歴史のかけら
58このあたりは『甲陽軍鑑』に詳しいが、たとえば、武田家の跡目を信玄の孫の信勝にすること。 息子の勝頼は信勝が成人するまでその陣代を務めること。信玄死後は上杉謙信を頼り、武田・上杉 の同盟を策すこと。織田・徳川勢力に対しては専守防衛に徹し、討って出ることを禁じ、敵を国内 深くまで引き入れて戦うこと、などを命じている。 「わしが死んだら、三年その喪を秘し、自重して国を堅固に守れ」 というのが信玄の方針だったようで、あらかじめ信玄自身が署名した白紙の誓紙を八百枚あまり も用意しており、信玄死後の諸方面からの書状の返書はそれを使ってし、その死をあくまで隠せ、 などと細々した指示まで行っている。 その遺志を受け、信玄の死は武田家中でさえ厳重に秘密とされ、対内的にも対外的にも「重病」 という風にこれを装い、その真相は重臣たち以外には一切知らされなかった。 巨星墜(お)つ――
この事実は曖昧模糊とした闇の中にあり、信長も家康も、足利義昭も本願寺顕如も、しばら
くはその確報を得ることができなかった。
信長は、蘇生するような想いであったに違いない。 このとき信長は、以前から考えていた琵琶湖の軍事利用を実施に移した。
岐阜に本拠を置き、畿内を遠隔支配する信長は、岐阜から京までの移動距離の長さに常に頭を痛
めていた。直線距離にして百キロ――旅程にして三日。畿内で騒動が起こるたびに、この距離を織
田軍は駆け通さねばならず、しかも移動で疲労した軍勢は、一日二日は休ませねば使い物にならな
いのである。 五月二十二日、信長は琵琶湖畔の佐和山城へ移動し、そこで前代未聞の大船の建造を命じた。
『信長公記』の記述を信じれば、この大型船は長さ三十間(54.5m)、幅七間(12.7m)、百艇の
艪(ろ)を備え、船首と船尾に巨大な櫓(やぐら)を置き、五千人もの軍兵を乗せることが可能で
あったらしい。
いずれにせよ、信長は佐和山城に一ヶ月以上も腰を据えて大船建造に没頭した。
この大船は、七月初頭に完成し、七月五日に無事進水を果たした。
藤吉朗がそう言ったのは、湖北に真夏の日差しが降り注ぐ六月末であった。 「公方さまが、何やらまた癖の悪い企(くわだ)てを致しておるらしいわ」 「癖の悪い――ちゅうと、またぞろ兵を挙げなさると言うんか?」 皆を代表するように小一郎が尋ねると、藤吉朗は腕組みし、頷いた。 「どうもそのおつもりであるようじゃ。宇治の真木島(まきのしま)城を密かに改築しておるちゅ うし、ホントかどうかは解らんが、中国の毛利から兵糧米が送られて来たっちゅう話もある」 真木島城は、京から南に二十キロ――宇治川が淀川に流れ込む巨椋(おぐら)池の中洲に築かれ た要害で、義昭の謀臣 槇島昭光(まきしま あきみつ)が城主を務めている。 「武田の後は毛利と言うわけか。あの公方さまにも困ったモンじゃな」 苦笑とも呆れともつかない表情で蜂須賀小六が言った。 「じゃが、相手が足利将軍では攻め滅ぼすわけにもいかん。ほんに厄介じゃ」 前野将右衛門が苦々しげに相槌を打つ。 「それで、岐阜さまは、何と?」 半兵衛が藤吉朗に話の続きを促した。 「いや、今度ばかりはさしもの信長さまも迷っておいでのようじゃった。公方さまが兵を挙げた ところで怖ろしゅうはないが、これを討つとなると――半端な覚悟ではできんことじゃでな・・ ・・」
それはそのまま、二百三十年以上続いた室町幕府体制を滅ぼすことに繋がってしまうからであ
る。 「細川藤孝殿や荒木村重殿などは利口者じゃわ。幕臣たちが、あれらのように物分かりよう公方さ まを見限ってくれりゃぁええんじゃが・・・・」
藤吉朗はわざわざ利口者という言葉を使ったが、義昭や幕府の側から見ればこれらは裏切り者、
不忠者であり、変節漢と断ぜざるを得ないであろう。
幕臣たちの多くは、二百三十年以上連綿と続いて来た今の幕府体制の正統性を何の疑問もなく信
