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鷲 爪 伝


第一話 今義経


 べん――
 平家琵琶の弦が鳴る。

  祗園精舎ぎおんしょうじゃの鐘 のこえ 諸行無常の響きあり
  沙羅双樹さらそうじゅの花の 色 盛者必衰じょうしゃひっすいことわりをあらわす

 さびの利いた低い声。
 ばちを握るは、襤褸ぼろのような墨色の法衣をまとった小柄な坊主 である。薄暗い部屋の中で灯明かりに照らされたその顔は、目鼻の彫りが深く、濃い隈の中で眼 は閉じられ、頬には痘痕あばたが浮 いている。年齢は、よく判らない。眉間に皺を寄せ、苦吟するように語るその表情は時折よほど の年配にも見えるのだが、肌艶は悪くないからそれほどの高齢ではあるまい。四十代後半とい ったところだろうか。

  おごれる人も久しからず た だ春の世の夢のごとし
  猛き者もついには亡びぬ ひと えに風の前のちりにおなじ

 折り返すように絞って寂寥せきりょうの響きを出す声の技術 を「望憶ぼうおくの声」と言うらしい。 嫋々じょうじょうとした弦の響き と共に、法師の掻き口説くような声が広間に響き渡る。ゆったりとした言葉の流れ。長く伸ばさ れ る声音こわねに独特の抑揚。哀調を 帯びた平家琵琶 の。聞く者をして幽玄の雰囲 気に引き込 み、駘蕩たいとうとした気分にさ せる。この法師の法力と言うべきであろう。
 法師は、一時の栄華におごり、 哀れに亡んだ猛き者の例としてま ず唐土もろこしの覇者の名を挙げ、 次いで平将門たいらのまさかど藤原純友ふじわらのすみともなどとい った本邦で大乱を起こした者の名を並べ、

  まぢかくは六波羅ろくはらの入 道 前太政大臣さきのだじょうだいじん 平 朝臣たいらのあそん 清盛きよもり公と申しし人 の有様ありさま
  伝えうけたまわるこそ心も言葉 も及ばれね

 と続けた。
 さらに平清盛の先祖と平氏の略歴を語り、この曲は終わる。
 勝一しょういちと名乗った法師は ひときわ激しく琵琶をかき鳴らし、そ のが静まると、たっぷりと余韻 の間を取って首の短い小ぶりな琵琶を横に置き、土下座のような辞儀をした。

「小秘曲『祗園精舎』――お耳汚しにござりました」

 その言葉を合図に、広間に集まった数名の男たちから唸るようなどよめきが湧いた。
 俺の左隣に座った太郎左たろうざな どは、膝を打ちながら満足げに何度も頷いている。

「いやいや、なるほど評判を取るだけのことはある。見事な声でありましたな、わか

「ん? あぁ――」

 俺は苦笑し、胡乱うろんな生返事 をした。
 実際、耳で接する『平家物語』の印象は新鮮で、勝一の声の響き、語りの玄妙な間など、なか なか面白いと思ったのだが、平曲を初めて聞く俺にすれば、勝一と他の法師の声を比較すること ができず、それが一般にどれほどの水準にあるのかが判らなかったのである。見事と言われれば 見事なのだとも思うが、それが普通だと言われればそうかとも思う。
 ただ、この勝一という琵琶法師は評判が良い、ということは知っている。これを聞いた兄が非 常に気に入ったらしく、一度招いてゆっくり聞いてみるよう俺に勧めてくれたからこそ、今夜の この席がある。

「平曲にはいくつか流儀があると聞くが――御坊はいずれの師につかれたか?」

 太郎左が法師に問うた。

一方いちかた流の名人と謳われ た千一法師の孫弟子に卜一ぼくいち法 師と申されるお方がおわします。短い間ではございましたが、野僧はその卜一法師に手ほどきを 頂きました。流儀で申しますならば、一方流師堂派の枝葉の末に連なりまする」

