深  淵


猟  犬 (1)



「野垣教授はいらっしゃいますか?」

 短いノックの音に続いて、明らかに男性のそれとわかる、どこか 気怠さを感じさせる声がその部屋に響いた。

「開いています。入ってください」

 野垣と呼ばれたその男は、西に開いた窓に遊ばせていた視線を 扉の方に向け、その年齢によく似合う重々しい声で答えると、この 訪問者を招いた。
 窓からはオレンジに染められた光が射し込み、この老人と呼ぶに は若すぎる男の顔の皺を一層深いものにしていた。
 秋も終わりに近づいてきたからだろう。窓から見下ろす銀杏の木 にはほとんど葉がなく、黄色に−−いや、今はオレンジに染められた 絨毯がその辺りに厚く敷きつめられていた。

「失礼します」

 先刻と同じくどこか生気を失ったような声がして、ゆっくりと扉が開 かれた。そして、年の頃なら22、3歳の、眼鏡をかけた痩せた男が その部屋に現れた。
 たちまちオレンジに染められたこの訪問者は、見るからに頬が痩け ており、夕日の悪戯のせいだろうか、目の下の隈は妙に深いものに なっていた。

「まぁ、掛けなさい」

 男は軽く一礼すると勧められた席に着き、どこか猛禽を思わせる目 を正面に向け、野垣を目踏みするように見つめた。
 男の髪は乱れており、服装も、流行の最先端をいってしかるべき この年代の青年にしては、ひどくラフな、いや悪く言えば、ひどく飾 り気のないなものだった。黒の上着の色は褪せ、皺だらけのシャツ はところどころにシミのようなものが付き、薄汚れたジーンズは少し 黄ばんでいるようにさえ見えた。

「で・・・、私に話というのは・・・?」

 野垣のこの催促の言葉で、男はようやく口を開き、語り始めた。

「・・・あ・・・僕のことは、助手の鬼頭君から聞いていると思う んですが・・・、教授は、その・・・・オカルトや超状現象に興味 をお持ちで、大変お詳しいとか・・・。僕のまわりに起こることの 性格上、警察の力に頼ることもできませんし、かといって、このまま 放っておくのも、・・・その・・・・不気味で・・・。・・・教授 のお力をお借りしたいんです。このままでは、僕は・・・もう・・・ ノイローゼにでもなってしまう・・・」

 男はこれだけ言うと、両手で頭を抱えるような姿勢になった。
 身体全体が、小刻みに震えている。

「ふむ・・・」

 野垣はゆっくりと立ち上がり、窓際の机に向かって回り込むと、 壁の棚の中からカップを2つ取り出した。机で湯気を立てている サイフォンを取り上げ、それぞれのカップに黒い液体を満たした。

「澤・・・くんだったかな・・・」

 両手に持ったカップの一つをこの訪問者に手渡し、野垣は再び 皮の安楽椅子に腰を埋めた。

「君のまわりに起こったこと、というのを、順序立てて話してもら えないか? ただ君に力を貸せと言われても、私にもどうしようもな いよ。ただ・・・」

 野垣は注意深く男の視線をのぞき込んだ。

「・・・これは皆にも言っていることなんだが・・・。私は話を聞 くことはできるが、君に具体的に力を貸せるかどうかは判らない。私 の知識なんてものは、この大宇宙の神秘・・・、いや、たしかにあ る見えない恐怖に比べれば、ほんの一握りの・・・、曖昧で微々た るものに過ぎないのだから・・・」

「・・・・・・・」

 野垣の視線を落ち着かぬ瞳で受け止めながら、澤と呼ばれたその 訪問者はゆっくりと頷いた。
 そして、ひとたび瞳を堅く閉じると、何かを思い出すように、そして それを絞り出すように、ゆっくりと、ゆるゆると語り始めた。


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