歴史のかけら
73それ以来、毛利氏は播磨の豪族たちに対する寝返り工作を活発化させ、脅したりすかしたりしな がらの外交戦を展開していた。これに足利義昭の影響力と本願寺の僧たちによる遊説が加わって、 播磨の豪族たちは軒並み動揺するようになり、再び旗幟を不鮮明にし、表面上織田家に属しながら も裏で毛利氏にも誼(よし)みを通じ、両属のような形になった、ということも触れた。
播磨で公然と織田方を表明しているのは、官兵衛がいる小寺氏のみである。この官兵衛が豪族た
ちを再び織田方に靡かせようと躍起になって説き回っており、毛利氏の側から見れば、小寺氏とい
う存在が――なかでも姫路の小寺官兵衛なる男が――非常に目障りになっていた。
毛利氏の本領は、安芸(広島県)である。
これが、天正四年(1576)の五月である。 ともあれ、播磨――
毛利軍が上陸した英賀は、官兵衛がいる姫路からごく近い。わずか二里(八キロ)ほど南方の海
浜で、毛利方の三木氏が篭る小城がある。今回の毛利の軍事行動は、この三木氏が毛利軍を呼び寄
せた、とも言えるであろう。 (いよいよ毛利が播磨を取りに来たか)
と思えば、背が凍るような恐怖を覚えざるを得ない。
官兵衛は先見明識に卓越した男だが、まさか毛利がここまで素早く、しかも激しい手を打っ
てくるとは予想していなかったであろう。それ以上に仰天したのは、小寺氏当主の小寺政職(まさ
もと)であった。政職は官兵衛に説かれるままに織田加担を決めたが、これほど早く毛利から報復
されようとは思ってもみなかったのである。 「我が家一手で毛利を支えるなぞとてもできぬ。織田からの後詰めはないのか?」
哀れなほどに狼狽し、織田に味方したことを後悔している風であった。 軍略家としての官兵衛の凄まじさは、この状況で、 (我ら一手で毛利に勝ってやろう) と決意したところであろう。その自信がどこから湧いて出たのか、客観情勢から考えれば不思議 なほどである。 「今こそが、御当家の弓矢の名誉を天下に響かせる好機ではござらんか」 官兵衛は言葉を尽くして主君を励まし、物見をやって調べた敵情を詳しく説明し、小寺が取る べき軍略を明快に示した。 「敵は五千もの大軍。味方の小勢を考えれば、まともに戦っても勝ち目はござりませぬ。この際、 敵の不意を襲うにしかず」 官兵衛は、守勢に回るよりもむしろ攻勢に出るべきだと思った。城を包囲され、篭城戦になって しまえば、援軍の当てがない小寺氏とすれば負けるのを待つようなもので、どうにもならない。ま して時間を掛ければ毛利氏の従属大名である西隣・備前の宇喜多氏までが出張って来ぬとも限らず、 毛利勢の武威が宣伝されれば日和見している周囲の豪族たちが一気に毛利氏側に傾き、これに加勢 し始める怖れさえあった。そうなれば小寺氏は袋叩きにされ、滅び去るほか道はない。 (時をおけばそれだけ我が方は不利になる。攻めるとすれば、敵が上陸した直後の今しかあるま い・・・・) 毛利軍は、自分たちの大兵力に驕りがあるであろう。寡兵の小寺は篭城するほか選択肢はなく、 大軍の毛利に野戦を挑んで来るはずがないと思っているに違いない。まして二百キロの海路を船 に揺られ続けていた兵たちは疲労してもいるであろう。敵の攻撃態勢が整わぬうちにこれを奇襲し、 痛撃を与えるのが最善の策であると思った。 「必ず勝てます。それがしに万事お任せあれ」
小寺政職から軍事の一任を取り付けた官兵衛は、小寺本拠の御着城から姫路城に戻り、急いで戦
の準備を整えた。しかし、御着城にも姫路城にも守備の人数を配らねばならず、動かせるのはせい
ぜい一千ほどに過ぎない。 「御当家の興亡はこの一戦にあるぞ! 敵の首は討ち捨てにせよ!」
官兵衛は鋭く命じ、敵陣に向けて采配を振った。 毛利軍には、やはり油断があったのであろう。まさか自分たちが襲われる立場になるとは思って おらず、不寝番を除けばほとんどの者が鎧もつけずに寝入っており、轟雷のような突然の銃声にそ の眠りを破られた軍兵たちは、たちまち大混乱を起こした。朝霧が立った夜明け前の辺りはまだ 数m先の人間の姿さえ判然としない。そういう状況で不意の襲撃を受ければ、風に揺れる木々の枝 や下草までが敵影に見え、敵・味方の判断なぞはまったくつかなくなるのである。
官兵衛が薫陶した小寺勢は魔物のように薄闇の中を跳梁し、至近からさんざんに銃撃し、あるい
は弓を射かけて毛利軍を怯ませ、そのまま敵陣に駆け入り、敵兵を手当たり次第に切り捨て、突き
捨てた。毛利の軍兵たちの狼狽ぶりは哀れなばかりで、これをほとんど一方的に斬り散らした小寺
勢は、敵に反撃する暇さえ与えず退き鉦の音に合わせてさっと兵を引いた。
緒戦で土をつけられたとはいえ、毛利軍にはまだ十分な余力があった。
この勝報は、摂津で本願寺と対陣している信長の元へすぐさま伝えられた。 「官兵衛め、やるものよ」
戦勝報告の書状は小寺政職の名で書かれていたが、この勝利が官兵衛の働きによるものである
と信長はすぐさま見抜き、上機嫌でその功を褒めた。 「――官兵衛尉、別して精を入るるの旨、然るべきように心得、申し聞かすべく候なり」
という荒木村重に宛てた信長の手紙が残っている。