 勝一は慇懃に答えた。
 顔は太郎左に向けているつもりなのだろうが、その方向はわずかにズレて、むしろ俺に向いて いる。目が見えていないからだろう。
 俺はと言えば、平曲に流派があるということさえ知らなかった。言うまでもなく、千一や卜一 という琵琶法師の名も聞いたことがない。

「喉を湿らすがよい。いでやれ」

 俺の右手にはべって酌をしてい た侍女に、そう命じた。
 女は打掛の肩を脱いで腰巻姿である。酒器を持って静々と進み、盲目の法師の手を取って盃 を持たせ、

「お殿様からのおこころざしであ りまする」

 と言いながらそれに濁酒を注いだ。

「これは――もったいない。有り難いことでござります」

 勝一は両手でそれを受け、盃を額の前まで掲げて辞儀をし、乳白色の酒を実に美味そうに飲ん だ。好きなのであろう。

「ご相伴に預らせて頂きましたる上は、 如何様いかようなりともお言いつ けくださりませ。夜は長うござりまする。まずはどのあたりを語らせていただきましょうや?」

 『平家物語』を琵琶の音に乗せて語る平曲は、二百曲以上も曲目がある。これを全部聞こう と思えば十夜あっても時間が足りないだろう。奏者に演目を任せるか、あるいはこちらが聞 きたい曲目を指定するかしなければならない。

「若、何ぞお望みがおありですかな?」

 太郎左の問いに、

「曲目は何でもよい。義経よしつねの出てくるくだりを聞きたい」

 俺は即座に応えた。
 最初からそのことは決めていたのである。

「されば、『一の谷』のあたりは如何でござりましょう」

「おぉ、『鵯越ひよどりごえ』か。 それでよい」

 「一の谷の合戦」は、「屋島」、「壇ノ浦」と並んで源平合戦における最大の見せ場のひと つであろう。平氏の本拠・摂津国福原(神戸市中央区)に築かれた堅固な防御陣地を、東の大 手、西の搦め手から源氏軍が攻める。平氏軍の守備は堅く、源氏方は苦戦するが、その激戦の 最中、義経がわずか七十騎の兵と共に敵陣を頭上の断 崖――鵯越―ひよどりごえ―から逆落としに奇襲し、 平氏軍を大混乱に陥れ、敗走に追い込んだという歴史的奇襲戦である。戦の天才という義経の 評価を確固たるものにした記念碑的合戦と言っていい。

「されば、まずは『老馬』をお聞き頂き、しかる 後『坂落さかおとし』の段 をらせて頂きまする」

 勝一は再び琵琶を構え、その弦を鳴らし始めた。

 九朗 判官ほうがん 義経――

 義経を意識するようになったのは、いつからだったろう。
 物心がついた頃、俺にとって義経はすでに英雄だった。
 最初に読んだのは『義経記ぎけいき』だったと思う。餓鬼の頃、それで義経に強く惹かれてしまった俺は、 『吾妻鏡あづまかがみ』、『源 平盛衰記』、『保元物語』、『平家物語』、『平治物語』といった書物を貪るように読んだ。俺 の家は代々学者の家系で、城の書庫には先祖が数百年掛けて集めた千冊を越える書籍があったか ら、教材には困らなかった。
 義経という男は常に劇的だ。牛若丸と弁慶の出会い。父を滅ぼした平家への復讐を志し、その 力が及ばぬ奥州へ逃避行。兄・頼朝が関東で兵を挙げるとその元に駆けつけ、黄瀬川で涙の対面 を果たす。源氏軍の大将となってからは常に先陣に馬を立て、「一の谷」では切り立つ崖を逆落 としに駆け下り、「屋島」では平氏軍の本拠を奇襲するためにわずか五艘で嵐の海に船を出し、 「壇ノ浦」で宿願だった平家打倒を見事に成し遂げる。有名な“八艘跳び”の超人ぶりを見せた のもこの船戦の場面である。しかし、義経は平家打倒にそれだけ巨大な貢献をしながら、戦目付 け(軍監)とは常に衝突し、これ に讒言ざんげんされ、兄・頼朝から 憎まれるようになる。鎌倉への帰還さえ禁じられた義経 は「腰越状こしごえじょう」を書い て頼朝の冷たい仕打ちを嘆き、切々と兄弟の情に訴えて許しを請うが、ついに許されず、“朝 敵”として国中の頼朝傘下の武士たちから追われ、逃避行の果てに最後はわずかな主従と共に 奥州で滅ぼされる。
 子供心に義経の哀れさに同情し、兄・頼朝の冷酷さに義憤を発したりしたものだ。
 長じてもう少し物事が解ってくると、その頼朝の側近くに知恵袋として仕え、鎌倉幕府創設 の立役者となっ た大江広元おおえのひろもとこ そが、俺の先祖であるということを知った。


