註 1)
テューリングテスト:
1950年アラン・テューリングの「計算機と知能」
という論文において発案された,計算機の知能テスト。
テューリングが示したのは,イミテーション・ゲームというものであ
った。イミテーション・ゲームとは,まずテレタイプの様な状況を想定
し,質問者と,それとはなれた場所にいる女性(A)と計算機(B)
が会話可能な環境を用意する。質問者は任意の質問が許され,A,
Bともに自由にその質問に答えることができる。質問者の目的は,
A,Bのいづれが女性であるかを見極めることであり,A,Bの目的
は自分こそが女性であると質問者に思わせることである。
テューリングは,このイミテーションゲームに勝利することができる
ような計算機が現れたら,それを「知能」をもった機械である,と
定義することにしようと提案した。
これから転じて,テレタイプのような状況で,質問者と会話して,
質問者が会話相手が機械であるか,人間であるかを判定するという
ゲームを,テューリングテストと呼ぶようになった。
註 2)
ライルはもう一つ,我々が陥りがちな言語的混乱を指摘する。
それは彼が"Knowing how"と"Knowing that”という言葉で区別
しようとしたカテゴリー錯誤である。
坂本(Hyakudai Sakamoto,「心と身体」,岩波書店,1986)の例
を借りれば,ある人が「用心深い」というとき,我々はその人が
「用心深さ」のなんたるかを知り,それに基づいて行動していると
思いがちである。しかし,事実は「用心深い」とは行動の特性を示
す言葉であり,それはむしろ行動を成し得る能力のような概念に対し
て使われるべきなのである。つまり「用心深く」行動し得るというこ
とがある人がまさに「用心深い」ということであり,それは彼が
「用心深い」ということが何であるかを十分よく知っているというこ
とによるものではない。
それは「方法を知ること」と「内容を知ること」の差違からくる
カテゴリーミスである。
註 3)
「原一元論」:
坂本百大が「心と身体」(1986)において(設計
段階としながらも)提唱した心身関係に対する仮説。
正式には「原事件一元論」あるいは「原事件同一説」。
感覚や知覚に対する脳過程のもっともプリミティブな段階の主客
未分,心身混然とした体験を原事件と呼ぶ。原事件は心的,物的
の区別がないのだが,これを内観する場合,高度な概念形式をも
つ言語化の過程において,心的,物的の選択が行われる,とする。
すなわち言語過程において心的,物的概念のどちらが適応される
かが決定するのである。
我々の「心」は,それについて語ろうとするととたんに霞むよう
なものであるという直観に対して非常に整合的である。
「心脳同一説」の派生。
註 4)
「相補的二元論」:
山本信が論文『「物」と「私」』
(1980)において提唱した心身関係に対する仮説。
山本は我々が持っている感覚器官を個々別々に取り上げ,その
一つ一つが独立に知覚をもたらすという考え方を批判する。
物と「私」との関わりに方には,「身体として物を知覚する側
面」と「意味論的に世界にひろがっている側面」とがあり,この
側面はいずれもどちらかから導出することはできず,還元不可能で
ある。それらは「等根源的」であり,その限りにおいて二元論的
であると仮定する。
「相補的二元論」はこの二側面を,あくまで二元的に存在し,
しかも根底においてはどこかで漠然と融合している事態をそのまま
事実として受け入れることを提案する。
「相補的」とは,「矛盾しながら一つになっている」あるいは
「一つにして同じものが矛盾し合った事柄を同時に含んでいる」と
いった意。
理論としては弱点も持つが,我々を「心」と「身体」の全的なま
とまりとして見ることを提案している。
註 5)
物理学者ロジャー・ペンローズに代表される考え方で,このうち
プラトン分派がこれにあたる。
「神秘最小限化の法則」により,意識の神秘と量子力学の神秘
は同じものであると主張する。