歴史のかけら


合戦師

11

 一揆軍は、佐々木の上官寺、野寺の本証寺、針崎の勝鬘寺、さらに土呂の本宗寺などを 軍事拠点として集結し、上宮寺の寺将 矢田 作十郎を総大将に、永禄6年(1563)9月、一斉 蜂起した。
 家康はこれに対し、上宮寺には渡村の鳥居党を、勝鬘寺には和田村の大久保党を、本証寺 には家康の一族の藤井 松平党と西尾城の酒井党を配し、それぞれの砦に籠めて対抗した。

 奇妙な睨み合いになった。
 徳川家に残った連中も、一向宗側に就いた連中も、つい先日まで家康の配下として共に 織田や今川と戦ってきた仲間なのである。誰もが、殺し合いなどしたくはない。しかし戦と なれば、すべての行きがかりやしがらみを捨て、親兄弟だろうと親戚だろうと、戦わなければ 自分が殺されてしまうのである。
 戦はなかなか決戦には踏み切れず、どうしても小競り合いに終始した。

 たとえば、一揆側が人数を掛け、押し出してくると、家康自らが岡崎を発って、これを迎 え撃とうとする。しかし、家康が迎撃軍の陣頭にいると知ると、

「あの陣には殿さまがおられるぞ」

「三河者が殿さまを討てるものかい」

「逃げるが勝ちじゃ! さっさと引き上げろ!」

 と、潮が引くように一揆軍が逃げ散ってしまうのである。
 三河の武士たちにとって、「家康」というのはそれだけ特別な存在であった。彼らは今川 家の圧政に苦しんだ暗黒時代、まだ幼かった竹千代の成人と、三河への帰還だけを心の拠り 所にして歯を食いしばるようにして生き続けてきた。その家康に、個人の感情として槍など 向けられるものではない。しかし、家康に従って一向門徒と戦うわけにもいかない。彼らは 武士である前に人であり、人としての信心を捨てることなど容易にできないのである。
 一揆軍の武士たちは、その矛盾の中で苦しみぬいていたと言える。だからこそ彼らは、 家康が軍を返すと、また潮が満ちるように盛り返してくる。

「これでは埒があかぬではないか・・・」

 家康としても、やりにくいことこの上ない。
 かといって、一揆軍が弱いかといえば決してそんなことはなかった。
 一向宗の一揆軍は、死を恐れない。むしろ、それをどこかで求めてさえいた。一向 門徒たちにとって、「仏のための死」とは、輝かしい「美」への入り口なのである。その 「死」によって、門徒は殉教者のような気持ちと共に浄土への切符を与えられ、来世の 希望を手に入ることができた。

 家康が敵陣にいないと知ると、門徒衆は怒涛のごとく攻め寄せる。
 死を恐れぬ軍隊ほど手に負えぬものはなく、しかも戦術を立案するのは「知恵第一」と呼 ばれた本多 弥八郎 正信なのである。戦いをどこかで躊躇してしまう徳川軍は、神出鬼没の 一揆軍に翻弄され、随所で破られた。

 この死をも恐れぬ一揆軍をもっとも震え上がらせたのが、平八郎の本多隊であった。
 平八郎は、弥八郎が操る一揆軍に容赦しなかった。常にまっさきに馬を出し、家康拝領の “蜻蛉切”を振り回して鬼神のように暴れまわる。

「貴様ら、それでも三河の武士か!!」

 殿さまへの忠義より、自分1人の死後の「安心(あんじん)」を優先させた一揆側の武士た ちに、平八郎は怒りと憤りをぶつけ続けた。
 陣頭に鹿の角の兜が現れると、一揆軍は常に大被害を被ることになった。

「鹿の角が出たぞ! 『“蜻蛉切”の平八郎』じゃ!」

「平八郎を相手にするとつまらんぞ! 他で働け、他で!」

「阿呆! 鹿の角が出たら、とにかく逃げるが上分別じゃ!」

 いつしか一揆軍は、平八郎の兜の鹿の角を見るだけで、戦場から逃げ出すようになって いた。
 永禄6年(1563)が終わるころ、すでに三河では「“蜻蛉切”の平八郎」の名を知らぬ者はな かった。