 俺の家は、代々毛利という姓を名乗っている。
 家に伝わる話では、大江広元の四 男・季光すえみつという人 が相模さがみ国(神奈川県)毛利荘 を賜り、その土地の名を取って「毛利」という姓を名乗った、ということになっている。南北 朝の頃、季光の孫・時親ときちかが 安芸国(広島県)吉田荘(安芸高田市吉田町)の地頭となり、以後、代々吉田の領主として三 千貫(約二万石)ばかりの領地を治めてきた。
 学者の家系と言ったのは、先祖であるその大江氏 が、文章道もんじょうどう(歴 史学・漢文学)をもって代々朝廷に仕えていたからである。平安の頃――といえ ば、現在いまから五六百年も昔の話 だが――大江氏は優れた学者や歌人を多く輩出し、朝廷から重く用いられたのだという。たとえ ば大江維時おおえのこれときという 人は歴代の天皇の侍読(学問を教授する学者)を務めたと聞いている し、大江匡房おおえのまさふさとい う人は菅原道真すがわらのみちざねに も伍する碩学せきがくと謳われ、白 河天皇からは知恵袋のように重用され、なんと正二位にまで昇っている。かの和泉式部も大江氏 の出であったと伝わっているし、「中古三十六歌仙」には大江姓の歌人が三人も入っている。
 一族の誇りと言うべきそれらの偉人と同じ血が俺にも流れている、ということは、餓鬼 の頃からさんざん聞かされて育った。
 「血」というものが人間の才にどれほど関係するのか俺は知らないが、少なくとも俺 の記憶にわずかに残っている親父の面影は、今想えば武将というより線の細い学者のような印象 だった。
 親父は――
 どんな顔をしていただろう。想い出そうとしてみたが巧くいかなかった。なんだか薄ぼんや りとした印象しかない。
 ――親父が死んで、もう十年にもなるか・・・・。
 縁は薄かった。
 親父は俺がまだ三つの頃に隠居を宣言し、当時わずか九歳の長 兄・少輔太郎しょうたろうに毛利家 の家督を譲って、本拠であ る郡山こおりやま城を出てしまった のである。親父は次兄 の松寿丸しょうじゅまるだけを連れ て西の多治比たじいに移 り、猿掛さるかけ城で暮らすように なった。なぜそんなことになったのかは長く解らなかったが、大勢力に翻弄されざるを得ない弱 小大名としての政治的配慮から、已むにやまれずそういう選択をしたのだろうと推察できるよ うになったのは、ごく最近のことだ。
 俺は三男坊で、しか も妾腹しょうふくの子である。母は 親父の側室めかけで、郡山城下 の相合あいおうという土地に屋敷を 与えられ、そこで暮らしていたところから「相合の方」などと呼ばれた。親父は俺が知っ ているだけで三人の側室がいたし、侍女にもよく手をつけて子を産ませたりしたが、城下に屋敷 を持たせてもらうという特別待遇を受けていたのはどうやら俺の母だけだったようで、その意味 では親父は母を特別に想ってくれていたのかもしれない。が、餓鬼の頃の俺にはそんなことは当 然ながら判らなかった。広いだけで粗末な屋敷に、母と乳母と侍女、そして姉が二人と妹が一 人――俺はまさに女ばかりに囲まれて暮らし、育っ た。<*注釈1>
 親父は、月に一度か二度、その屋敷に泊まってゆくだけの人だった。
 記憶の中の親父は、いつも母に酌をさせて酒を飲んでいた。
 叱られた記憶も、遊んでもらった記憶もない。
 剣を振ったり槍をしごいたり、弓を引いたり馬に乗ったり――およそ武士として必要な技能 の鍛錬は、すべて太郎左が俺に仕込んでくれた。太郎左――渡辺 太郎左衛 門 すぐる――は、親父が俺につ けた傅人めのと(養育係)なのであ る。古武士然とした厳しい男で、餓鬼の頃はずいぶんと殴られた。
 太郎左は暇さえあれば――それが己の使命でもあるかのように――俺の身体を鍛えた。身体 を使うことは何でも得意だったし、覚えも早かった。木剣や木槍で殴り合っても、相撲でも水 練でも、同世代の子供で俺に敵う者はいなかった。
 しかし、親父は一度も褒めてはくれなかった。
 親父は俺の顔を見るたびに、書を読め、勉学に励め、と、太郎左とは真逆の事を言った。言 いつけを守れば親父に褒めてもらえるだろうと子供心に思った俺は、手当たり次第に本を読ん だ。仮名は母に手ほどきを受け、漢字は郡山の満願寺に通って住職から習った。七歳で漢文の 訓読を覚えてからは、寺の蔵書はもちろん、郡山城の書庫からも書籍を借り出して、片っ端か ら読んだ。
 和歌はその面白さが解らなかった。『源氏物語』のような色恋を扱ったものにも当時は興味 を覚えなかった。それらに比べ、合戦を扱った軍記物語は面白かった。義経に入れあげるよう になったのも、その頃である。
 たしか八つの頃、屋敷に泊まった親父の前で『太平記』を暗唱した。俺が本当に学 んでいるのか試すつもりで、半ば冗談で「やってみろ」と言った親父は、半刻経っても俺の暗 唱が淀みなく止まらなかったので、この時ばかりは仰天していた。

