歴史のかけら


戦鬼の血脈

13

 大坂城から南へ約4km――上町台地のほぼ中央に、こんもりと盛り上がった丘がある。
 その丘の頂きで、四方を睥睨するように鎮座しているのが四天王寺である。聖徳太子が建立したと いう日本最古の仏法寺院であるこの寺は、太子信仰の一大拠点として、また庶民救済の中心地として 全国から尊崇を集めていたのだが、石山本願寺を攻めていた信長が敵の拠点となることを怖れて これを焼いてしまったため、この当時の伽藍は秀吉によって再建されたものである。
 この地は、まさに今、戦場になろうとしている。
 寺内町を飲み込んだ広大な寺域のすぐ脇に、豊臣家の軍団長の一人――毛利勝永率いる5千余の 軍勢が布陣していた。四天王寺の伽藍や塀を要塞に見立て、高地に陣した防衛戦を展開するつもり なのである。

 忠朝にとって生涯最後の敵になるこの毛利勝永という男についても触れておくべきであろう。
 勝永は、毛利姓を名乗ってはいるが、中国地方に巨大な版図を築いた毛利元就以来の毛利氏とは何の 関係もない。勝永の毛利家というのは、豊臣家には極めて珍しい譜代家臣なのである。
 勝永の父 勝信は、最初は信長に仕え、信長の命によって秀吉の寄騎となった。秀吉にとっては最古 参の家来の一人であり、やがて秀吉が天下を取ると、豊前小倉で14万石を与えられ、大名となった。
 毛利親子にとって秀吉とは重恩の主であり、豊臣家に対する純粋な忠誠から「関ヶ原」では西軍に つき、伏見城攻めなどでも軍功を挙げている。しかし、西軍は関ヶ原の主力決戦で破れたため、毛利 親子も所領を失い、土佐へ配流され、山内一豊に預けられることになった。
 その配流所で父の勝信は死んだが、1614年になって勝永の元へ豊臣家からの隠密の使者が現れ た。勝永は、この使者の懇請を容れ、単身で土佐を脱出。大坂城へと入城した。
 勝永が大坂城に入ったという噂が伝わるや、昔の家臣で浪人していた者たちが続々と大坂城へと入 城した。豊臣家の譜代大名という肩書きを持つ毛利家に対する首脳陣の信頼は厚く、しかも数百とは いえ手勢も引き連れているわけだから、勝永の大坂城内での発言力というのは大きかった。自然の流 れとして一軍団を預けられることになり、この「夏ノ陣」では真田幸村と共にもっとも重要な天王寺 口の守備を受け持った。
 勝永は、このとき38歳。この合戦の最期に、豊臣秀頼の自害を介錯するという役割を演じ、自ら腹 を切って豊臣家と運命を共にする男である。豊臣家に対する純粋な忠誠心で働いているという意味で は、豊臣家の軍団長の中でも特異な存在と言っていいかもしれない。


 さて、いよいよ最終決戦へと筆を進めよう。

 本多隊は、総攻めの下知を受けるやいち早く軍勢を進め、四天王寺の丘の下まで進出した。
 忠朝からは、敵を見上げる格好になる。
 四天王寺の南門のあたりに敵の本隊である毛利隊の旗が立ち並び、その前面の坂には柵が植えられ、 幾重にも軍勢が布陣している。あれをすべて突破せぬことには、敵の大将を討ち取ることはできな い。

「進め!」

 忠朝は自ら第一線に立ち、馬をくるくると輪乗りさせながら鉄砲足軽を追い立てるように前進さ せた。
 「冬ノ陣」のときに、家康は鉄製の弾避けの盾を大量に作らせていた。それを前面に押し立て、 その影に隠れるようにして2百人の鉄砲足軽たちがしずしずと進んでゆく。足軽たちにすれば怖ろし くて進みたくはないのだが、大将である忠朝自らがすぐ後ろで急き立てる以上、押し出されるよ うにして前進してゆかざるを得ない。

