歴史のかけら
60頭上に浮かび上がるのは、篝火に照らされた小谷城の輪郭と、落ちてきそうな満天の星。向か いの山の稜線に隠れているのだろう――寝待月(ねまちづき)は未だ昇らない。 足元を遠く見晴るかすと、墨を溶かしたような濃淡の闇の中、無数の篝火が十重二十重に山裾を 取り巻いているのが見える。 虫の声さえ死に絶えたか、辺りは不気味なほどの沈黙に包まれていた。
天正元年(1573)八月二十七日の夜半。
この尾根の側面には階段状に無数の削平地があり、そこに柵を植え込み、矢楯を並べるなどしてそ
れぞれが小さな砦のようになっている。浅井に十分な兵力があれば、こんな移動はとても不可能であ
ったろう。
この隙を、織田方は衝いた。
小一郎たちは鎧が音を立てぬよう草擦りを縄で縛り、手足と顔には炭を塗り、暗夜の山中を松明
ひとつ持たず、道案内する樋口内蔵助――樋口三郎左衛門の縁者である――の勘だけを頼りにして
山肌を這うように進み、隠密行動を二時間以上も続けてどうにか目的地付近まで辿り着いたのだっ
た。
静寂の世界に、己の鼓動だけがうるさいほどに響いている。 「音を立てるなよ。息もひそめよ。咳(しわぶき)もするな」 小一郎はこれを揮下の将兵に厳命していた。 (わしらが速やかに京極丸を取れば、それで戦が決まる・・・・) 小一郎に与えられた役割は、それだけ重要なものだったのである。
「朝倉が滅びたことで、戦の大勢はもはや決しました」 まず半兵衛がそう言った。 「命を惜しむ者は、この数日の間に小谷山から逃げたでしょう。この期に及んでまだ小谷城に篭り おる者のほとんどは、浅井家の滅びに殉じようとする忠義の士。寡兵とはいえ、この敵は侮るべき ではありません」 大獄砦が陥落し、さらに朝倉家の滅亡によって孤立無援となった浅井氏の前途はすでに定まって いる。それでも千五百人近い人間が城に残っているというのは、逃げる機会を失した者、積極的に逃 げ出すほどの度胸がなかった者などもあるにせよ、それより多分に浅井長政という大将の人徳であ ったと言っていい。 「死兵は厄介じゃな・・・・」 藤吉朗が呟いた。 「自ら願い出て先鋒のお許しを頂いた以上、手間取るわけにゃぁいかん。一息に決めたいところや が・・・・」 「城を焼き立てれば話は簡単なのですが、それはできません。まともに正攻法で攻めれば、こちら も相当の血を流さねばならなくなります」 集まった諸将は、半兵衛の作戦立案にはすでに全幅の信頼を置くようになっている。まずは その意見を傾聴しようと、神妙な顔で絵図を睨んでいる。 「そこで、この“大堀切り”を利用します」 半兵衛が扇子で指し示したのは、本丸と京極丸の間に描かれた巨大な空堀である。 「本隊が大獄から尾根伝いに六坊、山王丸と攻める間に、一隊が山腹から迂回し、背後の京極丸 を奇襲する。この京極丸を取れば本丸から来る敵の援軍を防ぎ止められますし、山王丸や小丸を 守る敵が本丸の方へ逃げることもできなくなります。敵を完全に分断できる」 “大堀切り”の線で少数の敵をさらに二分し、各個撃破しようと言うのだ。 「岐阜さまが山麓からも兵を攻め登らせましょうから、浅井としても大手道の防備を手薄にはでき ぬはず。搦め手の六坊から京極丸までを守るのは、せいぜい五百ほどと見ます。中ほどにある京極 丸は、その中でももっとも防備が手薄になるでしょう。ここを取れば、戦の形勢は一気に決まりま す」 藤吉朗は絵図を睨み、さらに諸将に意見を求めたが、半兵衛の戦術案に優るような良案は誰から も出ない。