「お前にもやはり江家ごうけの 血が流れておるのだな」

 と言われた時は、初めて褒めてもらったようで嬉しかった。

「お前の下の兄 の松寿しょうじゅにもなかなか才が あるが、あれはどうも詩歌の方に偏っておるように 思える。お前は合戦いくさが好き か」

 好きだと答えると、

「ならば今宵の褒美に、お前に良いものをくれてやる」

 次に屋敷に来た時に、親父 は『闘戦経とうせんきょう』という 古びた書物をくれた。

「これは毛利家の当主が 代々相伝そうでんして来た軍略の奥 義の書だ。我らのご先 祖・毛利時親ときちかは、か の楠木正成くすのきまさしげにこ の書をもって軍略の奥義を授けたと伝えられておる」

 と親父は誇らしげに言った。

少輔太郎しょうたろうは病が ちで線が細い。松寿は女のよう に弱々なよなよして王朝物や歌物 ばかり読んでおる。見るところ、三人の中ではお前が一番行く末に見込みがある」

 酔った親父の酔狂だったかもしれないし、妾の境遇に甘んじる母に対する機嫌取りであったか もしれない。そうであったとしても、俺は後にも先にもあの時ほど嬉しいと思ったことはなかっ た。
 『闘戦経』は小著である。半刻もあれば全文を読めるが、その割にはなかなか大仰な序文が ついている。

「鬪戰全經者本朝兵家之蘊奥我家之古書也 先鬼先神智勝陰勝陽機不在于此書者不能」

『闘戦経の全ての章は、本 朝兵家へいかの奥義を極めたもの で、我が家の古書である。鬼に先んじ神に先んずるための智、陰に勝ち陽に勝つための機は、 此の書でなければ得られない』

