深 淵
猟 犬 (5)
青年はそこまで一気にしゃべると、これで総てだというふうに、大
きな溜め息を一つ、した。
コーヒーカップの黒い液体はいささか冷めかかっていたけれど、
青年はゆっくりとそれを口元に運び、大きな音を立てて一口嚥下した。
そして、すべてを打ち明けた者のいくらかスッキリとした顔をして、改
めて野垣の方を上目遣いで見た。
「・・・それで、それからそのランプはどうしたんだね?」
野垣の顔には、もう先刻のような驚きや狼狽といった変化は微塵も
なかった。ただ僅かに変わったものがあるとすれば、それはその口
調であったかも知れない。はたして青年は気づかなかったが、日頃
の彼からすれば、その口調はやや事務的と言えなくもなかった。
「あぁ・・・怖ろしくなったんで、あの夢の次の日に、あのお爺さ
んの古道具屋へ返しに行きました。
僕はそこでも、あの白髪のお爺さんに、いま話したことをすべて
話したんです。
そしたら、お爺さんは・・・
『あんたに気に入ってもらえなかったとは残念だ。
でも、もう遅いよ。
望んだのは、あんたなんだから・・・』
とか言って、気味悪く笑うんです。
お爺さんはそれ以上何も答えてはくれなかったし、僕も本当に怖く
なってきたんで、その足で友人の鬼頭君を訪ねたんです。それで、
鬼頭君に教授のことを教わって・・・」
青年はまた、不安げな表情に戻っていた。
野垣はそれを聞くと、納得したように何度か頷き、瞑目して何かを
考えているような素振りをした。
そして−−−
野垣はゆっくりと目を開くと、青年がこの部屋に入ってきてから最
も鋭いと思える視線を彼の瞳に向けた。
しばらく、沈黙が続いた。
「・・・あ、あの・・・」
先に沈黙に耐えられなくなったのは青年であった。
張りつめていた緊張の糸は、そのとき切れた。
「おぉ、すまない・・・」
我に返った野垣は答えた。その瞬間、もうあの表情は消えていた。
野垣は再びゆっくりと立ち上がると、西向きの窓辺まで行き、青年
に背を向け、もう完全に沈んでしまって残光のみとなった美し
い夕焼けを眺めた。
そして、青年を振り返ることはなく、明らかに言葉を選びながら、
あの低い声で語り始めた。
「・・・君に何が起こったのか、・・・おおよそ解ったよ。
しかし・・・。
・・・さて、何から話したものかな・・・。上手く説明できると
も思えないんだが・・・。
まず、君が手にしたランプは・・・、・・・あれはおそらく『アル
バザードのランプ』と呼ばれるものだよ」
「えっ!?」
(教授はやはりご存じだった!)
問い返しながら、澤は瞬間的にそう思った。
興奮を無理矢理抑え、青年は野垣が紡ぐであろう次の言葉を待った。
「『アルバザードのランプ』は・・・、例えるなら『覗き穴の付いた
扉』ということができる。それは・・・、使う者の望む世界を時代、
場所に関わらず覗かせてくれる力を持つという・・・。
・・・そして、それは『扉』にもなるという。現世(うつしよ)と
その夢の世界を繋ぐ『扉』にも」
私は20年代のアメリカで、その『扉』を開き、謎の失踪を遂げた
作家がいることを知っている、と野垣は続けた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
これは、何度も心のどこかで覚悟を決めていた青年にとっても、や
はり衝撃的な言葉だった。
自分が見てきた、あの形容のしようもない冒涜的な生き物が、時
間と空間を異にするとはいえ、この世に紛れもなく存在していたなん
て!
けれど、彼はここで気を失ってしまうわけにはいかなかった。
自分を悩ませていたものが、現実味を帯びたものになったのなら、
なおさら、聞かなければならない話は、これから先であるはずだっ
た。
青年は激しく揺れ動く心をどうにか押さえると、野垣の広くもない
背中を見つめ、耳に全神経を集中した。そして、その賢人から紡が
れるであろう次の言葉を待った。
野垣が吐いたその言葉は、けれど青年の覚悟とはおよそ無縁な、
意外というほかない言葉だった。
「君の不安は、あと10日もすれば完全に解消するはずだよ」
「・・・・・・・・・・え?」
青年は、完全に呆気にとられた顔で終日の陽光の中に立つ男の
後ろ姿を眺めていた。
この賢人の言葉が頭の中で2度3度と繰り返されても、彼にはそ
の言葉の意味するところを理解することは出来なかった。
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