歴史のかけら


合戦師

15

「三河殿、近江に馬を出されよ」

 京から三河へようやく帰り着いた家康に、信長は平然と再度の援軍を要請した。

 信長は、織田家に反旗を翻した浅井長政を放置することができない。感情的な問題ももち ろんなのだが、純軍事的に見ても、北近江の浅井家と交戦状態に入って しまっては、信長の本拠である岐阜と京との連絡が途絶し、信長の近畿支配に重大な問題が 生じてしまうのである。信長にとって、浅井氏の排除は最重要課題になっていた。
 それにしても、信長という男も凄まじい。
 信長は自身の政略の失敗から家康たちを越前という死地に引き込み、しかも置き去りにして 自分だけは逃げた。にも関わらず、家康がどうにか三河に辿りついてたった一ヶ月後、殿戦の 傷さえ癒えない家康の三河衆に、当然のように近江へ出て来いと言い、浅井と戦えと言って きているのである。

 このころ、家康は家康で多忙を極めていた。
 家康には、まず新たに手に入れた遠江の経営という重要な課題がある。しかも今川家が 消滅してしまって以来、家康は戦国最強といわれる武田信玄の軍勢と大井川を隔てて睨み合 っており、この武田軍がしばしば大井川を越えて遠江に出没し、家康領を奪い取る形勢を見 せている。
 たとえば平八郎も、遠江の金谷というところを手勢を引き連れて巡視しているとき、徳川 家との協定を無視して大井川を越え、勝手に兵糧の摘発をしようとした武田の武将 山形昌景 と遭遇したことがある。
 山形昌景は、軍略、外交、内政に辣腕を振るった信玄の信頼厚い名将で、短期決戦の城攻 めは名人芸とまで言われ、その手勢を赤具足で統一したところから「武田の赤備え」と恐れ られ、武田四名臣に数えられたほどの男である。
 このとき平八郎は、寡兵の手勢を巧みに指揮しながら自ら先頭に立って戦い、互角にこの山 県隊と渡り合い、見事に追い返している。

 家康の状況は、目前の相手が武田信玄であるだけに切羽詰ったものがあった。しかし信長 は、この状況でもなお冷然と家康を便利使いしようとしているのである。

 家康は、ここで一思案してもいいはずであった。
 たとえば、自分を戦場で捨て去ったことを口実に信長と断交し、武田信玄と同盟し、手薄に なっている尾張に攻め込む、というような選択肢さえある。
 武田信玄というのは、無敵といわれた強大な騎馬隊を擁し、この当時、最強の用兵家という 呼び声が高かった。この信玄と互角に渡り合える者といえば越後の軍神 上杉謙信をおいて他 になく、信長など相手にさえならないと世間では評価されている。事実、家康は敵として戦 った経験から織田勢――とくに尾張衆の弱さというものを知り抜いていた。戦国の生き残り 外交というものを考えたとき、ここで武田家に媚を売り、その傘下になって織田家を攻める というのはむしろ普通の考え方で、そういう例は戦国時代には無数にあった。
 越前で置き去りにされた家康の重臣たちの中にも、織田家への悪感情を抱く者は多く、そ ういう者たちはしきりと家康に武田家との同盟を勧めた。
 しかし、家康はまったく織田家を見限る素振りを見せなかった。
 家康は、国内に武田信玄に備えるための兵力を残し、いま裂きうる限界の兵力である5千 人を引きつれ、再び近江へと赴いたのである。家康が、ただ長いものに巻かれてゆく自己保 存とご都合主義だけの男なら、こういう決断はくだせなかったに違いない。


 平八郎は、家康の旗本先鋒大将として、家康率いる5千の兵と共に近江へ出向いた。
 そのとき信長は、2万3千の兵を繰り出して、浅井の第二の城である横山城を包囲してい るところであった。
 浅井家の主城である小谷城は、難攻不落で知られた堅城である。これを正面から攻撃すれ ば、勝てたにしても、味方にどれだけの被害がでるかしれたものではない。天下を相手に相 撲を取っている信長とすれば、たかが浅井家を滅ぼすことに大怪我を覚悟することはできな かった。どうにか浅井勢を小谷城から引きずり出し、野戦で勝負を付けてしまいたい。
 そこで、横山城を包囲することにしたのである。義に厚い浅井長政の性格を考えれば、味 方が死守する横山城を見殺しにすることはできず、いずれ援軍を出してくるであろう。これ を、返り討ちに討つ。
 信長は、横山城を包囲し、3日攻めた。
 しかし、浅井勢の決死の防戦で横山城は陥ちず、浅井長政も小谷城から動かない。

(長政は横山城を見捨てるか・・・・)

