歴史のかけら


合戦師

14

 2万を超える織田軍を従えるように、家康率いる5千の三河武士たちが進んでゆく。家康は 信長に会うや、真っ先にこの「越前討ち入り」の先鋒を願い出、許された。

「我らがはるばる越前まで出向いたからには、この戦、是非ぜひ先鋒を承りたい。三河武士 の弓矢の名誉に賭け、この儀ばかりは承知していただかねばなりませぬ」

「三河殿、よう申された!」

 真っ先に敵に踊りかかる先鋒は、手柄を立てる機会が多いかわりに危険と損害も大きい役目 である。自分の兵を損じることを商人が銭を失うことのように嫌う信長は、むしろ喜んで 家康の申し出を受けた。
 家康は、信長という男に対しては、織田家の家来以上に従順であり献身的であり続けた。 「桶狭間」を敵として知っている家康は、信長という男の天才を信じて疑わないところがあ る。

(この乱世を鎮め、天下を統べるのは、織田殿をおいてあるまい)

 と、しんから思っていた。

(少々怖いご仁だが、織田殿についてゆくほか、徳川家に道はない)

 ひとたびそう決めたら、どこまでも献身的になるのが三河者というものであった。

 家康という男の行動は、後世から眺めると実に面白く興味深い。
 ひたすらに律儀に、篤実に、長いものに巧みに巻かれてゆくというのが、家康という男の 処世の仕方なのである。家康はまず今川義元に巻かれ、次いで織田信長に巻かれ、さらに豊臣 秀吉にも極めて巧みに巻かれてゆき、彼らにとって篤実で律儀で忠実な番犬であり続けた。
 その後、天下を獲った家康に対して、この生き方が擬態であるといい、演技に過ぎ ないといい、「狸」であるという者がある。しかし、擬態であるにせよ、演技であるにせよ、 家康は、実に50年もの長きに渡って辛抱し続け、一度も裏切りの気配といったものを見せず、 「律儀」であることに徹し続けた。
 50年である。
 家康という男の性格を考えるとき、一筋や二筋の縄では捕らえ切れない玄妙なまでの複雑さ と奇妙さがあるということが、この一事でも解るであろう。

 
 織田-徳川連合軍は、4月25日、手始めに朝倉方の手筒山城へ攻め掛かり、仰天し慌てふた めき、ろくに防戦もできない朝倉軍を切り散らし、ほとんど一瞬で城を陥してしまった。 三河衆が悪鬼のように働いたことはいうまでもなく、『信長公記』によると約1200もの首を 獲るという大勝利で、味方に被害らしい被害はほとんど出なかった。
 翌日には敦賀平野の主城である金ヶ崎城を攻略。同時に引壇城(現 疋田城)をも陥し、 驚くべきことに、開戦たった2日で朝倉領の南端を奪い取ってしまった。
 金ヶ崎城という重要な軍事拠点を手に入れた信長は、ここに本拠を置き、朝倉氏の本拠で ある一乗谷へ一気に攻め込む姿勢を見せ、先鋒の徳川軍を先発させた。
 平八郎たちは敵地への入り口とでもいうべき木の芽峠を登り、そこで28日の夜を明かし た。

 このとき、異変が起こった。

 信長の妹――浅井長政夫人である お市が、浅井家の寝返りを知らせてきたのである。

「なにかの間違いであろう」

 信長は、最初信じなかった。
 しかし事実と解ると、さすがに織田家の重臣たちも蒼白になった。
 織田の大軍勢は敦賀平野に閉じ込められ、前面には朝倉家の迎撃部隊が迫り、退路を浅井家 の軍勢に塞がれてしまった格好になっているのである。

(皆殺しにされるぞ・・・)

 という恐怖が、どの武将にもあった。
 ここで、もし信長が二流の大将なら、金ヶ崎城に全軍を集結させ、浅井-朝倉軍を迎え撃っ たであろう。一流の大将なら、金ヶ崎城に一部の兵を割き、このいわば全滅覚悟の部隊で朝倉 の軍勢を支えつつ、残る全軍をもって浅井勢に突きかかり、これを破った後、新たな策を考え ようとしたであろう。
 しかし信長は、そのいずれの策も取らなかった。

 逃げたのである。

 全軍にそれを知らせることもなく、自身の鎧さえ「馬が疲れる」という理由で脱ぎ捨てて、 たった1騎で疾風のように駆け出した信長は、浅井氏の力が及ばない琵琶湖の西側を通り抜 け、京へと逃げ去ったのである。
 ひとたびその戦略に齟齬が生じれば、奪い取った領地と城を惜しげもなく捨てることがで きるというのが、戦略家としての信長の飛びぬけた非凡さというべきであろう。