 年が明けた正月、一揆軍は岡崎城を攻めるために大攻勢をかけ、家康はついにこれと決戦 した。
 苦戦の末、どうにか一揆軍を撃退した家康は、一揆側の総大将であった矢田 作十郎をはじめ 主立つ大将格の武将を討ち取り、一向一揆勢力を鎮圧することに成功したのである。
 戦後、家康は旧今川勢力を国外に追い、一向宗の僧たちを放逐した。しかし、家康の戦後処 理の見事さは、一揆側に加担した家臣をいっさい罰せず、すべて許し、元の知行で抱えなおし たことであった。

「わしらは殺されずに済むのか?」

「減知(領地の取り上げ)もなく、罰もなしとはいかにしたことじゃ!」

「わしらの殿さまとは、これほど慈悲深いお方であったのか・・・」

 敵も味方も、この家康の寛大な処置に泣いた。

(この殿さまのためなら、命もいらぬ!)

 徳川家のすべての武士たちが、心からそう思ったのである。
 「雨降って地固まる」の喩えどおり、この内乱を境に、三河武士の家康への忠誠はさらに 高まることになった。

 家康は、弥八郎も許した。
 直々に言い分を聞くために、岡崎の広間に弥八郎を呼んだとき、同じ本多一族の1人とし て、平八郎もその場にいることを許された。

「弥八郎よ、もう気は済んだかよ?」

 板間に据えた床几に腰を掛け、不思議とさっぱりとした顔で家康は聞いた。

「わしは、戦に負け申した。それだけのことでござる」

 弥八郎も、悪びれた素振りはない。負けたということと、間違っていたと認めることとは、 弥八郎の中では別ものであった。

「弥八郎、何を求め、一揆に就いた?」

「新しき世でござる。加賀のごとき、百姓の国を三河で創りたいと思いました」

「百姓の国とはなんぞ?」

「武士も百姓も、守護も大名も区別なき国でござる」

「それは、戦になるたびに百姓が武士になる国か?」

「・・・・・・・・・・・!」

「答えよ、弥八郎! 百姓が喜んで槍を握る国か?」

「・・・・わかりませぬ!」

 はじめて弥八郎の表情が歪んだ。

「わしは、百姓が槍を握ることのない国を創りたい。額に汗し、鍬を振るうことを、百姓が 当たり前に悦ぶ三河を創りたい。弥八郎、このこと、どうか!?」

「・・・・まだ、拙者にはわかりませぬ!」

 家康は静かに笑った。

「弥八郎よ、すべてを元に戻そう。今回のこと、わしは罪は問わぬ。お前も三河の百姓のた めに働け」

「・・それはできませぬ!」

 弥八郎は泣き出していた。その場に居た者すべてが、この家康の暖かい言葉に泣いた。 主君のこれだけの思いやりに接してしまっては、感極まらない三河者はいなかったろう。

「拙者は殿に背きました。今さらなんの面目あって殿のお情けにすがれましょう。わしは、 三河を去りまする。どうか・・・・お許しくださりませ・・・!」

「そうか・・・」

 家康も、我を通そうとはしなかった。

「鍋! 弥八郎の親族、郎党、すべてそちに預ける。同じ本多じゃ、遺恨なく扱え!」

「御意!」

 平八郎は、一も二もなく即答した。

「弥八郎、浪々に飽いたら、いつでもわしの元に帰るがよい」

「殿さまのご恩、この弥八郎、生涯忘れませぬ。平八郎殿、妻のこと、息子のこと、我が郎党 のこと、なにとぞ・・・お願い申す・・・!」

 弥八郎は向きを変え、平八郎に深々と頭を下げたのだった。


 本多 弥八郎 正信は、こうして1人、三河を去っていった。

 彼はこの後、大和の松永 弾正 久秀に仕え、その清廉にして無私な人柄を非常に評価され た。久秀が将軍 足利義輝を殺すと大和を去り、加賀に渡って一向宗の国で武将になった。そ こでさらに数年を過ごし、諸国を放浪した後、「本能寺の変」をきっかけに家康の元に再び戻 ってくることになる。
 後に家康の謀臣となり、家康の家臣統制のために憎まれ役に徹し、家康のもっとも 良きパートナーになった。やがて徳川家が天下を取り、家康が死ぬと、その同じ年に、後を 追うようにひっそりと病で死んでいる。

 自身の出世を一切望まず、大きな領土や特別な褒美を決して受け取らなかったにもかかわ らず、主君のために泥を被り続けることで多くの人に嫌われ、後世に巨大な悪印象を残した この本多 弥八郎 正信という男も、やはり家康一途の三河者には違いなかったのであろう。




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