深  淵


猟  犬 (6)



(10日たつと、あの真っ赤な瞳が消えるとでもいうのか!!)

 言葉に出さず、青年は吐き捨てた。

(だいたいなんで10日なんだ! それに、10日すると俺の不安が どうやって解決するって言うんだ!!)

 澤の不安の元凶は、脳裏に焼き付いたあの禍々しい瞳である。 それが、たった10日のうちに綺麗に無くなるとは、彼にはどうして も思えない。

(それとも、何かの暗喩か・・・?)

 野垣が言う不安とは、自分が感じているその不安とは、別のこと を指しているのかも知れない。
 またあるいは、澤自身が、まだその本当の不安の根本を、自覚し 切れていないのかも知れない。

 そんな考えが、時間にすればほんの一瞬の間に、青年の胸裡を 騒がせては去った。

「考えてもみたまえ・・・・」

 青年の瞬間の葛藤を知っていたのだろうか。
 賢者は愚者には間を与えずに、次の言葉を継いでいた。

「君の見たあの幻が、例え紛れもない真実であったとしても、それ は今からざっと30億年も過去の話じゃないか。どうしてそんな遠い 時代の存在が、君を恐怖に陥れることができるのだね?
 君の周りに、ヤツが姿を現したという物的証拠が−−その兆候だ けでもいい−−君は見つけているのかな?
 確かに私がこれまで集めた知識から言えば−−もっともそれを信 じるか信じないかは君の自由だが−−君が見たものは、紛れもない この星の真実の姿だ。
 それは、断言しよう。
 けれど、肝心なのは、それが遠い過去の世界で起こったことであ る、ということだ。

 君が心を砕く必要は、まったくないのだよ。

 ランプも手元から無くなったことだし、君は見てしまった不幸な部 分を、本当に悪夢を見てしまったとでも思って、1日も早く忘れてしま わなければならない。そして、昔の君に戻って、昔の、君が生き生 きしていた頃の生活を、出来るだけ早く取り戻すべきだよ。
 今君が、こうして君の不健康な想像に心の平静と健康を蝕まれて いても、君にはメリットなど一つもありはしないのだから」

(・・・過去。・・・・過去か・・・・!)

 青年は放心したように野垣の言葉を聞いていた。

 もし仮に、このときの青年の精神がこれほど不安定な状態でなかっ たとしたならば、あるいは青年は、野垣がこの間一度も彼を振り返 らなかったという事実に気が付いたかも知れない。
 あるいは仮に、青年が注意深く野垣の表情を見つめることが出来 ていたならば、青年は、野垣の声のその感情の無さに思い至ってい たかも知れない。

 けれど青年は、その瞬間に、すでに落ちていた。
 それまで彼の瞳の中で、鈍く濁った赤を湛えていた「なにものか」 が、その瞬間、憑き物でも落ちるように、確かに青年から剥がれ落ち ていた。

 青年は立ち上がっていた。

「そうですよね!!
 俺はいったいなんでこんなに悩んでいたのだろう!!
 そうだよっ!!
 しょせん過去にあったことなんだっ!!」





 青年がその部屋を辞したのは、それから間もなくのことであった。
 帰り際の青年は、すでにずいぶんと明るさを取り戻していて、心底 嬉しそうに、一通りの謝意を野垣に述べていった。

 けれど、野垣は結局青年を顧みようとはしなかったし、訪問者の 足音が遠く小さく消え去っても、窓の外を眺めることを止めようとは しなかった。

「・・・門は、その狭きがゆえに、くぐる者もまた少ない・・・」

 彼は疲れ切ったその低い声で呟いた。

「けれど、・・・まれにいるのだよ。何の知識もなく、何の力もな く、偶然それを通り抜けてしまう者が・・・」

 野垣の口調は、どこまでも低い。
 それは、まるで誰かに言い聞かせるようでもあった。

「誰を恨むことも出来ないよ。
 望んだのは君なのだから。
 君が心の奥底で、原始の地球の姿などを望んでしまったのだから。

 『イスの偉大なる種族』は、君を無視したのではない。
 ただ君が、霊体でも、ましてや実体でもなかったから、気が付か なかっただけなんだ。
 『覗き穴』を見つけられなかっただけなんだ。

 けれど、君は目を合わせてしまった・・・!
 『覗き穴』から覗いている君という存在を、見つけられてしまっ た・・・。
 それも・・・・よりにもよって、ヤツに・・・!!

 ヤツの注意を引いてしまった瞬間に、もうすべてが終わっていたん だよ・・・。
 もう、どうすることもできないのだよ・・・。
 次元の『角』に住むヤツらにとって、『時間』など、『距離』で しかないのだから・・・


 ・・・ヤツら・・・・『ティンダロスの猟犬』たちにとっては・・ ・・・・!!」







 この物語はここで終わりだが、澤青年と野垣氏が会談してから ちょうど2週間後、一風変わった事件が起こって、土地の新聞や報道番組を 賑わせた。
 最後に、その時の新聞記事を掲載しておくことにしよう。




密室に変死体

○日朝、☆☆県**市□□の△△マンション201号室で男性の変死 体が発見された。この男性は澤 善彦(23)、同県国立大学に通 う学生で、全身を鋭い刃物のようなもので切り裂かれ、右腕と頭部 が引きちぎられた状態で自宅マンションの一室に放置されていた。 遺体は死後3日ほど経っており、☆☆県は死体の状況から殺人と 断定、同県北警察署に捜査本部を設け、本格的な捜査に乗り出した。
 捜査本部によると、被害者の部屋は内部から電子錠で閉じられて おり、窓その他も完全に内側からロックされていて、室内で争った 形跡もないのだが、被害者の引きちぎられたと思われる頭部及び 右腕が持ち去られており、また、被害者の周辺に異常な粘液質の 液体が大量に振り撒かれているうえ、大型犬のような足跡が現場に 残されていたことから殺人と判断した。
 捜査本部は、凶暴な動物を使った被害者の顔見知りの犯行か、 被害者が大規模な事件に巻き込まれたとみて、原因の究明に全力を 挙げると共に、重要な証拠と思われる現場に残された液体の解析を 急いでいるが、被害者の部屋が密室であり、犯人が被害者の身体を 引きちぎったうえ持ち去るなど意味不明な点も多く、関係者もこの前 代未聞の事件に困惑の色を隠しきれない様子である。



[ 猟 犬 ] Fin


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