 泡を食った織田勢は、退却部署もそこそこに雪崩をうったように信長の後を追い、翌朝には 敦賀平野から煙のように消えてしまっていた。
 先発している家康は、当然そんなことは知らない。信長は、自分のために骨を砕いて働きに 出てきた家康にさえ、自身の退却を伝えなかった。


「織田殿が、はや越前におられぬと・・・?」

 家康がその情報に接したのは、翌29日の朝であった。金ヶ崎城に残り、全軍の殿(しんがり) を買って出た木下 藤吉朗 秀吉という物頭が、わざわざ家康まで使者を寄越し、早々に引き上 げてもらいたいと言ってきたのである。
 平八郎を含め、徳川家の重臣たちは怒りで狂い立った。

「織田殿は、我らを捨て殺しになされたか!」

「狡猾な尾張者のやりそうなことじゃ!」

「信長という仁は、人としての信義がないのか!」

 家康は、家臣らと共に、ここで激怒するべきであったろう。
 信長の要請に従ってわざわざ三河から越前まで出張り、もっとも多くの弾を浴びながら織田 家の先頭に立って戦い、挙句に戦場に置き捨てにされたのである。どんなに信長を面罵した ところで、信長は甘んじてそれを受けねばならない立場にあった。
 しかし、家康は一言の不満ももらさなかった。どころか生まれ持った田舎の長者のような 風貌をすこしも崩さず、いきり立つ家臣をやわらかになだめ、不平を言うことを禁じ、退却 部署を定めると黙々と峠を下り始め、挙句には殿戦(しんがりいくさ)をする秀吉に挨拶する ために金ヶ崎城へと赴き、

「一手で支えるのは難しかろうと存ずる。それがしも共に手を砕きましょう」

 と、秀吉の篭る金ヶ崎城へ入ってしまったのである。
 さすがの平八郎も、家康のこの馬鹿のような律儀ぶりには目を見張った。

(殿さまは、そこまで織田様にニ無き心を持っておられるのか・・・)

 1人の武士として、感動さえしていた。
 秀吉は、わずか5百の手勢で数万の敵軍を食い止め、味方が撤退する時間を稼ごうとして いた。全滅する覚悟で時間を稼ぎ、味方を逃がす。それが「殿」というもっとも過酷な部署 の役割なのである。
 家康は自ら、5千の徳川全軍を織田家の殿にした。これを家康の「律儀の演技」だとする なら、家康は、文字通り命を的にして「律儀」を演じきろうとしたことになる。

 退却は、難渋を極めた。
 まずは金ヶ崎城に朝倉勢を引きつけ、さんざんに鉄砲で撃ち白ませ、ひるんだ敵に向かって ときには突撃し、群がる敵を押し戻し、追い返し、また城に篭って射撃戦を繰り返す。
 夜になると、城を包囲する朝倉軍の篝火がいよいよ増え始め、前面の山を焦がすような勢い になった。しかし、夜の城攻めというのは難しい。寄せ手の側に同士討ちなどの不測の事態 が起こることが多く、いわばしないのが原則になっている。
 自然、敵が遠巻きになった。

(今だ!)

 秀吉が、家康が、目の利く多くの武将たちが同時に思った。城門を開いて退却するには今 をおいてないであろう。
 家康は素早く行軍順序を決め、駆け出すように退却に移った。役目柄、秀吉が最後に金ヶ崎 城を飛び出した。

 敵軍の総退却を知った朝倉軍は、当然だが家康たちが半里も逃げぬ間に猟犬のように追撃 してきた。
 このとき、徳川軍の最後尾で殿(しんがり)を受け持ったのが、平八郎であった。

「本多の男の死に様を見せるのはこの時ぞ!」

 “蜻蛉切”を振りかざし、迫り来る敵に突撃し、蹴散らしては逃げ、逃げてはまた踏みと どまって蹴散らし、まるでそれが天職でもあるかのように生き生きと戦い続けた。
 平八郎は、殿戦というのは初めての経験であった。しかし、波が引いていくように巧みに 手勢を進退させ、敵に付け入る隙を決して与えなかった。

 ときには家康自身が鉄砲を撃たなければならなくなるほど朝倉軍に肉薄され、全体として はさんざんに苦戦し、千人以上の死傷者を出しはしたものの、結局家康も秀吉も、無論平八 郎も、どうにか無事に京までたどり着くことができたのだった。


 秀吉は、この「金ヶ崎城の殿」という歴史に残る退却戦と、そのとき家康から受けた恩を 生涯忘れず、後に織田家を事実上相続し、家康をその傘下に収め、大阪で初めて主従の関係 を結んだとき、

「むかし、徳川殿に救われ、九死に一生を得申した金ヶ崎でのこと、ひとときたりと、忘れた ことはありませぬぞ」

 と、家康の手をとって感謝したと伝えられている。

 平八郎は、もっとも難しいとされる殿戦で無類の強さを発揮してみせた。
 このことは、家康と三河者たちの心に大きく刻み込まれることになった。




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