「心」というものを扱うならば,まず「心」という語の定義から始 めるのが常道であるかもしれない。
私が扱おうとしている「心」は,三省堂「大辞林」によれば「人間の 体の中にあって,広く精神活動をつかさどるもとになると考えられるも の」,「人間の精神活動を知・情・意に分けた時,知を除いた情・意 をつかさどる能力。喜怒哀楽・快不快・美醜・善悪などを判断し,そ の人の人格を決定すると考えられるもの」とある。
無論私が意図しているのは,テューリングが「計算機械と知能」[2] の冒頭で指摘した「言葉の標準的な用法を可能な限り反映するように 工夫を凝らすような態度」をとることではない。しかし、このような辞 書における解釈といったものを,人々の一般的な認識であるとか,標 準的な理解と認めるならば,これは暗黙のうちに我々が「心」という ものの存在をデカルト的な仕方で受け入れているということなのかもし れない。
「心」という存在を認め,それにある一定の地位を与えるという立 場は,我々にとってはむしろ自然であり,直観ともよく合致する。我々 にとって「心」とは,議論の余地もないくらい確実に,常に我々に内 在するなにものかであり,通常それに疑問を持つことも,またその必 要すらもないのである。確かに我々は疑いなく,常に「心」と共にあ る。
しかし,では「心」とはそもそも何処にあるのか,と問われると, 我々は途端に答えに窮する。我々の常識では,「心」とは,我々の肉 体がこの世界に存在するような仕方では世界に存在していないからで ある。我々の肉体を開いても,「心」が動いている様を観察すること は(その正当な意味においては少なくとも)できない。我々は「心」 に直接該当する器官を知らず,また「心」がどのようにそこに存在して いるのかということにも理解がない。いや,正確にはその言い方すら も正しくない。我々は,「心」がどうして「心」たり得るかについて極 めて無知であり,また普通考えることさえもしない。なぜなら考えるま でもなく,「心」は「心」のあるべき姿をして常に我々のそばにあるか らである。つまり我々には本来的に,「心」の所在について語る必要 がない。
しかし,必要の如何はともかく,私はこの章で,「心」のありかたに ついて若干の考察を試みてみることにする。なぜなら「心」がどのよう なもので あるかということに対して理解を持つことは,計算機に「心」 を実現することが可能であるかということを考えるに当たっては,非常 に重用であると思われるからである。