深 淵猟 犬 (6)
言葉に出さず、青年は吐き捨てた。 (だいたいなんで10日なんだ! それに、10日すると俺の不安が どうやって解決するって言うんだ!!) 澤の不安の元凶は、脳裏に焼き付いたあの禍々しい瞳である。 それが、たった10日のうちに綺麗に無くなるとは、彼にはどうして も思えない。 (それとも、何かの暗喩か・・・?)
野垣が言う不安とは、自分が感じているその不安とは、別のこと
を指しているのかも知れない。 そんな考えが、時間にすればほんの一瞬の間に、青年の胸裡を 騒がせては去った。 「考えてもみたまえ・・・・」
青年の瞬間の葛藤を知っていたのだろうか。
「君の見たあの幻が、例え紛れもない真実であったとしても、それ
は今からざっと30億年も過去の話じゃないか。どうしてそんな遠い
時代の存在が、君を恐怖に陥れることができるのだね? 君が心を砕く必要は、まったくないのだよ。
ランプも手元から無くなったことだし、君は見てしまった不幸な部
分を、本当に悪夢を見てしまったとでも思って、1日も早く忘れてしま
わなければならない。そして、昔の君に戻って、昔の、君が生き生
きしていた頃の生活を、出来るだけ早く取り戻すべきだよ。 (・・・過去。・・・・過去か・・・・!) 青年は放心したように野垣の言葉を聞いていた。
もし仮に、このときの青年の精神がこれほど不安定な状態でなかっ
たとしたならば、あるいは青年は、野垣がこの間一度も彼を振り返
らなかったという事実に気が付いたかも知れない。
けれど青年は、その瞬間に、すでに落ちていた。 青年は立ち上がっていた。
「そうですよね!!
けれど、野垣は結局青年を顧みようとはしなかったし、訪問者の 足音が遠く小さく消え去っても、窓の外を眺めることを止めようとは しなかった。 「・・・門は、その狭きがゆえに、くぐる者もまた少ない・・・」 彼は疲れ切ったその低い声で呟いた。 「けれど、・・・まれにいるのだよ。何の知識もなく、何の力もな く、偶然それを通り抜けてしまう者が・・・」
野垣の口調は、どこまでも低い。
「誰を恨むことも出来ないよ。
『イスの偉大なる種族』は、君を無視したのではない。
けれど、君は目を合わせてしまった・・・!
ヤツの注意を引いてしまった瞬間に、もうすべてが終わっていたん
だよ・・・。
密室に変死体捜査本部によると、被害者の部屋は内部から電子錠で閉じられて おり、窓その他も完全に内側からロックされていて、室内で争った 形跡もないのだが、被害者の引きちぎられたと思われる頭部及び 右腕が持ち去られており、また、被害者の周辺に異常な粘液質の 液体が大量に振り撒かれているうえ、大型犬のような足跡が現場に 残されていたことから殺人と判断した。 捜査本部は、凶暴な動物を使った被害者の顔見知りの犯行か、 被害者が大規模な事件に巻き込まれたとみて、原因の究明に全力を 挙げると共に、重要な証拠と思われる現場に残された液体の解析を 急いでいるが、被害者の部屋が密室であり、犯人が被害者の身体を 引きちぎったうえ持ち去るなど意味不明な点も多く、関係者もこの前 代未聞の事件に困惑の色を隠しきれない様子である。
[ 猟 犬 ] Fin |