 あの時の俺は、その書き出しを目にしただけで、全身が総毛立つほどの興奮を覚えた。

「お前ならば、それほどの量ならすぐに覚えられよう」

 親父は言った。

「だが、知っておるだけでは会得したことにはならぬ。己の血肉にせねば意味がないのだ。 読んで考え、考えてある境地に行き着けば、そこで凡てを忘れてしまえ。忘れたらまた読め。 読んで考え、考えたら再びまた忘れよ。そうしておれば、そのうち何やら解ったような気にな れる」

 謎のような言葉で、当時はまったく意味が判らなかったが、親父が俺にくれた最初で最後の 親らしい訓戒だったようにも思う。
 長兄の病弱を心配していた親父は、その翌年にぽっくりと病で死んだ。
 俺はまだ九つだった。
 しばらく親父の姿が見えぬと子供心に不審に思っていたのだが、ある日突然、親父の葬儀に連 れて行かれてずいぶん面食らったように憶えている。三月ばかりは患ったのか。酒害で身体を壊 したのだとその時に聞かされた。哀しいと思うほどの繋がりはなかったが、やはりそれなりの 喪失感は味わった。
 それが、現在いまからちょうど十 年前である。
 十年――
 決して短い歳月ではない。
 この十年で、病がちで線が細かった長兄は毛 利 治部少輔じぶのしょう 興元おきもとと名乗り、毛利家当 主として恥じない立派な武将となり、安芸の国人一揆(豪族連合)の盟主と目されるほどの存 在感を持つようになった。
 歌好きで女のようだったという次兄 は多治比たじい 少輔次郎しょうじろう 元就もとなりと名を変え、本家か ら分家して一家を立て、猿掛城主にして多治比・三百貫(約二千石)の領主になった。
 それに比べて俺はといえば――
 俺は未だに部屋住みの三男坊である。立派な兄が居り、その兄に家を継がせる子まである以 上、毛利本家の家督を継ぐ望みなどは勿論ないのだが、分家して家を立てさせてもらえるでも なく、他家に養子に出されるでもなく、十九にもなって本家の御曹司として飼い殺され、何と も宙ぶらりんな立場にいる。
 部屋住みだから、俺個人にはろくな財力も兵力もない。
 俺にあるものといえば、人並み外れて強靭なこの体躯と、親父に貰った『闘戦経』と、大仰 な渾名あだなくらいのものだ。

 今義経いまよしつね

 二年ほど前から、俺はそう呼ばれている。誰が呼び始めたものかは判らない。なぜそう呼ば れるようになったかと言えば、俺が合戦で多少の活躍をしたからだろう。部屋住みの「御曹 司」という立場も関係しているのかもしれない。敬意と共に、幾らか の諧謔かいぎゃくや侮蔑も含まれて いるに違いない。
 いずれにしても、やはり何かしら義経とは縁があったらしい。


 気が付けば、平曲 は『坂落さかおとし』の名場面 に入っていた。
 義経は搦め手攻めの三千騎を従え、京から丹波路を迂回し て播磨はりま国へ出、平氏の福原の 城塞を西から攻める。『義経記』では、義経は搦め手軍本隊から離れ、わずか七十騎のみを率 いて隘路を 取り、鵯越ひよどりごえから福原 を直撃する作戦を取ったと記述されている。一方、『平家物語』では、義経は三千騎を率いて そのまま鵯越の道を取り、全軍で攻め込んだ、ということになっている。
 同じ合戦を扱っていても軍記物語にはよくそうい う齟齬そごがあり、現地の実際の地 理を知るすべもない俺などはその手の差異を発見する度に混乱 し、真贋しんがんの見極めに苦労し たりする。
 この「一の谷の合戦」で言えば、鵯越が大変な険阻であるらしいことを考えれば、三千騎もの 軍勢――おそらく総勢は一万人を遥かに越えるであろう――が道なき道を殺到できたとは思えな い。本隊には西から敵陣を攻めさせ、義経が少数の精鋭を率い、敵の虚を衝いて頭上の断崖から 奇襲を掛けたという『義経記』の説が自然であろうと思っている。
 が、琵琶法師である勝一にはそんなことは関係ない。

