歴史のかけら


合戦師

12

 三河一向一揆の鎮圧というのは、家康にとって、あるいは生涯最大の事件の1つであった かもしれない。
 この難事を経て、家康は三河における敵対勢力のほとんどを片付けたといっていい。吉良、 荒川などと言った旧勢力を国外に追い、独自の経済ブロックを形成し強固な地盤を獲得して いた一向宗を排除し、さらに徳川家内に残っていた不満分子を殲滅して一枚岩の家臣団を獲 得することができた。
 家康は余勢を駆って東方へと矛先を向け、今川方の吉田城(現豊橋市)を陥とし、次いで 渥美半島の田原城を攻略して三河の統一を成し遂げた。
 ときに永禄8年(1565)、家康23歳のことである。

 平八郎は、このころ本多隊を離れ、家康の旗本として奮迅していた。

 徳川家に蜂屋 半之丞 貞次という男がいる。
 家中一の槍の名手として名が通った男で、後に徳川16神将にも数えられ、「半之丞の 鑓先に 誰も手向かう者はなし」などと詠われるほど武勇で鳴った人なのだが、平八郎は この半之丞と、吉田城攻めでは一番槍を争ったりしている。
 一騎駆けの勇者としては、「“蜻蛉切”の平八郎」の名は、すでに三河では轟くような 知名度を得るようになっていた。

 家康は、そんな平八郎の働きをつぶさに見ている。

(鍋は、いよいよやる)

 と、その絶倫といっていい武勇を高く評価していた。
 しかも、平八郎はただの猪武者ではない。
 家康の側に常に侍る平八郎には、戦場では多くの仕事がある。なかでも重要なのは「使 番」と呼ばれる役目であった。これは家康の号令で戦場を駆け回り、家康の目となり耳とな って戦場の情報収集をし、また家康の声となって各部隊に家康の指示を伝え、ときには斥候 となって敵陣の士気や配置までも探ったりする。とにかく経験が要求される重要な役目で、 度胸と機転と俊敏さを兼ね備え、さらに高い戦術眼さえも必要になる。普通は相当に戦場 慣れした者が選ばれるのだが、家康はときどき平八郎をこの役に使った。
 すると平八郎は、まるで大工が普請場を走り回るような自然さで、するすると修羅場の 戦場を駆け回り、家康に的確に情報を伝え、さらに、

「敵は左翼が狼狽しておりまする。お味方がこのままひた押しに押せば、半刻とせず に必ず崩れたち、一気にお味方の勝利になること疑いなし」

 などと自分の観測までも口にし、しかもそれが面白いように的中した。

(やはり、鍋は将になれる男じゃ・・・)

 家康も、戦場で年を重ねて来た男である。人間のなかにはごく稀に、戦場の臭いのような ものを嗅ぐ特殊な嗅覚を持って生まれる者があるということを経験的に知っている。

(あるいは、鍋が、それではないか)

 と、いつしか確信するようになっていた。

 永禄9年(1566)、三河の平定を終えた家康は、西三河の旗頭に石川家成を、東三河の旗頭 に酒井忠次をそれぞれ置き、岡崎の家康を含めた「三河の三備え」体制を整え、同時に家臣団 の再編成を行った。
 このとき19歳の平八郎は、同年の榊原 小平太 康政と共に大抜擢を受けた。

 旗本先手役トシテ、馬乗リ52騎付属セシメラル――

 忠真の本多隊とは別に、家康から新たに一隊を与えられ、家康の直属軍の先鋒になったの である。「馬乗り」というのは騎乗の武者のことで、1騎の騎馬武者にはそれぞれ数人の自前 の家来が付属する。つまり平八郎は約2百人の指揮を任されたということで、家康の全軍が まだ7千程度の規模だから、これは決して小さな部隊ではない。

 さらにこの翌年、平八郎は「御旗本先手侍大将」――つまり家康本軍の先鋒大将を命じら れ、他の老巧の諸将と並んで、20歳にして一手の大将になった。異数といっていい大出世だ が、平八郎がどういう人間かということを知っている三河の武士たちは、誰もこの家康の 人事に異を挟もうとはしなかった。


 このころ、平八郎には最初の子供が生まれている。平八郎の最初の――そして生涯の伴侶 になった側室 乙女が、女の赤ん坊を出産したのである。
 「いね」と名付けられたこの赤子は、後に「小松」と名を変え、家康の養女として真田家 に嫁いだ。大阪の陣で家康を苦しめた真田幸村の兄 信之の妻となり“真田の小松”として 後世に名を残す女性である。
 乙女は、幼い頃父を亡くし、寺に預けられていたといわれている。
 その寺に、まだ鍋之助だった幼い平八郎が学問を学ぶために通っており、二人は幼友達 だったという話が伝わっているが、真偽はさだかでない。しかし、平八郎が生涯この乙女を 大事にしていたことは確かで、後に平八郎が桑名に移封になったとき、正室を次男の元に預 け、この乙女だけを桑名に伴っている。
 乙女は生涯で3人の子供を生んだが、どうやら女腹だったらしく、平八郎の跡継ぎを生むこ とだけはついにできずに終わった。
 以上、余談である。


 ここで、この物語に巨星が登場する。
 名を武田信玄という。この当時、天下に響いた大英傑である。

 家康が三河を統一し、今川家に対抗できる状況が出来つつあったころ、今川家では当主 今川氏真が悲鳴を上げていた。徳川家の勢いに抗しきれない現状に家中から不満が続出し、 今川家臣団が空中分解を起しそうになっていたのである。
 もともと今川家の武士というのは豪奢な生活に慣れ、戦場で頼りになるような決死の 者が多くない。しかも当主の氏真に求心力も統率力もないとなれば、もう他国から見れば 攻め得、獲り得のような姿になっていた。
 武田家は、今川義元の時代、北条家とともに今川家とは攻守同盟を結んでいた。しかし、 今川義元が死に、家中が衰弱してゆくさまを観察していた信玄は、

「貴殿とわしとで、今川領を分け取りにせぬか?」

 と、家康に提案してきたのである。
 今川領というのは、現在の静岡県である。その領国は2つ。大井川を挟んで東を駿河、 西を遠江(とおとうみ)と言う。

「徳川殿は、遠江を自由にしなされ。大井川より東はわしが貰う」

 と信玄は言い、家康はこの提案に乗った。
 信玄と家康は、翌永禄11年(1568)冬、呼吸を合わせて今川領に攻め込む約束をした。
 家康は吉田城を拠点に今川家の領土を少しずつ侵食するように軍事行動を繰り返し、浜名湖 畔の城や砦を次々と攻略し、永禄12年には掛川城、高天神城を相次いで陥とし、今川家を滅 ぼし、遠江を手に入れることに成功したのである。
 平八郎も、この遠江平定戦には当然出陣した。家康軍の主力として、またときには東方の 旗頭である酒井忠次隊の先鋒として、同僚の榊原康政らと共に大いに活躍している。

 家康は、遠江を手に入れることによって、本国である三河と合わせて五十数万石という 大大名になった。
 しかしこのことは、戦国最強といわれた武田信玄の軍勢と、大井川を挟んで対峙する、と いうことでもあった。

 翌年、年号が「元亀」と改められる。
 戦国時代が、あらたなる局面を迎えようとしていた。




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