歴史のかけら
11家康はこれに対し、上宮寺には渡村の鳥居党を、勝鬘寺には和田村の大久保党を、本証寺 には家康の一族の藤井 松平党と西尾城の酒井党を配し、それぞれの砦に籠めて対抗した。
奇妙な睨み合いになった。 たとえば、一揆側が人数を掛け、押し出してくると、家康自らが岡崎を発って、これを迎 え撃とうとする。しかし、家康が迎撃軍の陣頭にいると知ると、 「あの陣には殿さまがおられるぞ」 「三河者が殿さまを討てるものかい」 「逃げるが勝ちじゃ! さっさと引き上げろ!」
と、潮が引くように一揆軍が逃げ散ってしまうのである。 「これでは埒があかぬではないか・・・」
家康としても、やりにくいことこの上ない。
家康が敵陣にいないと知ると、門徒衆は怒涛のごとく攻め寄せる。
この死をも恐れぬ一揆軍をもっとも震え上がらせたのが、平八郎の本多隊であった。 「貴様ら、それでも三河の武士か!!」
殿さまへの忠義より、自分1人の死後の「安心(あんじん)」を優先させた一揆側の武士た
ちに、平八郎は怒りと憤りをぶつけ続けた。 「鹿の角が出たぞ! 『“蜻蛉切”の平八郎』じゃ!」 「平八郎を相手にするとつまらんぞ! 他で働け、他で!」 「阿呆! 鹿の角が出たら、とにかく逃げるが上分別じゃ!」
いつしか一揆軍は、平八郎の兜の鹿の角を見るだけで、戦場から逃げ出すようになって
いた。
「わしらは殺されずに済むのか?」 「減知(領地の取り上げ)もなく、罰もなしとはいかにしたことじゃ!」 「わしらの殿さまとは、これほど慈悲深いお方であったのか・・・」 敵も味方も、この家康の寛大な処置に泣いた。 (この殿さまのためなら、命もいらぬ!)
徳川家のすべての武士たちが、心からそう思ったのである。
家康は、弥八郎も許した。 「弥八郎よ、もう気は済んだかよ?」 板間に据えた床几に腰を掛け、不思議とさっぱりとした顔で家康は聞いた。 「わしは、戦に負け申した。それだけのことでござる」 弥八郎も、悪びれた素振りはない。負けたということと、間違っていたと認めることとは、 弥八郎の中では別ものであった。 「弥八郎、何を求め、一揆に就いた?」 「新しき世でござる。加賀のごとき、百姓の国を三河で創りたいと思いました」 「百姓の国とはなんぞ?」 「武士も百姓も、守護も大名も区別なき国でござる」 「それは、戦になるたびに百姓が武士になる国か?」 「・・・・・・・・・・・!」 「答えよ、弥八郎! 百姓が喜んで槍を握る国か?」 「・・・・わかりませぬ!」 はじめて弥八郎の表情が歪んだ。 「わしは、百姓が槍を握ることのない国を創りたい。額に汗し、鍬を振るうことを、百姓が 当たり前に悦ぶ三河を創りたい。弥八郎、このこと、どうか!?」 「・・・・まだ、拙者にはわかりませぬ!」 家康は静かに笑った。 「弥八郎よ、すべてを元に戻そう。今回のこと、わしは罪は問わぬ。お前も三河の百姓のた めに働け」 「・・それはできませぬ!」 弥八郎は泣き出していた。その場に居た者すべてが、この家康の暖かい言葉に泣いた。 主君のこれだけの思いやりに接してしまっては、感極まらない三河者はいなかったろう。 「拙者は殿に背きました。今さらなんの面目あって殿のお情けにすがれましょう。わしは、 三河を去りまする。どうか・・・・お許しくださりませ・・・!」 「そうか・・・」 家康も、我を通そうとはしなかった。 「鍋! 弥八郎の親族、郎党、すべてそちに預ける。同じ本多じゃ、遺恨なく扱え!」 「御意!」 平八郎は、一も二もなく即答した。 「弥八郎、浪々に飽いたら、いつでもわしの元に帰るがよい」 「殿さまのご恩、この弥八郎、生涯忘れませぬ。平八郎殿、妻のこと、息子のこと、我が郎党 のこと、なにとぞ・・・お願い申す・・・!」 弥八郎は向きを変え、平八郎に深々と頭を下げたのだった。
彼はこの後、大和の松永 弾正 久秀に仕え、その清廉にして無私な人柄を非常に評価され
た。久秀が将軍 足利義輝を殺すと大和を去り、加賀に渡って一向宗の国で武将になった。そ
こでさらに数年を過ごし、諸国を放浪した後、「本能寺の変」をきっかけに家康の元に再び戻
ってくることになる。 自身の出世を一切望まず、大きな領土や特別な褒美を決して受け取らなかったにもかかわ らず、主君のために泥を被り続けることで多くの人に嫌われ、後世に巨大な悪印象を残した この本多 弥八郎 正信という男も、やはり家康一途の三河者には違いなかったのであろう。
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