  九朗御曹司 其の勢三千餘騎で 一の谷 のうしろ 鵯越に打ち上げ
  城郭遥かに見くだしておわしけるところに――

 と『平家物語』をそのまま語るだけである。
 義経は断崖の上から十頭の鞍を置いた馬を落とす。そのまま落ちてゆく馬、あるいは足を 折り、転んで落ちて死ぬ馬もあったが、そのうちの三頭が崖際の屋形の屋根の上に落ち、見事に 立ち上がる。
 それを確認した義経は、

「馬どもはそれぞれに乗り手が注意して落とせば怪我することもあるまい。我に続いて落と せ! この義経を手本とせよ!」

 と叫び、真っ先に断崖を駆け下る。

  大勢皆つづいてぞ落としける 餘りのいぶせさに 目を塞いでぞ落としける
  ゑいゑいごゑを忍びにして 馬に 力をつけて落とす
  大方人の仕業とは見えず ただ鬼神 の所為しょゐとぞ見えたりける

 勝一の名調子は、合戦の様子をありありと脳裏に浮かび上がらせる。
 俺は前傾して聞き入り、拳を握り締めていた。
 先頭に立って敵陣に駆け込む義経の姿が、己に重なった。
 あの時も――
 二年前のあの合戦の時もそうだった。

 吉田の北――甲立こうだち(安芸 高田市甲田町)の宍戸ししど氏は毛 利とは昔から仲が悪く、この数年、年に数回は小競り合いを繰り返していた。秋の刈り入れ時 期を狙って宍戸氏が兵を南下させ、吉田の田の収穫を略奪しようとしたのがその合戦の契機だ った。
 長兄の興元は次兄の多治比元就に郡山城の留守を任せ、三百騎を率いて出陣 した。俺も十騎ばかりの近侍と共にこれに参加した。
 一方、敵 将・宍戸元源ししど もとよしは 武勇に優れた猛将として知られ、しかも老巧の合戦巧者である。五百騎ばかりを引き連れ て可愛えの川河畔に陣を敷き、 毛利軍の出戦を待ち構えていた。
 弟の俺から見ても長兄は正義感の強い高潔な男で、赤心に溢れ弁舌にも優れた外交の上手だ が、合戦はあまりうまくない。筋目 や大義を好むゆえか正攻法に拘り、駆け引きが単調だから、地力に勝る宍戸氏との戦いでは常に 苦戦を強いられる。あの時も愚直に戦う毛利軍は宍戸元源の采配に好いように翻弄され、二段、 三段と構えられた戦術のために後手後手を踏まされ、ついには兄の旗本までが窮地に立たされ た。
 ――このまま押し切られれば負けるな。
 そう悟った俺は、近侍のみを率いて戦場をすり抜け、敵軍と駆け違い、敵の本陣目掛けて迂回 突撃を敢行した。
 これが、図に当たった。
 手持ちの兵を出し切ってしまっていた宍戸軍の本陣は、俺が率いたわずか十騎ほど の突貫で備えが崩れ、しかも背後の本陣を直撃されたと知った宍戸方の先陣が大いに狼狽し、足 並みが乱れた。一方、毛利方は、俺の無茶な突撃に仰天した長兄が全軍を叱咤し、俺を討たすまい として軍兵たちも猛然と反撃したために勢いを盛り返した。
 潮の流れが変わるように鮮やかに攻守が逆転し、劣勢だった毛利軍は見事な逆転勝利を収めた のである。
 あれが、俺が『義経』になった瞬間だったろう。