 高地に陣を敷く毛利隊からは、この前進の様子が手に取るように見えた。
 毛利隊とすれば、本多隊を十分に引き付けるまでじっと待ち、一斉射撃をもってこれに打撃を与 え、押し返せば良い。

 天王寺方面の軍団長である真田幸村と毛利勝永は、この最終決戦に対する作戦を事前に十分 に協議していた。
 その戦略とは、東軍を茶臼山付近まで十分に引き付けるまで防戦に徹し、東軍の前線と本営が間 延びするころに攻勢に転じ、同時に待機させている明石全登の軽騎兵団をもって家康の本営を長駆 して直撃させ、敵を混乱に落としいれ、その隙を衝いて毛利隊と真田隊が二筋の矢のように一直線 に家康本営まで突撃する、というものだった。
 机上の作戦としては、寡兵の豊臣方にとってはほとんど理想的な戦略と言っていいであろう。
 その作戦から言えば、毛利隊はわずか1千の本多隊などと白兵戦をするまでもない。あくまで高 地と四天王寺の伽藍の防御能力を利用し、敵の後続部隊を十分に引き付けるまであしらい戦をしつ つ時間を稼ぐというのが当面の目的であるはずだった。

「下知あるまで、決して撃ってはならぬ!」

 大将である毛利勝永は何度も前線に使いを送り、このことを士卒に徹底させていた。
 しかし、実際の戦闘というのは、そう思い通りに運ぶものではない。

 坂の下からじわりじわりと前進してくる本多隊の圧力をもろに受ける最前線の兵の恐怖という のは、非常なものであった。戦国の頃ならともかく、戦闘に関して未熟な者が多いこの「大坂の陣」 の頃の兵では、その圧迫感と恐怖感に耐えられたものではない。この恐怖を振り払うためには敵に 向かって攻撃を仕掛ける以外になく、敵を寄せ付けないほどに銃弾の雨を降らせるしかないであろ う。
 銃卒の一人が堪えきれずに引き金を絞ると、その銃声が周りの兵たちの自制心をも吹き飛ばし、毛 利隊の銃卒たちは狂ったように射撃を始めた。

 その銃弾は、本多隊に届きさえしなかった。
 この頃の銃の有効射程というのは、せいぜい150mであったに過ぎない。火薬を多めに詰めれば多 少射程は伸びるが、それでも200mを越えると甲冑を打ち抜くことさえできないほどに貫通力が落ち るのである。弾丸は、そのほとんどが坂の途中の地面をむなしく叩き、本多隊は一人の怪我人を出 すこともなかった。
 これを見た忠朝は、

「これほどの距離から撃ってくるとは、敵はよほどの臆病者揃いぞ! 皆、笑ってやれ!」

 と言って士卒を励まし、轟々と鳴りわたる銃声をものともせず、銃撃の白煙の中に沈みこんだ敵 陣に向けさらに士卒を前進させた。

 毛利隊の前線では、凄まじい射撃の白煙によって視界が完全に閉ざされてしまっていた。
 銃声を聞いた毛利勝永は大慌てで前線まで駆けつけ、勝手に射撃を始めてしまった銃隊を叱り付 け、ただちに射撃を止めさせようとしたが、時すでに遅かった。
 風が視界を回復させたとき、本多隊はすでに目前まで迫っていたのである。

「鉄砲はこうして使うものよ! 放てぇ!」

 忠朝が叫び、本多隊の銃隊が一斉に射撃を開始した。
 その銃弾は毛利隊の士卒をバタバタと打ち倒し、大将である勝永の身体をさえかすめた。
 この時代の戦争の常識で言えば、ここで鉄砲隊と弓隊を入れ替え、つるべ打ちに矢を撃ち込んで矢 戦をしつつ鉄砲の装填時間を稼ぎ、さらに射撃準備を終えた鉄砲隊と隊列を入れ替えて銃撃し、これ を繰り返すことで敵に間断なく打撃を与え、機を見て白兵突撃に移る、というのがいわばセオリーで あった。
 しかし忠朝は、一度の一斉射撃の後、すぐさま全軍に斬り込みを命じた。小競り合いをすっとばし て、いきなりの白兵突撃である。
 当然 射撃戦になると思っていた勝永は、慌てた。

(こうなれば、やむなし!)

