歴史のかけら
合戦師
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家康が三河を統一し、続いて遠江を平定し、東海でようやく五十数万石という勢力を保持
するようになった元亀元年というのは、西暦で言うと1570年になる。家康が信長と「清洲
同盟」を結んでから、すでに8年の歳月が経過していた。
ちなみに家康が28歳。平八郎 忠勝が23歳である。
この8年間の織田家の成長というのは、まったく凄まじい。
信長はまず美濃(岐阜県中南部)を攻略し、ついで伊勢(三重県北中部)を屈服させ、
琵琶湖東岸の実力者 浅井長政を婚姻で味方に引き込んだ。また流浪の将軍 足利義昭を保護
して京へ攻め上り、六角氏、三好氏らを瞬く間に蹴散らすと、群雄に先んじて京を軍事占領
した。さらに足利将軍の権威を借りて畿内を平定し、堺、大津、草津という殷賑の町に代官
を送り、経済利潤を独占した。
このころ信長の実力というのは、優に二百万石を超えていただろう。
信長というこの稀代の働き者は、「清洲同盟」で東方の安全を確保して以来、片時も休む
ことなく悪鬼のように近隣を侵し回り、群雄が考えられないような速度で大成長を遂げてし
まっていたのである。
しかし、急激な変化というのはどこかしらに必ず無理が生じるものであり、勢いが強ければ
強いほど、その揺り返しもまた強大になる。
この頃、広く天下を眺めて見れば、大勢力は、まだそのことごとくが無傷で残っていた。
甲斐に武田信玄あり、越後に上杉謙信あり、小田原の北条氏、中国の毛利氏、越前の朝倉氏、
そして摂津石山には本願寺の大勢力があり、信長は、いわば地理的に恵まれていたために、
中央をいち早く制することができたというだけのことだったのである。信長の中央進出があま
りに性急であったため、これらの大勢力はことごとく信長に反感を持つようになっていた。
信長は、極めて細い綱の上で非常に危ういバランスをとりながら、まるで天下を相手に一人
で踊り狂っているような格好だったといっていい。
元亀元年(1570)4月、平八郎は、家康から授けられた軍勢を指揮し、琵琶湖の東岸
を北へ向かって進んでいた。
共に進んでゆくのは家康が指揮する三河の精兵5千。平八郎は中軍にあり、家康の旗本の
先頭に立って馬をうたせてゆく。
「織田様というのは、思えば凄まじい大将でございますなぁ、叔父御」
平八郎は足早に馬を駆けさせながら、傍らの忠真に大声で語りかけた。
「桶狭間で今川義元公を討ち参らせてより10年、尾張半国の主であったものが、今や将軍を
擁し、京を押さえ、旭日の勢いとはまさにこのこと。此度の越前討ち入りで、日の本一の
大大名になられようとしてござる」
信長は、再三の上洛要請を拒み続ける越前(福井県)の朝倉氏を討伐することに決め、京
から軍を発し、同盟国の浅井領を通過して敦賀へと攻め込もうとしていた。家康は信長
の援軍要請を受け、自らが精鋭を引きつれて三河を発ち、この琵琶湖畔まで出向いたのであ
る。
「三河殿、一度、京に遊びに参られよ」
と、信長が家康に言って寄越したのは、元亀元年が明けたばかりのころであった。
春に京で将軍の新館の落成式をやる。ついでに将軍にも拝謁させてやる。織田と誼(よし
み)を結ぶ諸侯をことごとく呼び、能なども催し、賑々しい宴席にしたい。ついては京まで
出て来い、という。
しかし、これは表向きの理由であった。信長は天下に、この「将軍館の大落成式」という
平和行事を誇大に宣伝し、群雄諸侯を油断させようとした。
元亀元年4月14日、信長は、実際に盛大な将軍館の落成式を執り行った。そしてその数日
後、電撃的な軍事行動を起し、疾風のごとく琵琶湖西岸を駆け抜け、朝倉領になだれ込もう
としたのである。