むしろ、半兵衛が描いた大筋をどう肉付けするかに意見が集中した。 「奇襲する兵たちの動きを敵から隠すには、夜動くしかなかろうな」 と言ったのは蜂須賀小六である。 小谷城へと至る山腹の斜面はほとんどの木が切り払われて視界が開け切っている。日中に軍勢を 移動させたとしても、城から行動が丸見えでどうにもならない。 「当たり前じゃが松明も使えぬ。夜陰に紛れるとなると、よほどこの山に詳しい者が道案内に立た ねば、方向を失うぞ」 「その役は、わしの手の者を出そう」
樋口三郎左衛門が戦場錆びした声で応えた。 「奇襲の勢は精兵を選りすぐる。大将は、小一郎が務めよ。将右殿、樋口殿の勢をこれに付ける。 崖から転がり落ちぬよう心して掛かれ。残りはわしが率い、尾根伝いに搦め手から攻める。先手の 大将は小六殿。二番手はわし。三番手を後詰め(予備隊)とし、弥兵衛(義弟の浅野長政)に任 す」 藤吉朗が即決した。 「先だっても言うたことやが、この戦 は火を使うてはならんぞ。小谷の城の建物は、茅葺(かやぶ)きか板葺きやで、火矢など放てばた ちまち燃えてまうからの。松明の火にも気をつけよ。間違っても城を燃やすな」 さらに細々とした指示を終えると、 「ここで浅井を滅ぼせば、わしらに功名第一のお声が掛かるは疑いない。この一戦を一生の運さ だめと覚悟し、大いに奮(ふる)えと手の者に申し伝えよ!」
藤吉朗は鼻の穴を大きく広げて力んだ。
そのままジリジリと半刻(一時間)ばかりも待っていると、果然―― (始まったか・・・・!)
その松明の動きを眺めやっていると、今度は頭上――角度的に直接は見えないが、稜線の遥か向
こう――から、鉄砲の射撃音、陣貝の響き、太鼓の轟き、武者押しの声などが無数の振動となって
大気を揺らし、小一郎らの耳朶を打った。それが向かいの山肌にあたって反響し、木霊し、山全体が
鳴動しているような不気味な音響世界を闇の中に現出させる。 (すわ!)
小一郎は立ち上がり、無言のまま大きく采配を振った。 (我ながら、存外に落ち着いとるな・・・・)
先ほどまであれほどの緊張をしていたのに、突入の合図を受けた後は自分でも驚くほど頭の中が
冷静で、意識が澄み渡っている。 「まず虎口(城門)を押さえよ!」
小一郎は叫んだ。
京極丸に限らず、小谷城は尾根の起伏を利用して階段状に郭が切られていて、京極丸の中にも石
垣や土塁を盛って作った小規模な二の丸と本丸があり、それぞれ兵舎や櫓などが置かれている。こ
の郭を奪うには、最上部の本丸部分を占拠し、敵兵を残らず排除せねばならない。 (これならば手間は掛かるまい) 信長の正面攻撃と藤吉朗の搦め手からの攻撃がすべてこの作戦の陽動になっており、浅井の武者た ちはそれぞれの防戦に気を取られ、尾根の中間あたりにある京極丸の防備にまで気が回っていなか ったのだろう。何より、兵数の不足が浅井にとって致命的であった。 小一郎は、回り道をせず自ら土塁をよじ登り、上段の本丸をまっすぐに目指した。 「御大将、こちらじゃ、こちらじゃ!」
すでに前野将右衛門らが先行し、敵兵を切り倒して路を開いてくれていた。
小一郎らの部隊は、数十人に過ぎぬ敵をその兵数で圧倒した。負けを悟った敵兵の中には、自ら
崖下に向かって身体を投げ出し、尾根を転がり落ちて逃げるような者も相次いだ。 「勝ち鬨を上げよ!」
と叫び、兵たちに鬨を作らせた。
ほどなく、藤吉朗率いる本隊の攻撃によって六坊、山王丸が相次いで攻略され、浅井久政は二百