 もはや、勢いである。この敵の突撃に応戦しないわけにはいかないであろう。
 勝永が迎撃を命じるや、毛利隊の第一陣が坂を駆け下り、本多隊と真正面から激突した

 本隊の中央で馬をあおる忠朝は、往年の忠勝を思わせる見事な用兵を見せた。槍隊で正面から押しつ つ鉄砲隊の斉射と騎馬隊の突撃を巧みに繰り返して敵を蹂躙し、ほとんど一瞬でこの第一陣を蹴散らし たのである。
 しかし、毛利隊には本多隊の5倍という圧倒的な兵数があった。崩され退却する第一陣と繰り変わ って第二陣が本多隊へと殺到し、混戦になった。

 鹿の大角の兜をかぶり、漆黒の具足に身を包んだ忠朝は、「掛かれ掛かれ」と叫びつつ自ら槍を とって駆け回る。その姿は若き日の忠勝に生き写しであり、この忠朝の気迫が乗り移った本多隊の奮 戦の様というのも凄まじいの一言に尽きた。

(これはいかぬ・・・!)

 再び本営へと駆け戻り、四天王寺の南門付近から戦況を見下ろしていた勝永は思ったであろう。勝ち 続け、敵を蹴散らし続けねばならない毛利隊とすれば、たった1千ほどの敵に大被害を被るわけには いかない。まして、この敵に手間取ってしまえば、これから続々と集まってくるであろう敵の後続部 隊を満足に迎撃することさえできなくなる。
 勝永の本営からは、本多隊の後方から5千ほどの新手が近づいて来ているのが見えていた。これは 開戦に先立って陣を下げた先鋒隊の諸軍なのだが、この敵を迎え撃つためにも眼前の本多隊をすぐさ ま壊走させねばならないのである。

 勝永は、当初の作戦案を捨てざるを得なかった。寡兵の豊臣方にとってみれば緒戦の快勝は絶対条 件であったし、とにかくも迅速に勝利をもぎ取らねばその後の戦略もなにもあったものではない。ぐ ずぐずと逡巡し、この状態のまま敵の後続部隊を迎えてしまうことだけは、なんとしても避けねばな らなかった。
 勝永は、全軍をもって前進し、まず本多隊を殲滅し、立ちふさがる敵を次々と打ち破って家康の本 営を指して突撃しようと決意した。そして、そう思いを決すれば、迷いはなくなった。この毛利勝永 は、かの真田幸村に劣らぬほどに戦術指揮が巧みな男なのである。
 勝永は兵を割いて本多隊を左右から横撃するよう命じると、自ら本隊を率いて坂を駆け下った。

 忠朝は、乱戦の中にあった。

「勝ちは我らぞ! 勝ちは我らぞ!」

 と叫んでは兵たちを勇気付け、槍を振るい続ける。極度の興奮と疲労のために痛覚が 麻痺し、痛みを感じることこそないのだが、その身体はすでにいくつもの傷を負っていた。
 5倍の敵と戦っている本多隊の士卒にとって、次々と投入されてくる敵というのはほとんど無尽 蔵にも思えたであろう。銃隊の一斉射撃のたびに削り取られるようにして本多隊の人数は減ってゆ き、忠朝と共に死を誓った武者たちがその誓いの通り次々と命を落としていった。