この戦勝の話は、信長と共に摂津にいる藤吉朗の耳にも当然ながら届いている。 「わしの目に狂いはなかったわ」 藤吉朗は上機嫌で、官兵衛を口を極めて褒めた。 「確かに、これしかない、という勝ち方でしたね」 半兵衛も、そういう表現で官兵衛の軍略の見事さを認めた。 「ただの口舌の徒、というわけではないようじゃな・・・・」 蜂須賀小六や前野将右衛門らは官兵衛と直接逢ったことがなかったが、この話を聞くにおよび、 それまでの認識を大いに改めたようであった。 「この戦勝は、結果だけを見れば二、三百の敵を討ち減らし、毛利を播磨から追い払ったというに 過ぎませんが、そのことが持つ意味は非常なまでに大きい。官兵衛殿はこの上なき大手柄を挙げた と申すべきでしょうね」
この幸先の良い勝利は、織田と毛利の最初の直接対決で敵の出鼻を挫いたということはもちろん
だが、それ以上に毛利の大軍を播磨から追い出したということに大きな価値があった。先述したこ
とだが、毛利軍が小寺氏を滅ぼしてその武威を見せつけ、播磨で長々と滞陣すれば、そのことによ
って播磨の豪族たちが毛利に靡いてしまう可能性が大いにあったのである。 「播磨にかの仁がおってくれたことは、我らにとってまさに天佑(てんゆう)――」 半兵衛がこれほど他人を激賞することはかつてない。 「我らも、何としても官兵衛殿の働きと期待に応えるべきでしょう」 織田家による播磨侵攻を一刻も早く始めるべきである、ということを、半兵衛はこの夜、珍しく 熱心に主張した。
半兵衛が主張したように、この時期に織田軍が播磨に軍勢を入れておれば、織田の中国征伐はよ
ほど違った形になっていたであろう。しかし、様々な事情から中国派兵は延び延びになり、このと
きからさらに一年半もの時を待たねばならなくなる。
大阪 石山の包囲環を完成させ、守備軍の配置を終えた信長は、六月六日に摂津を去り、諸国から 動員した軍勢にもいったん暇を出した。
安土に帰った信長は、建築途上の安土城の築城に熱中した。『信長公記』によれば、尾張・美濃
・伊勢・三河・越後・若狭・五畿内の諸侍を動員し、京都・奈良・堺の大工やもろもろの職人を召
し寄せ、安土に住まわせて作業に当たらせたという。普請奉行の丹羽長秀はもちろん、さしあたっ
て軍務がない藤吉朗、滝川一益らの軍勢と領民も大動員し、普請を急がせた。 「昼といわず夜といわず、山も谷も動くばかりの騒ぎであった」
というから、昼夜ぶっ通しで作業をさせたのであろう。 「それにしても、でかい・・・・! さすがに天下様の城でござりまするなぁ」 近習として小一郎の傍らにある藤堂与右衛門は、城作りに強い関心があるらしく安土の造成工事 の様を見て目を輝かせ、仕事の合間に建築現場を飛び回っている。 「上様は、なんでもあの安土の山上に、七層の楼閣をお作りになるそうじゃ」 小一郎が教えてやると、 「七層!」 与右衛門は頬を紅潮させた。 「近頃は山城は流行らぬなぞと申しますが、なんの、あの山頂に七層の大天守が輝けば、安土さま のご威光は見る者を圧倒しましょう。城というのは、人の度肝を抜くようでなければ――攻めても とても落とせぬと思わせるようでなければ――」 一人納得するようにうんうんと頷いている。
安土城はド派手さと奇抜さを好む信長の独創をふんだんに取り入れた革新的な城で、城郭史とい
う側面から見ても中世の城郭様式からはかけ離れた部分が多い。たとえば本丸部分に高楼を建て、
それを初めて天守と名づけたのは多聞山城を築いた松永久秀だと言われているが、信長はこの様式
を採用し、七層もの大天守を築き上げ、天守閣の楼上に金の鯱を置いたり、金箔を張った瓦で屋根
を葺くなど、天下人の圧倒的な福威を天に向かって高らかに誇示しようとした。近世城郭のスタン
ダードと言えるこれらの様式はこの安土城から始まったと言ってよく、その意味で小一郎たちは、
城郭史における中世と近世の転換点にまさに身を置いているのである。 「お前に百人ばかり人数をつけてやるで、このまま安土に残って殿の手伝いをしてみんか。実地で城 作りを学ぶというのも、先々無駄にゃぁなるまい」
小一郎が提案すると、与右衛門は喜び勇んでそれを受けた。 築城術に関しては一例に過ぎないが、藤堂高虎の多彩な才能を見出し、それを育てたのは、あるい は小一郎であったと言ってもそう的外れではないかもしれない。
毛利方の水軍というのは、源平以来の瀬戸内海賊である。複雑な潮が走る瀬戸内海を庭のよう に駆け回る彼らは水上の駆け引きに習熟し切っており、軽船をもって織田方を翻弄し、焙烙(ほう ろく)火矢と呼ばれる焼夷手榴弾を用いて三百隻の織田水軍を焼き払った。急造、しかも過少の織 田水軍はまったく相手にならず、ほとんど一隻残らず壊滅し、千余人が討たれ、あるいは溺死した らしい。 信長は激怒し、自ら出陣すると息巻いたが、その頃にはすでに毛利水軍は瀬戸内海に去っており、 大阪には影さえ残っていない。神出鬼没の水軍の効用をこれほど見せ付けられた敗報はなく、 (毛利は強い) ということを、世間に鮮烈に印象付ける事件であった。 このことによって諸国の反織田勢力は再び息を吹き返したようであり、ことに本願寺はその気炎 をさらに燃え立たせた。
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