ほどの残兵と共に京極丸と山王丸の間にある小丸に追い詰められた。 「もはやこのあたりでよかろう」
小丸の屋形の中に入った浅井久政は、日頃から可愛がっていた鶴松太夫という舞いの名手にひと
さし舞わせ、末期の酒を飲み干すと、見事に自ら腹を切って死んだ。 残敵の掃討を終え、小一郎が小丸の屋形で藤吉朗らと合流した頃、夜が白々と明け始めた。 「戦はここまでじゃ。本丸は攻めるに及ばん。京極丸を守り、しばらく待て」 藤吉朗が諸将に下知を下した。 「わしは下野殿(久政)の首を信長さまの元に届け、今後のお伺いを立てて来る。備前殿(長 政)の扱いが決まるまで、決して本丸を攻めてはならんぞ。向こうから仕掛けて来ても、こっちか らは矢弾を撃つな」 藤吉朗は守備を小一郎らに任せると、近習だけを連れ、小谷山を駆け下って虎御前山の本陣へ と向かった。
この間、何が行われていたか―― 読者は意外に思われるかもしれないが、信長は、浅井長政の助命を考え、その説得をしていたら しい。
藤吉朗から報告を受けた信長は、八月二十八日に馬廻り(親衛隊)を引き連れて自ら小谷山を
登り、京極丸に入って陣頭指揮を取った。 「浅井がわしに叛いたは隠居殿(久政)と一部の家臣たちの策謀からであり、長政の本意でなかっ たことは承知している。長政はお市の婿でもあり、わしに含むところはない。隠居殿が腹切ったこ とですでに遺恨は晴れているから、湖北の地を明け渡して長政がわしに降るなら、浅井の罪は不問 にし、大和(奈良県)かその近国で別の知行地を宛て行うであろう」
そういう意向を、信長は示した。
死を決していた小谷城内の武者たちは、にわかに動揺した。
このとき浅井長政が和睦に応じていれば、信長は小谷城を武装解除し、湖北を奪った後に長政を
幽閉し、腹を切らせ、やはり浅井を滅ぼしたかもしれないし、むしろその公算が大きかったであろ
う。戦国武将がよく行う常套手段であり、たとえば武田信玄は、妹婿をその方法で殺し、諏訪地方
を奪ったりしている。
信長は、長政の武辺者肌の気性とその将器を愛していた。まして長政は、実の妹・お市の婿であ
る。今後、織田家に無二の忠誠を尽くし、自分のために犬馬の労を取ってくれるというなら、殺す
までのことはせずとも良い――と信長が考えたとしても、それほど不自然ではない。
いずれにせよ、信長はそうして長政の腹を叩いた。
和睦の拒否。
この選択は、多分に浅井長政という男の性格によるものであろう。 (名こそ惜しもう・・・・) と、長政は思ったに違いない。
城を枕に最期まで壮絶に戦い、浅井長政という男の名を後世に残す。
長政は、妻・お市と三人の娘、その侍女ら非戦闘員を織田方に返還し、徹底抗戦の構えを貫い
た。 「あのうつけめが・・・・・」
信長は呟いた。
しかし、武士が己の死に場所を定めた以上、もはや説得は不可能であった。
八月二十九日、織田軍は、搦め手の京極丸と大手の金吾丸から本丸に向けて総攻撃を掛け、小谷
山の尾根を削り潰すような勢いで攻め立てた。
驚くべきことだが、早朝からの総攻めにも関わらず、この日、ついに城は落ちなかった。 (ついに討ち死にさえできなんだか・・・・)
長政は自嘲したであろう。 こうして、湖北にその武勇を轟かせた浅井家は滅んだのである。
養源院天英宗清 この若者がその死の直前に、浅井家の菩提寺の住職に頼んで用意したという自らの戒名である。
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