 毛利隊の本軍が前進を始める頃、別働隊が本多隊の脇に回ってこれを包囲した。本多隊は三方か らの射撃によってめった打ちにされ、その時の銃弾が、馬上で阿修羅のように奮戦する忠朝の胸板と 脇腹を貫いた。
 忠朝は、たまらず馬から転がり落ちた。

「殿!」

 駆け寄る馬廻り(親衛隊)の武者たちを制し、槍を杖にしてどうにか立ち上がった忠朝は、口か ら血を滴らせながら叫んだ。

「進めや! 敵の大将は目の前ぞ!」

 失血と極度の疲労で蒼白になった忠朝は、それでも槍を振り回し続ける。ついにはその槍さえも が折れたが、ひるむこともなく雑兵の槍をたちまち奪い、さらに数人を突き伏せ、それからは太刀 を引き抜いて右手に引っ提げ、左手には鉄拵えの馬の鼻ねじ(鉄棒)を掴み、群がり寄せる敵を刺 し殺し、殴り倒し、足を引きずりながら前へ前へと進んでゆく。

 その姿は、すでに一匹の鬼と化したようであった。


 その頃、忠朝の命に逆らって陣を後方に下げていた先鋒軍の諸隊がようやく前線に到着した。しか し、これらの将を下知すべき大将の忠朝はすでに敵の重囲の中にあり、将たちとしても自儘に戦う以 外にどうしようもない。
 勝永は、本多隊の包囲に使った左右両翼の部隊をこれらの諸隊に突っ込ませ、その間に本隊を総動 員して本多隊の殲滅に掛かった。

 本多隊は、すでに2百人を割ってしまっている。

「本多の男の意地を見せろや! 敵の大将に一太刀なりとも浴びせよや!」

 忠朝はかすれる声で叫び続けた。
 忠朝の望みというのはすでに勝つことでも生きて帰ることでもなく、半歩でも前に進むことであり、 本多忠朝の名を世に高らかに響かせることであり、亡父 忠勝の名に恥じることのない死を飾ること であった。
 そして忠朝は、そろそろこの舞台の幕が近いことを感じていた。

(我ながら、よう働いたものよ・・・)

 失血のために朦朧とする意識の中で、うっすらとそのことを思った。

(冥途で親父殿は、我が働きを褒めてくだされるであろうか・・・・)

 あの世で再会するであろう忠勝は、一手で敵中に飛び込んだ忠朝を叱るであろうか。それとも、 天晴れなる働きよと、それでこそ三河の武士よと、さすがに我が息子よと、喜んで迎えてくれるで あろうか――

 毛利隊の包囲の輪がいよいよ狭まり、本多隊はすり潰されるようにして壊滅した。
 すでに十数箇所の傷を受けていた忠朝は、最期は敵の銃弾によって倒れ、群がり襲って来た敵兵の 槍でめった突きにされ、豊臣家の雨森伝左衛門という物頭の手の者によって首を取られた。

 忠朝が死ぬと、生き残った本多家の武士たちはその遺骸の周りに集まり、

「情けなし! 殿に死に遅れたわ!」

「もはや生きても甲斐なし!」

 などと叫び、その場で折り重なるようにして残らず討ち死にした。


「本多出雲守殿、討ち死に!」

 という報告を受けたときの家康の言動というのは、常に沈着なこの男にしては異常であった。

「たわけたことを申すな!」

 と顔色を変えて一喝し、その報告を信じようともしなかった。

「おのれなどは、出雲守がどういう男であるかを知らぬのだ!」

 とさえ言ったから、家康が忠朝を疎んでいると思っていた側近たちは当惑した。

 家康は、心のどこかで忠朝に父である忠勝の影を重ねていた。
 忠勝は、家康がもっとも愛した戦場の勇者であり、どれほど過酷な任務を命じても、どれほど悲惨 な戦場に放り込まれても、傷一つ負うことなく必ず帰ってきた。その忠勝の息子である忠朝が、戦場 で死ぬわけがないであろう。

 しかし、戸板に乗せられて後送されてきた忠朝の首のない遺体を目の当たりにしたとき、家康はさ すがに現実を認めざるを得なくなった。
 家康は、忠朝の遺体に取りすがり、それを抱きしめるようにして嗚咽した。

(・・・・許せ!)

