歴史のかけら
2美濃(岐阜県)関ヶ原は、濃霧であった。前夜から降り続いた細い雨が霧へと変わり、そこに 集結した17万の兵馬を白く白く包み込んでいた。
関ヶ原の盆地を西に見下ろす桃配山という丘のような隆起に、この朝の未明、東軍8万の総大
将である徳川家康が本陣を据えた。その桃配山の西斜面に、十九女池(つづがやいけ)という小さな
池があるのだが、この池の前面が、忠朝が属する本多隊の陣地であった。 視界が、まるでない。 (雨雲の中にでも入り込んだようじゃ・・・・)
と、忠朝は思ったであろう。 (静かだ・・・・)
この小盆地に味方だけで8万もの人馬がひしめいているはずなのに、忠朝の耳膜はいかなる音
も拾い上げてくれない。風の音、甲冑の擦れる音、馬の呼吸音やいななく声――意識すれば
聞こえるであろうそれらの雑音は、水中に没しているときのように厚い皮膜の外のことに感じら
れた。
忠朝は、戦場に臨むのはこの「関ヶ原」が初めての経験であった。 忠朝を我に返らせたのは、戦場錆びした低い声であった。 「怖ろしいか?」 若者の傍らで、鹿の大角の兜をかぶった漆黒の武者が、静かに佇んでいた。 「なんの、怖ろしくはございませぬ!」
忠朝は、笑って言った。 「初陣というのは怖いものじゃ」 と、男――本多忠勝は笑った。 「忠政のときなぞは、あやつはずいぶんとうろたえておった」 「しかし兄者は、見事に兜首を挙げ、武功を樹てられました」 忠朝の兄 忠政は、このときから10年前の「小田原の役」で初陣を遂げ、この父と共に戦って 岩槻城を攻め陥とすという武功を挙げていた。忠朝はその無邪気な自慢話を何度も忠政から聞か されており、自分も早く戦場で武功を挙げたいと念願していたのである。 「わしも兄者に負けず、父上の名に恥じぬ働きをして見せとうござる」 忠朝は、この父の名に誇りを持っていた。戦場で醜態をさらし、「父に似ず不出来な息子 よ」と人から言われることだけは、なんとしても耐えられない。それは、この若者にとって死 よりも辛いことなのである。 「気負うな」 と忠勝は言った。 「お前は酒が好きであろう。酔わぬ程度に酒でも飲み、もうすこし気をくつろげよ。我らの出 番は、まだまだ先。今からそのように肩に力が入っておっては、いざ戦が始まっても、とても のこと身体は動かぬぞ」 腰に下げていた酒の入った瓢箪を、放って寄越した。 「この霧が晴れるには、まだ一刻(2時間)は掛かるであろう。我らに出番が回ってくるのは、 さらにその後のことよ」 人から聞いた話では、戦場での父の言葉というのは外れたことがないという。 「何ゆえ、そう思われるのでございますか?」 忠朝が聞くと、 「己で考えてみよ」 と言って忠勝はまた笑った。 「お前には何度も申し聞かせておるが、我ら家臣にとってもっとも大切なことは、殿さまのお 気持ちを察することじゃ」 忠勝は本陣の陣幕をめくって忠朝をその中へと招じ入れ、床几に腰を落ち着けた。 「殿さまが、何ゆえこの関ヶ原で豊臣家の諸侯に先陣を任せ、我ら徳川譜代の者を後ろに置い たのか――考えたことがあるか?」
忠勝は優しく聞いた。 「それが解るようになれば、殿様が何をなさりたいのかが解り、戦がどう推移してゆくかが読 めるようになり、自然、己の果たすべき役割が見えてくる。わしらの殿さまは――」 なかなか腹の解らぬお人であられる、と忠勝は続けた。 「ハキと物を言わぬお人であるから、あれをせよ、これをせよなどとは、いちいちお指図くださ らぬ。ゆえに我らは、ことさら殿さまのお心を推察し、物事をよくよく考え、これぞ最良である と信じられることを自信をもって行えるようにまでならねばならぬ」
槍一筋から身を起こし、10万石の太守にまで登った男の言葉である。千斤の重みがあるで
あろう。 「少なくとも、わしはそうしてやってきたよ」 「父上ほどのお方であれば、そのような知恵の働きもできましょうが、私のような者には、とて も・・・」
忠朝はもらった瓢箪をあおり、ぐびりぐびりと酒を喉の奥に流し込んだ。 「今はただ、戦場において力の限り槍を振るい、武功を挙げることで殿様のお役に立ちたいと、 それのみを考えておりまする」 「わしも、お前ほどの年の頃はそうであった。若いうちは、それでも良い」
忠勝は言った。
「あれは、福島 左衛門大夫(正則)殿の陣でござりまするな!」
忠朝が叫ぶように言った。 「うむ。大夫が仕掛けたようだな」 やがて、あれほど盛んだった銃声がぴたりと止み、再び十九女池は静寂に包まれた。 「これは・・・・?」 忠朝は困惑顔で聞いた。なぜ銃声が途絶えてしまったのであろう。 「鉄砲の声が絶えたるは、槍合わせが始まった証拠ぞ。いよいよ戦が始まるわ!」
と、その忠勝の声が終わるか終わらぬかのうちに、背後の家康の本陣でびょうびょうと法螺
貝が吹き鳴らされた。 「我らも鬨をつくれ!」
忠勝は即座に命じた。 忠朝は、自分の胴がぶるぶると痙攣していることを知った。全身が総毛立ち、悪寒にも似たゾ クゾクとしたものが背筋を走り回っている。 (・・・これが、戦場か!!) 呆然とする忠朝を見据え、 「それが、武者震いぞ! 忠朝、恥じるな!」 忠勝は嬉しそうに大声で叫んでいた。
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