆は、五尺二寸という常識外れの巨大な太刀を振り回し、平八郎に挑みかかってきた。 馬を駆けさせ、駆け違い、何合も打ち合ったが両者一歩も譲らない。遠巻きにできた人だかり の中で二人が戦ううちに、朝倉軍の前衛が壊走し、中軍も崩れたち、あたりがたちまち大混乱 になった。
 事態を把握したのは真柄の方が早く、呆然とする平八郎に一瞥をくれ、馬首を返すと一散に 走り去ってしまった。

(・・・・お味方の勝利か!)

 我に返った平八郎が見たものは、後ろも振り返らず逃げ去ってゆく朝倉勢と、平八郎を 追い越し、敵を求めて駆け去ってゆく三河武者たちの姿であった。


 姉川の合戦は、織田-徳川連合軍の大逆転勝利に終わった。
 浅井-朝倉軍が小谷城へ逃げ込むと、信長はそこで追撃を諦め、軍を引いた。
 浅井氏にも朝倉氏にも、決定的なダメージを与えるというには至らなかったのだが、信長 にとっては、いま城攻めをして傷を受けるよりも、「姉川大勝利」という揺るぎない事実と 確かな評判の方が重要だったのである。
 信長には敵が多すぎ、しなければならないことが多すぎた。


 戦後、直ちに開かれた論功行賞で、信長は、朝倉勢に横槍を入れて逆転のきっかけを作った 榊原康政と、家康の本陣で家康を守って奮戦した鳥居四郎左衛門という武士と、敵陣に単騎で 突っ込んだ平八郎とを絶賛した。

「たった1騎にて1万の敵に向かって駆け入るなぞ、唐 天竺は知らず、本邦では古今絶無の ことである!」

 平八郎は盃を授けられ、信長は上機嫌で自らそれに酒を注いだ。

「本多平八郎! その武勇、まさに噺に聞く唐の『張飛』のようじゃ! そちのような家人を 持った徳川殿は果報である!」

 信長は、「万夫不当(1人の武力が兵1万に相当する)」と言われた三国志の豪傑『張飛』 になぞらえ、平八郎の武勇を激賞したのだった。




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