歴史のかけら
合戦師
16
伊吹山地の水を集めた姉川は、山地の急斜面を過ぎると緩やかになり、琵琶湖畔のこのあ
たりでは、静かに穏やかに流れている。
元亀元年(1570)6月28日早暁、平八郎は、朝霧に霞む川面を睨むように眺めていた。
姉川は、半丁(50m)ほどの川幅がある。水深は、3尺(91cm)ほどだと聞いている。
風になびく旗の音と馬のいななきだけが、静寂の世界に響き渡っていた。
家康は、酒井忠次隊1千を先鋒に、第2陣 小笠原 長忠隊1千、第3陣 石川 数正隊1千
をそれぞれ配し、家康本隊に2千、さらに右翼に遊撃軍として信長から借りた稲葉通朝隊1
千という布陣である。
平八郎は、自らの一隊2百を引きつれ、家康の本陣の左翼にあった。
「鍋、明日はわれに特に役目を与える」
昨夜遅く、織田家の軍議から自陣に帰った家康は、手勢の部署を決めながら平八郎を呼び、
言った。
「朝倉は、どう少なく見積もっても1万は出張っておろう。北国勢の勇猛は、わしも金ヶ崎
で嫌というほど知っておる。それが、我らに倍する人数じゃ」
「明日は、厳しい戦になりそうでございますな」
平八郎は神妙にうなずいた。
「敵は多勢である。もし我らが、敵とがっぷり組んで戦っておるとき、敵の大将が兵
の一部を割き、あるいは敵将の目の利く者が手勢を率い、我らの側面なり背後なりに食いつ
いて来れば、我らは必敗である」
「ごもっともでござる・・・」
「そこで鍋、われは我が旗本より離れ、常に手勢をまとめ、敵が別隊を差し向けてくればす
かさずそれに食いつき、追い払え。この役目、戦に広く目が利き、かつ小勢でよく敵を抑え
得る者でなくば務まらぬ」
家康の馬前で戦い、馬前で死ぬことこそが平八郎の望みであった。しかし、主君にこうま
で言われてしまえば、その期待に副わぬのは武士ではない。
「御意に従いまする。殿さまが、心置きなく捗々しき戦ができまするよう、必ず平八朗がそ
のように仕るでありましょう」
平八郎は、畏まって即答したのであった。
史上有名な姉川の合戦は、朝倉勢と徳川勢とで戦端が切られたと言われている。
川風によって朝霧が流され、視界がわずかに開けると、まず川下に布陣した両軍が鉄砲を撃
ち合い、轟雷のような銃声が静寂の川辺に響き渡った。
その直後、両軍、いきなり突撃である。
家康の先鋒 酒井忠次隊1千、第2陣 小笠原 長忠隊1千が我先に姉川に駆け入り、朝倉勢の
第1陣 朝倉景紀隊3千がこれに応じて駆け出した。
たちまち両軍入り乱れ、凄まじい格闘戦が始まったのである。
連鎖するように、川上に布陣する織田勢、浅井勢も激烈な射撃戦を始めた。
織田勢は、火力装備では戦国最強であったろう。2千挺ともいわれる鉄砲の火力にものを
言わせ、煙で視界がなくなってしまうほどに撃ち白ませた。
しかし、風が視界を回復させたとき、そこに見たものは、怒涛のごとく押し寄せる悪鬼の
ような浅井勢の姿であった。
浅井勢の先鋒は、猛将と名の高い磯野員昌隊1千5百。最精鋭を集めた強力な部隊で、命
知らずの屈強の猛者たちが槍のような鋭さで姉川を駆け渡り、まっすぐに織田の第1陣 坂井
政尚隊3千の中に突き込んで行った。
坂井政尚も、先鋒に選ばれるほどだから織田家では勇将として知られた男で、柴田勝家、
丹羽長秀らと並んで、この時期の織田家の中枢を担っていた武将であった。しかし、わずか
半数の磯野員昌隊の突撃で瞬く間に崩れたち、脆くも壊走してしまう。逃げ
惑う部下たちをどうすることもできず、坂井政尚も逃げたが、息子の久蔵は逃げず、踏みと
どまって奮戦し、怒涛のような敵の奔流に呑まれて討ち死にした。
ほとんど一瞬で坂井隊を突き崩した磯野員昌は、そのままの勢いで織田の大軍勢の中に
突撃してゆく。
信長は、1万9千の手勢を6陣に分け、これを12段に配置し、本陣を含めた13段の構えで
浅井勢を待ち受けていた。
織田勢の半数にも満たない浅井勢は、遮蔽物も障害物もないこの広い戦場では、遮二無二
信長の本陣目指して突撃していく以外手はない。信長は手勢を薄く何枚も配置することで、
浅井勢の突撃力を殺いでしまうことを狙ったのである。予備隊もない浅井勢は、突撃が止め
られてしまった時が負けるときであろう。懐の深い織田軍の陣形に深く突き入れば突き入る
ほど、浅井勢のまわりは敵ばかりになってしまうのである。突撃の勢いが無くなった瞬間に、
織田勢が四方八方から浅井勢を殲滅するのは自明であった。
家康の先鋒隊は奮戦していた。
数で圧倒する朝倉勢を川向こうまで押してゆき、三河武士の精強さをここでも見せ付けた。
しかし、勢いというのは長くは続かない。次第に疲れが見え始め、朝倉勢が1陣と2陣を入れ
替えると、支えきれず再び姉川から押し戻されてしまう。
家康はすかさず第3陣の石川 数正隊を突撃させたが、数で圧倒する朝倉勢は徐々に徐々に
押してくる。主戦場はいつしか姉川のこちら側に移り、家康の本隊にまで緊張が走り始めた。
この姉川での尾張勢の弱さというのは、ほとんど哀れといっていい。
磯野隊1千5百を先頭に、槍の穂先のような鋭さで突撃してくる浅井勢にまったく歯が立
たず、池田恒興率いる3千の第2陣が手もなく突き破られ、雪崩のように崩れたった。逃げ
惑う味方の洪水に飲まれた木下秀吉率いる第3陣も大混乱し、秀吉が天下三声といわれた
その大声で必死に兵をまとめようとするものの、すでに戦にさえならないような状況で、そうこ
うしている間に、阿修羅のような浅井勢が勢いも衰えず突き込み突き込み、ものの半刻(1時
間)ほどで柴田勝家の第4陣まで達してしまっている。
(・・・・浅井勢の凄まじさよ・・・!)