若い平八郎は、この信長の、天下を向こうに回して大戦略を練るようなスケールの壮大さに、
ある種の爽快さと神々しい輝きのようなものを感じている。戦国に生まれた武士ならば、天下
に号令する自分の姿を無邪気に夢想するような気分を誰しもが持っているだろう。その意味
で、天下に向かって脇目も振らずにまい進し続ける信長の姿というのは、織田家の家臣だけ
でなく、誰もが尊敬と憧憬と嫉妬とを抱かずにはおれないものがあった。
「確かに、ひとたび兵を発すれば疾風のごとしじゃ。昨日京におったものが、明日には
越前を攻めると言う。朝倉方は、さぞ肝を抜かすじゃろう」
しかし忠真は、口にこそ出さないが、信長に危うさを感じていた。
(信長という男は、急ぎすぎる)
と、思うのである。
確かに信長は、飛ぶ鳥さえ落としてしまうような勢いを持っている。しかし、このまま天下の
群雄の反感を買い続ければ、やがてこれらが手を結び、四方を敵に囲まれて袋叩きに逢わぬと
も限らないのである。
(此度の越前討ち入りにしても、そうじゃ)
元々、京に軍を集結して、越前に奇襲をかけるなどというのは戦略的には無理の無理である。しかし信長は、同盟国の浅井領を素通りすることによってその無理を実行しようとした。北
近江(滋賀県北部)の新興大名である浅井氏は、その成立や存続において朝倉氏から多大な
恩を受けている。だからこそ朝倉氏は、浅井氏が自分たちに不利なことをするはずがないと
いう安心があり、信長はその安心を逆手にとって奇襲を思い立ったのであろう。
(もし今、浅井が寝返れば、我らは朝倉と浅井に前後から挟み撃ちになるではないか・・)
という恐怖が、忠真にはある。忠真は浅井長政という男を知らず、信長と長政がどれほど
親密であるかということも知らない。当然、客観的な状況だけで現状を見ざるえない。
(なぜこの越前討ち入りに、せめて浅井の軍勢を連れてこぬのだ・・)
浅井氏の当主 長政がこの攻撃軍に加わってさえいれば、どれほど心強かったかしれない
だろう。
しかし、これは信長なりの配慮であった。
琵琶湖の北東――近江の北半国39万石を治める浅井氏というのは、新興大名だけに家風が溌
剌として兵が強い。この浅井氏の若き当主 長政を、信長が味方に引き込んだということは先
にも述べた。
信長は、日本一の美貌と謳われた妹 お市を長政に嫁がせ、縁戚となることで浅井氏と同盟
し、岐阜と京との往来の安全を得た。しかし、この同盟には、浅井側に1つ条件があった。
浅井家は、多大な恩がある朝倉家と戦うことはしたくない。信長が決して朝倉家を攻めな
いということを条件に、織田家と同盟を結んだのである。
しかし、信長はその約束を反故にした。
(長政なら、わかってくれるだろう)
という読みが、信長にはある。
信長は、律儀で礼儀に正しく、聡明で溌剌とした浅井長政という若き妹婿を愛していた。
長政は、決して暗愚な男ではない。信長の天下統一への野望ということを長期的に見たと
き、織田家に従わない朝倉氏というのは、いずれ倒さねばならない勢力であるということは
十分解っているはずであった。浅井家が、織田家と共に歩んでゆくことを決めた以上、「越前
討ち入り」というのは早いか遅いかというだけの問題で、損得勘定からいっても、浅井家は
朝倉家を見捨てると、信長は信じた。
しかし、すぐさま朝倉を攻めよと浅井長政に詰め寄ることは、信長は避けた。旧恩ある相手
を討つのは、情誼の上から長政には辛いと、信長なりに思いやったのである。
結果、この朝倉攻めには浅井の軍勢は参加しなかった。
この、いわば信長の思いやりが、三河の武士たちを死地に陥れることになるということを、
北近江の峨々たる山並みを右手に進んでいく平八郎は夢にも思わなかった。
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