しかしいうまでもなく,それはいかにも困難である。
コンピュータに「心」を実現するということは,
テューリングテスト(注1)
に合格するようなプログラムを実現するということと等価ではない。
テューリングテストというゲームに勝つために戦略的に練られたシス
テムには,必ずしも我々同様の「心」がある必要はないのである
(このゲームに勝つためには戦略的には「人間の心」を持つことが
最適であるかもしれないが,それはまた別の議論である)。では
「心」を持つとはどういうことであるのか。
テューリング(Alan Mathison Turing)が万能テューリングマシン
について考えていた時代,機械とはネジ式時計のようなものに対し
て当てはめられた言葉であった。しかし時代は進み,我々はコンピ
ュータという思考の道具を得た。テューリングが思い描いたように,
もはや我々は機械が思考するということを疑わない。
しかし,思考するということと「心」を持つということは,等価で
はない。
「思考」という言葉が字義通り,考えること,すなわち知性を働
かせて論理的に結論や判断を得ることを指すのであれば,それは
適正にプログラムされたコンピュータにとってわけはない。思
考するからといって,「心」を持ったことにはならないのである。
「思考」が「心」の働きの一つであったとしても,計算機はまだ 「心」を持つには至っていない。しかし,我々人間は,普通「心」 を持つものとして理解されている。では我々とこの計算機との差違 はどこにあるのだろうか。
我々が「心」と呼ぶものは,我々に多くの能力を与えてくれる。
「意識がある」ということ。
「思考できる」ということ。
「感覚を持つ」ということ。
これらは我々にとって,「心」の働きとして理解される。
そこでこのような「心」の働きを,今後「心の機能」と呼ぶことにする。
近年の脳生理学,ならびに神経科学の進歩によって,我々が様
々な心の機能を実現するために,我々の脳が非常に重要な働きを
しているということが明らかになった。
一例をあげるなら,例えば失語症の研究によって,我々が言語
を理解し,操ることができるということにとって,我々の脳の言語
野と呼ばれる部分が重要な役割を担っているということが証明さ
れた。
また例えば,PET(ポジトロン放射断層撮影法)を使えば,ある
人の現在働いている脳の部分を調べることができる。
このように,我々が心の機能を体現するためには,我々の脳の働
きは欠くことができないのである。
そこでいま,ある状態の人間の脳をコンピュータでシミュレート するということについて考えてみよう。
人間の脳は10の11乗の神経細胞と,少なくても 10の15乗のその
結合からなっている。
各神経細胞について場所依存的に行われるであろう信号交換と
そのルール,またそれぞれ特定の遺伝子集団によって決まる極めて
複雑な生化学的調節機構,膨大な数に及ぶであろう制御ループ等
々を,機能的に寸分の狂いもなく記述したと仮定しよう(このよう
なことが可能であるかどうかは後に検討する。さらにいくつかの検
討すべき点を一時脇に置くことにすれば)。我々は,「ある状態」
のある脳を,擬似的にではあるがコンピュータ上に実現したことに
なる。
そしてまさにこのとき,私にはある疑問が生じるのである。
人間の「心」にとって脳が特別な存在であることは疑いない。
しかし,はたしてこのコンピュータは「心」を持っているといえるのだろうか?
「心」とは何か?
それは何処からきたのか?
そして何処にあるのか?
「心」という語が指すものは,古くから哲学や心理学において様々
に議論されてきた。しかし「心」は個人のものである。つまり我々は
他人の「心」を知るすべがない。その意味において「心」は唯一の
ものであり,我々はそれを何かと比較して説明するというようなこと
ができなかったのである。
ところが,我々はコンピュータという新たな思考の道具を得た。
コンピュータはソフトウェアのアナロジーによって,新しい「心」
と「身体」の関係を我々に提案している。
この小論における私の目的は,計算機は「心」を持つことがで
きるのか,という私の素朴な疑問に,一つの結論を与えることであ
る。
そこで,私はまず,この「心」と「身体」の関係について考察
することにしよう。我々の中に,「心」というものがいかにして存
在するのか。また,それはどのようなものなのか。2章において,
私は「心」というものに対する一つの仮説を提案する。
その後3章において,私は私の「心」の仮説に基づいて,計算
機に「心」を持たせるということについて考察する。
機械が「心」を持つことができるのかどうか。またそのためには
どうすることが必要なのか。3章によって私は,機械が「心」を持
つということがいかなることなのかということについてある帰結を
導こう。
これらの議論を経て,我々は,「心」とは何であるか。その
「心」を機械 に与えることができるのかどうか。これらの疑問に
対して,一つの結論を得ることになる。
私はただ,己の直観に正直であることを心掛けながら,これら
のことについて注意深く洞察していくことにしたい。