じているし、それがそのまま未来永劫続いてゆくのだと当たり前に考えている。 「いかに公方さまとはいえ、こう何度も天下を乱されては岐阜さまもお許しにはならぬでしょ う。ですが、ここであからさまに足利家を滅ぼせば幕臣どもも黙っておらぬでしょうし、世の聞こ えも悪い――確かに、難問ですね」 半兵衛の懸念が、信長がまさに悩んでいるポイントであった。 「信長さまが、足利尊氏の如く新たに織田幕府でも開けばどうじゃ?」 将右衛門は冗談のつもりでそれを口にしたようだが、案外と的を射ている。 「幕府は征夷大将軍にしか開けず、征夷大将軍は源氏でなければなれん。お屋形さまは平氏を称し ておられるから、残念ながらその資格がないな」 宮部善祥坊がいかにも坊主あがりらしく物知り顔で言った。 「初代の征夷大将軍である古(いにしえ)の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)は、源氏で も平氏でもありません。確かに朝廷というのは先例を大事にしますが、そう杓子定規に考えること はないですよ」 半兵衛は、微笑したままやんわりとそれを遮った。 「いま将右(しょうう)殿が申されたことは鋭い。幕府をどうするか、朝廷をどう扱うか――これ らを見ることで、岐阜さまが胸の中で描いておられる天下の姿を垣間見ることができるように思い ます」 「天下の姿――?」 「たとえば足利義教公のように、天子に至尊の価値を置き、武臣の最高位である将軍として世を統 べるのか。あるいは平清盛入道のように、武臣を域を越えて朝廷に入り込み、朝臣の最高位である 太政大臣を目指されるのか。はたまた唐土(もろこし)の覇王の如く、武をもって世を平らげ、自 ら天子を名乗るのか――」 「天子を名乗るじゃと!?」 一座の者たちが、一様に驚愕の表情を浮かべた。 「唐土では、覇者が天子になれるんか?」 藤吉朗が興味深そうな顔をしたが、 「半兵衛殿、そりゃ不遜、いや、不敬じゃ!」 それを遮るように善祥坊が大声を出した。 「異国は知らず、この日の本における天子とは、二千年もの昔から万世一系の血によって繋がる天 皇家以外にない! 『古事記』に書かれた国生み以来、この日の本が『神国』であるゆえんはまさに この点にあり、世にいかな武権が起ころうと、皇祖皇宗(天照大神と神武天皇)の大権に害を為そ うとする者はかつて一人たりとなかった。このことを忘れて天子の座を奪おうなどは、大罪以外に 言葉もないわい」 「・・・・御坊は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』をお読みですか」 半兵衛がちょっと驚いたように言った。 「わしとて今さら南朝の正統を言い立てる気はないが、『大日本は神国なり』と断じた北畠親房卿 の言葉は尊いものじゃと思うておる」 「『天祖はじめて基(もと)をひらき、日神ながく統を伝え給う。我が国のみこの事あり。異朝に はその類(たぐい)なし。これ故に神国と云うなり』――ですね」 「ほうじゃほうじゃ。よう知っておるではないか」 善祥坊は嬉しそうに笑った。 「善祥坊殿は、叡山で修行をなされたのでしたな。叡山と言えば山王神道の聖地。しかも南朝方と して足利尊氏殿に抗(あらご)うてもおる・・・・。なるほど、これは私がうかつでした」 「幕府を滅ぼすのと天子に取って代わるのではわけが違う。お屋形さまも、この日の本に生まれた 人であるに違いはあるまい。よもや唐土の覇者のような増長満を起こすようなことはあるまいよ。 そんな事をしようと万一にも企(たくら)めば、この日の本の八百万(やおよろず)の神々がこぞ ってお屋形さまを呪詛なさり、天罰たちどころに顕われるわ」 「善祥坊、口が過ぎるぞ」
蜂須賀小六が睨んだ。 「何が過ぎるものか。言い足りんぐらいじゃわ」 善祥坊が鼻息荒く睨み返す。 「いや、小六殿、私が悪かったのです。この話はもう止めにしましょう」 半兵衛が間に入ったので、小六はなんとなくバツが悪そうな、善祥坊は得意満面の顔を、それぞ れにした。
半兵衛は、「論議」は好むが「議論」は嫌う。「論議」は深めるものであり、尽くすものだが、