「あの時の御曹司の鬼神のようなお働きは、九朗 義経の再来かと思うほどで――」

 なぞと、城下ではしばらく評判になった。
 毛利家に属す家臣も領民も、誰もが俺を誉めそやした。
 長兄は俺の働きに対して立派な馬を――感状まで添えて――褒美にくれたが、血を分けた肉親 としてはその無謀を叱った。

「此度はたまたま勝ち戦となったから良かったものの――」

 命を粗末にするような真似はするな、と兄は怒った顔で言った。俺の身を案じて親身に忠告し てくれているわけで、その有り難い真心はちゃんと伝わったのだが、
 ――この聡明な兄上ですら、俺という人間を知らぬか・・・・。
 という想いが、俺を少なからず落胆させた。
 今でも俺は、あの突撃が無謀だったとは思っていない。
 『闘戦経』の第四十四章にこんな文言がある。

「箭離弦者討衆之善歟」

『寡兵をもって大軍を討つには、戦機を捉 え、つるから放たれ たのように一気に突き進むのが 善い』

 俺は合戦の流れを読み、敵の戦術が出尽くし、後詰め(予備兵)が払底し切った戦機を嗅ぎ 取ったのである。俺が突撃することで、戦場の敵味方の風景がどう変わるかということがちゃ んと視えていた。
 が、それを言葉で説明したところで、戦機の視えない人間にはその機微は絶対に解らない。 たまたま巧く行ったからこその強弁と取られるだけだということが判っているから、反論する 気にもなれなかった。何をかいわんや、という感じである。
 その後も何度も合戦はあり、俺はそのたびに手柄を立てたが、境遇はそれ以前と少しも変わ っていない。相変わらず本家の「御曹司」として飼い殺され続けている。
 ――武門に生まれた弟ほど哀れなものはないな。
 そう思わぬでもない。
 義経も、おそらくこういう悲哀を味わったのだろう。
 が、俺が現在いまの境遇に強い不 遇感を抱いているかと言えば、実はそういうわけでもない。
 大勢力の狭間の弱小豪族という立場で長兄がどれだけ苦労をし、日々どれほど心痛しているか を、俺は間近で見て知っているのである。正直、兄の役回りを代わりに務めたいとは思わない。 頼まれたって嫌である。
 だから、兄に代わって毛利家の当主になりたいなぞという大それた願望は俺にはない。付け加 えるなら、義経のように兄との確執で涙を流すようなハメにもなりたくない。
 ただ、
 ――大将として毛利の軍兵を自在に動かしてみたい。
 とは思う。
 要するに俺は、己の裁量で大きな合戦をやってみたいという、およそ子供じみた夢を抱いて いるだけなのだ。義経に比されるだけの軍才が本当に自分に備わっているのか――それを見極 めてみたいのである。
 総大将として長兄には本陣に座ってもらい、先鋒大将として俺が先陣を預かる――そういう形 なら、あり得ない話ではないだろう。
 俺にすれば、それで十分なのだ。
 ――俺の武勇と軍才を万人が認めれば、いずれそうなる。
 口にこそ出さないが、俺はそう想って部屋住みの「御曹司」に甘んじている。


 平家琵琶の響きは、深更まで途絶えることはなかった。
 永正十三年(1516)、晩夏のある夜の話である。



<*注釈1>
 毛利弘元の側室・相合の方は、もともと身分の低い家付き女房(侍女)であったようで、相合 元綱と、さらに三人の娘を産んだとされている。この三人の女性はいずれも毛利元就の「異母 妹」と一般に考えられているが、三人の年齢が確定できる史料はない。彼女らが嫁いだと思われ る年代、婿になった人物の年齢、死亡した年代などを考慮すると、三人のうち少なくとも一 人――吉川元経に嫁ぎ、吉川興経を産んだとされる松姫――は元就より年齢が上とした方が自然 であるように思われる。
 いずれにしても史料的な確定作業は不可能と判断し、この物語では三姉妹のうち二人を元就 の「異母姉」とし、一人を「異母妹」として扱うことにする。


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