 重要な軍事拠点になりうる横山城を織田家のものにできるのならば、信長としても、それは それでいい。
 しかし、浅井家の魂胆は別のところにあった。
 長政は、朝倉氏からの援軍を待っていたのである。
 39万石の国力しかない浅井家が動員できる兵力は、農民まで掻き集めても1万2千が限界 であった。しかも、この人数を国内の城や砦に配らねばならず、野戦用の決戦兵力としては どう頑張っても8千以上は出ない。
 対する織田軍は、2万3千である。
 いかに浅井勢が強兵でも、3倍の兵力相手では戦を挑めなかった。そこで長政は、浅井領 に信長が侵攻するや朝倉氏に急使を発し、援軍を求めたのである。朝倉氏は、朝倉景健を 大将に1万2千の援軍を急派した。


 家康率いる三河衆5千が横山城の包囲陣に到着したのは、元亀元年6月24日の昼であっ た。偶然だが、この夜、朝倉家の援軍も到着している。この日から、小谷城はおびただしい 篝火のために全山が燃えたように輝き始めた。
 27日の夜半、小谷城の篝火が、騒然と動きだした。
 朝倉勢が休息を終え、ついに浅井勢と共に動き出したことは明白であった。 敵は翌朝、信長軍の背後に流れる姉川を渡って全面攻撃を仕掛けてくる腹であろう。
 信長はただちに攻城用の包囲陣を解き、横山城には抑えの兵3千のみを残して、全軍を 姉川河畔に展開させ、翌朝の決戦に備えようとした。

「我らの部署をお指図願いとうござる」

 急遽諸将を集め、深夜に開かれた軍議で、家康は信長に問うた。

「三河殿には、越前でも骨折りを頂いたばかりじゃ。此度は後詰め(予備軍)に回られよ」

 そっけなく信長は答えた。
 予備軍というのは、本軍の後方で待機し、合戦が始まって新手が必要になったときに投入 されるための戦力である。疲労も被害も少なくて済むが、必ずしも名誉な役割ではない。

「それは迷惑に存ずる!」

 家康は、いきり立ってみせた。

「拙者がわざわざここまで出向きながら、織田殿の後詰めになったとあれば、三河者の弓矢 の傷にあいなりまする。是非にも働く場所をお与え願いたい!」

 家康は、信長が三河者を働かせたがっていることを知っている。家康率いる三河武士団は、 尾張兵の3倍強いという評判さえあるのである。この兵力を、自分の兵を殺すことを極端に 嫌う信長が、遊ばせておきたいと思うはずがなかった。
 家康は、ごく自然に信長を押し、信長も、ごく自然に家康に押されてみせた。このあたり は、達人の舞でも見るように、両者が無言で呼吸を合わせている。

「そこまで言われるなら・・・・・されば、三河殿は朝倉勢に当たられよ」

 信長の一言に、並居る織田家の諸将は目をむいた。この時点では朝倉の援軍の数ははっき り解っていなかったのだが、大国といわれる朝倉家の国力を考えれば、浅井勢より多いこと は間違いないのである。信長は、たった5千の徳川軍に、朝倉勢を一手に引き受けろとい うのか――?

(いかに徳川殿でも、こればかりは断るだろう・・・)

 誰もがそう思った。
 しかし、家康は即答した。

「ありがたき幸せに存じまする!」

 表情ひとつ変えず、いや、むしろ喜色さえ浮かべていたのである。この家康という男も、 考えようによっては凄まじい。
 信長も、さすがに心配になったのだろう。自分の部下から好きなだけ引き抜き、家康の 軍勢に加えるよう促した。しかし、家康はそれさえも断ろうとした。

「それがし、人数少なき小戦ばかりいたしておりますれば、大軍をお預けいただいたところ で、上手く使いこなせませぬ」

 この家康の態度には、さすがの信長も困ってしまった。隣で家康の部隊が朝倉勢に負けて しまえば、そのあおりを食って織田勢まで壊走してしまうこともあり得るのである。三河勢 は大いに使いたいが、負けてもらっても困るのだ。
 信長に再度促され、しばらく考えた家康は、織田家では新参の稲葉通朝(一鉄)率いる美濃 衆1千人だけを借りることにした。


 こうして、元亀元年6月28日の朝が、徐々に明けていこうとしている。
 姉川を挟んで、1万9千の織田勢と8千の浅井勢、6千の徳川勢と1万2千の朝倉勢が対峙 した。
 史上有名な「姉川の大会戦」が、いま静かに始まろうとしている。




16 へ

戻る


他の本を見る

カウンターへ行く


e-mail : nesty@dp.u-netsurf.ne.jp