「議論」は吹っかけるものであり、戦わせるものであり、要するに口喧嘩と変わらないのである。
口喧嘩はどちらが勝ってもほとんど意味などはなく、負けた方に遺恨だけが残る。 「岐阜さまが天下を平らげた後、どういう絵を描こうとなされておられるかは、私にもハキとは解 りません。しかし、岐阜さまが公方さまに対してどういう扱いをなされるか――このことは、それ を見極める一里塚にはなると思います。私が言いたかったのは、この点です」 「半兵衛殿の申されることはよう解った。が、まぁ、その話は今はちょいと措こう。それよりも戦 の話じゃ」 藤吉朗が再び話を引き受けた。 「佐和山で見てきたが、件(くだん)の大船はもうすぐにも出来上がる。信長さまは、あの船を 使って畿内に住む者どもの度肝を抜いてやるおつもりじゃ。今度の戦は、わしらにも出陣のお声 掛かりがあった。二千の兵を率いてわしも出陣する。・・・・・小一郎」 「おう」 「この虎御前山はお前に任せる。湖北の守りは、わしが引き連れる分を差っ引いても五千ほども おるが、お前が大将じゃ。しっかりやれ」
かつてない大役である。 「半兵衛殿と善祥坊殿は、小一郎を援けてやってくだされ。衰えたりとはいえ、相手は浅井じゃ。 いつ仕掛けてくるかも知れんから決して気を抜くなよ。万一、朝倉が出張って来るようなら、すぐ にわしに報せよ」 「心得た」 藤吉朗は引き連れる武将の人選や持ってゆく兵糧・物資の量などの具体的な話をし、出陣の下知 があり次第、すぐに出立できるよう準備を命じて諸将を散会させた。 人々が姿を消し、広間に藤吉朗と小一郎、義弟の浅野弥兵衛のみが残ったとき、 「ところで――」 ふと思い出したという風情で半兵衛が藤吉朗に言った。 「公方さまと畿内で戦をやっておる間、こちらもただ守っておるだけというのはつまりません。山 本山城を取ってしまおうかと思うのですが、よろしいですか?」 山本山城は、虎御所山から東に一里(4km)。琵琶湖畔の山本山に築かれた山城で、浅井の重臣 阿 閉貞征が守っている。北部山岳地帯を除けば、湖北に残っている浅井方の最後の拠点と言ってい い。 「浅井の衰えはもはや明白――いらぬ血を流さずとも済ませられるかも知れませんな」
藤吉朗が応えると、半兵衛は微笑で頷いた。 「その節は、岐阜さまへお取り成しをお願いできますか」 「お耳に入れておきましょう。信長さまも嫌な顔はなさいますまい。わしの名と花押を書いた誓紙 を何枚か作っておきますで、良きように使うてくだされ」 こういうところにも、半兵衛に対する藤吉朗の揺るぎない信頼が見て取れる。 「それはそうと、半兵衛殿――」 藤吉朗が膝で歩くようにして半兵衛ににじり寄り、 「先ほどの話ですがの。天下を取るにも、いろいろとやり方があるもんなんですなぁ」 詠嘆するようにしみじみと言った。 「ご存知の通り、わしも小一郎も、尾張中村で百姓やっとった家に生まれました。織田家に仕え、 信長さまにお引き立てを頂き、ようやく侍として人がましい暮らしができるようになりはしまし たが、しょせんは野人の倅(せがれ)、書物のひとつも読んだことがにゃぁでいかん。学問 がない。教養もない。唐土のことなぞは言うに及ばず、この日の本のことについても昔のことは よう知らん。のう、小一郎」 突然話を振られたので小一郎は慌てたが、とりあえずうんうんと頷いた。 「そこへゆくと半兵衛殿は、何から何まで呆れるほどモノをよう知っておられる。わしゃ、これ は、わしの卑しい出自を哀れんだ神仏が、半兵衛殿にお引き合わせくだされ、わしの足りんとこ ろ、欠けたるところを埋めてくだされたもんやと正気で思うております」 「・・・・・・・・・・・」 藤吉朗は半兵衛の手を取った。 「それゆえ、半兵衛殿には長う生きてもらわねばならん。幾久しゅうわしの傍らにおってもらい、 その知恵を貸してもらわにゃならん・・・・・」 小一郎は眉をひそめた。 (兄者は何を言うておる――?) 藤吉朗はたっぷりと間を取り、おもむろに言った。 「正直に言うてくだされ。どっか――具合の悪いとこはありゃせんですか?」 (――!?)