 これは、忠朝に謝ったものか忠勝に謝ったものか、家康自身にさえよく解らなかったであろう。

「惜しき侍を死なせてしもうたものよ」

 と家康が言ったと古記録は記載しているが、そんな一言で家康の心中を推し量れるものではない。
 家康は、「関ヶ原」以来久しく流していなかった涙をぼろぼろと流した。

 戦後、家康は本多隊の生き残りの武者に一人残らず感状を与えると言い、兄の忠政に命じてそれを 探させたところ、命を永らえた者はわずか5人であったという。この一事を見ても、この「夏ノ 陣」の本多隊がいかに凄まじく働いたかというのが歴然と解るであろう。


 この物語にとっては蛇足かもしれないが、本多隊が壊滅した後の戦場の様子を点描しておく。

 本多隊を壊滅させた毛利隊は、そのまま家康の本陣目掛けて突撃を開始した。これは事前の作戦 にないことであり、この突撃を見た真田幸村も作戦の遂行を諦め、全軍に突撃を命じた。
 この両隊の突撃の様というのは、凄まじかった。

 毛利隊は、本多隊から遅れてやってきた先鋒軍をほとんど一瞬で蹴散らし、敗走させると、そのま ま小笠原秀政率いる第二陣2万の中に突っ込み、指揮官を次々と討ち取ってこれも突き破った。
 戦前に家康が危惧していた通り、三河以来精強として知られた徳川軍団は、哀れなほどに弱かっ た。酒井家次を主将とする第三陣さえもが、疲弊した5千に満たない毛利隊の前にたちまち壊 乱し、逃げ惑った。

 その頃、茶臼山に本陣を置く真田隊5千は、1万5千の松平忠直隊に突っ込み、これと凄まじく格 闘し、繰り出される部隊を次々と撃破し、敵中に深く突き込んでいた。

 このとき、味方の凄まじい敗色に狼狽したためでもあろうが、後方にいた浅野長晟という男の部隊 が前線に移動しようとしているのを見て、徳川勢の中から「浅野隊が豊臣方に寝返った!」という虚 報が流れ、このデマによって全軍が大いに混乱し、裏崩れ(前線が崩れていないのに、後方が崩れてい くこと)が起こった。
 これを機と見た真田幸村は決死隊を組織して家康の本陣目掛けて斬り込みを掛け、大混乱する東軍を 蹴散らし蹴散らし、徳川本軍の中へと突っ込んだ。
 家康を守るべき旗本たちは、混乱につぐ混乱でろくに防戦することもできず、馬廻り衆(親衛隊)ま でもが後ろも見ずに逃げ散るといった有様で、家康の御座所を土足で逃げ回る者さえいたほどの周章狼 狽ぶりであったらしい。ことに、本陣の傍に布陣していた家康の側近官僚たちの部隊の弱さというの は目を覆いたくなるほどで、この戦陣に家康の旗奉行として参加した大久保彦左衛門は、『三河物 語』でその無様な逃げ惑いようを痛烈に皮肉っている。

 家康は、逃げた。
 7万5千という大軍勢の総大将たる者が、ほとんど単騎で逃げた。このとき家康に従った者は、た だ一人の小姓と坊主ら数人の非戦闘員だけだったらしい。
 真田隊に追いまくられ、転がるようにして逃げた家康は、この逃避行中にしばしば取り乱し、2度 までも自害を口走ったという。

 真田隊に続き、第三陣を突破した毛利隊が家康の本陣まで突き入った。これを阻止しようと した部隊はことごとく蹴散らされ、勝永自身が徒歩立ちになって本陣の中で家康を探し回ったが、すで に逃れてしまった家康を捕らえることはできなかった。