河畔を見下ろす台地に本陣を据えた信長は、自分の尾張勢の弱さを呪わずにはいられなか
った。
その状況は、川下に本陣を据える家康からも遠望できた。
(織田殿が危ない・・・!)
ということはよく解っているのだが、自身も倍近い朝倉勢に押しまくられ、いかんともし難
い。
家康は、すでに床几から立ち上がって自ら馬に乗り、戦場を駆け回っては大声を上げて味
方を励まし、必死に朝倉勢の突撃を支えていた。
家康は、開戦当初、朝倉勢相手に負けさえしなければいいと思っていた。たとえ苦戦しよう
とどうにか持ちこたえ、時間を稼いでさえいれば、自軍の半数以下の浅井勢に当たっている織
田勢が敵を殲滅し、その時点で敵が退却に移り、勝負が決すると読んでいたのである。
しかし、案に相違して織田勢はすでに半壊乱のような状態になりつつある。
(・・・・・これはいかぬ!)
ここで信長に負けられては、なんのために今まで粉骨してきたか解ったものではない。家
康が三河で大名らしくしているためには、強大な織田家が屹立としてあってくれねば困るの
である。ここで浅井氏に破れ、「信長恐るるに足らず」と世間が思えば、近畿で信長に従っ
ている連中がたちまち織田家を見限り、織田家は四方の敵から袋叩きにあうであろう。
家康はついに本隊を前線に動かし、必死になって三河武士たちを鼓舞し続けた。
(・・・・来た!)
戦況を遠望していた平八郎は、朝倉の本陣がなにやら動き出すのを敏感に察した。
家康の本隊が動くのを見、ここが勝負どころと踏んだのであろう、朝倉方から千人ほどの
部隊が離脱し、姉川の下流に向けて迂回運動を開始していた。
「ものども、我に続け!!」
2百の手勢を引き連れ、左翼に大きく開いた平八郎は、一気に姉川を渡り切り、迂回運動を
続ける敵部隊の横腹にまっしぐらに突っ込んだ。
「推参なり、小僧め!」
敵将は、平八郎隊を小勢と侮った。縦列隊をそのままで、突っ込んでくる平八郎たちを包
み込むように包囲しようとしたのである。
それが、裏目に出た。
鋭利な穂先のように敵に突きこんだ平八郎隊は瞬く間に敵の包囲を突き破り、さらに反転
して敵の後衛隊に背後から襲い掛かった。混乱した後衛が味方の前衛に向かって逃げ始め、
味方同士がぶつかり合う。その混乱の真ん中に向かって、平八郎がまた突撃したからたまら
ない。敵部隊の指揮系統は無茶苦茶になり、どの敵も我先に逃げようとするがどこに逃げて
いいかも解らず、さらに小勢の敵を見失うあまり混乱して同士討ちなどを始めてしまう部隊
まででる始末である。
それでもなんとか踏みとどまろうとする物頭を、次々と右手の“蜻蛉切”で突き伏せ、
馬上の平八郎は阿修羅のごとく奮戦した。
家康は、本隊の中央で馬をあおり、声を励まし、陣太鼓を乱打させ、下がろうとする自軍
を必死に支えていた。
(いま、敵の横腹を衝ければ・・・!)
渇いた者が水を求めるように、家康はそのことを思った。
朝倉勢は攻めに攻めているため隊列が延び、前線と敵本隊との間が間延びしてしまってい
る。ここで敵の側面を攻撃できれば、敵前衛は狼狽し、混乱するであろう。その機を逃さず
反撃に転じれば、戦況を一気に盛り返せるかもしれない。
しかし、すでに遊撃軍の稲葉通朝隊までがこの混戦に参加し、死に物狂いで防戦している
ような状況で、どこもかしこもが手一杯であった。いわば家康は、土俵際で徳俵に足を掛け、
どうにかこうにか踏みとどまっているといった格好なのである。
それにしたところで、このまま押し切られてしまえば負けるほかない。
そのとき、織田軍はついに柴田勝家の第4陣までが破られてしまっていた。
紙を裂くように織田勢が突き崩され、第5陣にある森可成が、強悍な美濃兵を叱咤して辛
うじて踏みとどまっているのが家康に見えた。
信長の本陣からは、すでに迫り来る浅井勢の顔まで見通せるであろう。
もはや、一刻の猶予もない。
|