慌てて半兵衛を見た。 「これといって――どこも悪いところはないと思いますが・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 藤吉朗は探るように上目遣いで半兵衛を見据えていたが、しばらくして、ふっと気を緩めた。 「あっはっは。いやいや、わしの思い過ごしならそれでええんじゃ。まぁ、半兵衛殿、身体にはく れぐれも気ぃつけてくだされよ。わしゃ百まで生きるつもりじゃから、半兵衛殿には九十くらいま ではボケずに生きておってもらわにゃならん」 「あと六十年も――これはまた先の長いお話ですね」 半兵衛が困ったように笑った。 「なんの。関東で北条家の礎(いしずえ)を築いた早雲・伊勢宗瑞(いせ そうたん)殿は九十近く まで生きておったと聞く。決して無理難題ではあらせんですわい。よろしいな。お頼みしておきま したぞ」
藤吉朗は笑いながら座を立ち、半兵衛の肩を二、三度ぽんぽんと叩くと、足音を響かせて広間を
出て行った。 (病――?)
確かに半兵衛は腺病質な体質で、年に数回は熱を出して伏せっているし、しばしばタチの悪
い咳をする姿も見る。 半兵衛の顔色はいつものように青白く、その頬はこけている。普段と比べて取り立てて大きな違い があるわけではないが、やつれていると言えばそう見えなくもない。 「小一郎殿まで・・・・。私はそんなに病人のように見えますか?」 己の顔をまじまじと見つめる小一郎の視線に気付いたのか、半兵衛は少し迷惑そうに苦く笑 った。
信長は、佐和山城でこの報せを受けている。待ってましたとばかりに完成した大船に軍兵を満載
し、わずか半日後には琵琶湖南岸の坂本に入り、翌日に京へ駆けつけた。
京の将軍御所は、先日の上京焼き討ちの被害で外郭が焼け、修繕もままならない。
京に入った織田軍はまず将軍御所を包囲し、これを焼き立て、五日で陥落させた。
次いで信長は軍を南下させ、七月十六日に真木島に進み、宇治川を渡河し、平等院に本陣を置い
た。 信長は、生後一年にも満たぬ義昭の子を人質にし、義昭を京から追放した。
ちなみにこの時、藤吉朗は、三好義継が守る河内の若江城まで義昭を護送するよう信長に命じ
られている。 『御よろいの袖を濡らさんばかりで、「貧乏公方」と、上下の人は指をさしてあざけった』
とあるから、衆人環視の中を引き回すように徒歩で歩かせたのであろう。
詰まるところ、これらは義昭の評判を落とすために、信長が行った謀略であったのだろう。 いずれにせよ、室町幕府はこの七月十八日をもって事実上滅亡したと言っていい。
義昭は、決して暗愚な男ではない。
資料的な裏付けは薄いが、ここで想像の翼を広げるなら、この義昭の挙兵は、もしかしたら
信長の側が仕向けたものであったのかもしれない。 もしこの想像に近い状況であったとするならば、信長の知略は、まったくそら怖ろしいと言うほ かない。
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