 やがて、家康の危機を知った周辺の部隊が群がるように本陣に殺到する。
 毛利隊、真田隊共に奮迅するが、圧倒的に多勢に無勢である。やがて壊滅し、真田幸村は討ち取 られ、毛利勝永は血路を開いて脱出し、大坂城へと撤退した。

 家康は、辛くも一命を拾ったわけである。

 一方、将軍 秀忠が率いる岡山口の徳川勢も、ありえないような醜態をさらしている。
 わずか5千の大野隊は、先鋒の前田隊2万と互角の戦いを演じていた。この乱戦の中、大野治房は 5百の兵を割いて秀忠の本陣へと迂回突撃させた。これを阻止しようと酒井忠世、土井利勝といった 秀忠側近の部隊が立ちはだかったが、紙のような脆さで突き破られ、見る間に蹴散らされた。こ の決死隊の突撃は秀忠の本陣の直前まで届き、一時は秀忠自身が槍を取って戦おうとするほどであっ たという。
 治房の本隊の方が前田隊に押し返され、耐え切れなくなったために撤退を余儀なくされ、結局この 突撃は実らなかったのだが、徳川勢の醜態の様というのは、家康の予想をさえ超えていたと言うべきであ ろう。

 逃げに逃げて時間を稼いでいた家康は、敵の壊滅を知るや全軍を建て直し、大坂城を囲んで秀頼を 自刃させ、豊臣家を滅ぼした。

 秀吉という天才が一代で築いた豊臣家の歴史はここに幕を閉じ、この時から250年にわたって続く 徳川時代が始まることになる。
 家康は、豊臣家の滅亡を見届けたこの翌年、永眠した。


 ちなみに忠朝は、この「大坂の陣」の後、「神」になった。
 それも、どうしたわけか「酒封じの神」である。
 忠朝の遺骸は戦没地にほど近い大阪天王寺の一心寺に葬られたのだが、一心寺には、現代でも 酒を止めようと決心した者の参詣が後を絶たないという。

 一心寺に残る伝承によれば、大酒飲みだった忠朝は、その酒が元で「冬ノ陣」において真田幸村相 手に不覚を取り、家康に叱責されたらしい。これを深く反省した忠朝は、「夏ノ陣」で奮戦し、死ぬ 間際に、

「戒むべきは酒なり。今後 我が墓に詣でる者は、必ず酒嫌いとなるべし」

 という言葉を残した、というのだが、この話はどうであろう。
 伝承にいくらかの真実性を酌むとすれば、あるいはそれに類する言動が忠朝にあったのかもしれ ない。

 この俗信の真偽はともかくとして、当時の人々にとって、忠朝の奮戦と忠死の様が、醜態をさらし た徳川勢の中で眩いばかりの光芒を放つものであったということは、どうやら間違いがない。忠朝の 生き様と死に様は大阪に住む豊臣贔屓の人々の心をも大いに感動させ、その感動が忠朝を「神」へと 祀り上げさせたのである。

 忠朝の墓は、「断酒祈願の墓」として崇められ、今日までの400年間、香華が絶えることはなかっ た。


 忠朝の没後、大多喜の本多家は甥の本多政朝という男が継ぐことになった。

 ところで、この物語には登場してこなかったのだが、忠朝には息子がある。後に本多政勝と名乗る その子供は、「夏ノ陣」のときに忠朝によって細川忠興に預けられ、成人して将軍 秀忠に仕え、大 和(奈良県)郡山で19万石の大名になっている。
 この政勝は、酒を愛し俳諧を楽しむという風流人であり、藩政に力を注いだ名君だったらしいのだ が、同時に“鬼内記”とあだ名されるほどの豪勇の男でもあったそうである。

 忠朝の父である忠勝の血は、こんなところに繋がっていったものらしい。






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