歴史のかけら
11(必ずもう一度戦が起こる) という確信だけであった。 家康は豊臣家と和睦したが、この和睦が大阪城を無力化するための謀略であったということは、 裸城になってしまっている大阪城の姿を見れば誰の目にも明らかであった。豊臣家を決定 的に滅ぼすための戦を、家康が近々起こすであろうことはもはや疑いない。 (我が汚名を雪(すす)ぐには、その戦で死に狂いに働く以外ない・・・!)
忠朝は、深く思い定めていた。 本多家の侍たちも、この年若い殿様の苦悩を知っている。 「殿、気を落とされますな。大御所様(家康)のご勘気、近いうちに必ずや解いていただける機 会が巡って参りましょう」
と、口々に忠朝を慰めた。 家康が掛けた圧力によって、本多家中の内圧は、戦に向けていよいよ高まっていた。
「折り返し、すぐにも大阪に再征する。戦の支度を整えておくように」
と命じた。 「浪人どもを大阪城に留めるばかりか、またしても戦備を整え、謀反の気配を見せるなどはけし からぬ!」 と激怒した振りを見せ、 「大阪城という巨城があるからこそ、天下の浪人がそこに集まって秀頼に謀反を勧めるのである。 禍根は大阪城という城そのものにあり、ここから秀頼を立ち退かせることが天下静謐への道であり、 豊臣家の安泰のためでもある」 という、いわば詐欺漢の論理を用いて天下の諸大名に号令し、「豊臣家を大阪から移封させるた め」に日本中から40万の兵を動員した。
「冬ノ陣」の講和条件のもっとも重大な一項は、「豊臣家の居城も領地も元のまま手をつけな
い」というものであったが、家康はぬけぬけとその条項を無視しただけでなく、「旧主の豊臣家を
滅ぼす」という物騒な言葉を世間に対しては最後まで使わず、なし崩し的にそれを行おうとしたわ
けである。
忠朝率いる本多隊は4月の中旬には大多喜を発し、徳川勢の本隊と共に4月の下旬に京へ入っ
た。
このとき忠朝は、亡父 忠勝が生前使っていたものとまったく同じ意匠の甲冑を作らせ、それを着て戦陣に臨んだ。この一戦に懸ける忠朝の意気込みと決意が、この一事でも解るであろう。本多忠
勝の代名詞であった鹿の大角の脇立てを打った兜を被り、漆黒の具足を着込んだ忠朝は、生前の忠勝
がそうしたように黄金色に輝く大数珠を肩から袈裟懸けに垂らし、馬上の人となった。 「亡き大殿様(忠勝)の再来じゃ!」 と言って涙を浮かべ、士気が沸き立つように騰がった。本多家の侍たちにとっては忠勝はほとん ど生きた武神のような存在であったから、彼らの喜びと興奮というのは推して知るべきである。
家康は、5月5日に京を発った。全軍を二手に別け、本隊は河内路を、別働隊は大和路を経由し
て大坂城南を目指して進軍する。 家康は、東軍本隊の先鋒を井伊直孝と藤堂高虎に任せた。
井伊直孝は「冬ノ陣」が初陣という実戦経験の少ない若者であったが、沈着にして剛毅な男で、
「冬ノ陣」の働きを見るところ名将の片鱗を匂わせている。さらに言えば、徳川最強と謳われた井
伊家の「赤備え」3千2百を率いているわけだから、これは当然の人選と言えた。
家康は、この「夏ノ陣」こそはできる限り身内で決戦を済ませてしまいたいと思っている。旧豊
臣系の外様大名たちに手柄を立てさせてしまっては、それらの大名に莫大な恩賞を与えねばならな
くなり、大きな大名を作ることそのものが徳川家の支配体制にとっては不都合であったし、そもそも
豊臣家を滅ぼしたところで、浮き上がってくる領地というのは70数万石に過ぎないのである。これ
では諸将に配るための恩賞の土地がない。
大阪方では、後藤又兵衛、毛利勝永、真田幸村らの2万弱の軍勢をもって大和路の東軍を攻撃せし
め、木村重成、長宗我部盛親らの1万余の軍勢をもって河内路の東軍本隊に攻撃を掛けた。
東軍は主力を大阪城南まで進ませることこそできたのだが、家康は、翌日行われるであろう最終
決戦のために、先鋒大将を決めなおさねばならないハメになった。 密集集団戦というこの時代の戦争の形態を考えるとき、真っ先に敵にぶつかってゆく先鋒隊の強 さというのが、そのまま戦の勝敗を左右すると言っても過言でないほどに重要であった。先鋒部隊 が崩れれば、連鎖的に後ろの部隊も崩れざるを得ないわけで、これがために全軍が壊走を余儀なく されるという例は枚挙に暇がない。その意味で、先鋒隊というのはその軍の最強部隊をもってあて るのが常識であり、どれだけの損害を被ろうと決して退くことなく、ひたすらに前のめりになって 敵に向かって突き進んでゆける突貫力が何よりも求められる。つまり、先鋒大将には士卒を死に向 かって猛進させる無類の統率力と抜群の戦術能力が不可欠であり、あるいはそれに代わる百戦の実 戦経験を持った者だけがこの最重要の任に耐え得るのである。 家康は、大阪城決戦の前哨戦の段階で、井伊直孝と藤堂高虎、さらに小身者から無理やり水野勝 成を抜擢してこの任を与えたが、いわばこれがギリギリの人選であった。これらの将の部隊が前哨 戦で消耗してしまった以上、もはや先鋒大将を務められるほどの人材はいない。 (平八郎(忠勝)か、せめて小平太(榊原康政)でも生きておれば・・・・) 家康は思ったであろう。戦国の頃に家康を支えて活躍した勇猛で練達な指揮官が一人でも生き残 っていれば、家康は何の不安もなく彼らに先鋒を任せることができたのである。しかし、それらの 人材はことごとく家康ほどの天寿を保つことができず、今はこの世にない。 (やむを得ぬ。加賀の前田家を使うか・・・)
前田利家という戦国の武人が興した前田家は、加賀で100万石の勢力を誇っている。利家の子の前
田利常という男の器量を買うつもりもなかったが、前田家の兵数はほぼ2万という巨大なものであ
り、しかもその兵は強悍な北陸勢であった。外様大名を使いたくない家康とすれば不快なことこの
上なかったが、事態がこのようになってしまった以上、この大兵団を先鋒に用いるほか手がない。 さらに、もう一人は―― (忠朝しかおらぬ・・・)
と、家康は思った。 (忠朝が、もし本当に平八郎(忠勝)ほどの男であれば・・・・) 家康は、そのことにも一縷の望みを持っている。 (どれほど過酷な戦場に放り込んでも、必ず役割を果たし、しかも生きて戻って来るに違いない)
家康は、古き良き「三河武士」を誰よりも愛している男であった。家康がその人生でもっとも愛し
た家臣は本多忠勝であり、その忠勝にそっくりの臭いをもっている息子の忠朝を憎いと思うはずが
ない。家康は、あるいは家中の若者の中で忠朝をもっとも愛しているのだが、その忠朝を死に
向かわしめねばならぬところが大将というものの辛さであり、その役割の過酷さであったろう。
家康率いる天王寺口の東軍の総数は、7万5千余。
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