歴史のかけら


王佐の才

 名岐バイパスと別称される国道22号で愛知県から岐阜県へ向かって行くと、やがて真正面に黒々と樹木が茂っ た巨大な塊が現れる。岐阜市の市街地に近づくにつれ、その塊の圧倒的な存在感と威圧感が実感できるのだが、市 街地のど真ん中にあることが不自然なほどの急峻な山である。
 標高は、329m。
 周囲のほとんどが切り落としたような断崖で、とてもではないが這い上がれるようなものではない。この山に登る には、ロープウェイに乗るか、わずか2本しかない登山ルート――九十九折れの尾根道を30分程度歩く以外に方法は ないのだが、その登山道もうんざりするような急勾配で、手ぶらで登ることさえ骨が折れる。

 この山は、太古から稲葉山と呼ばれている。
 別名を金華山と言い、現在ではこの名の方が有名になっているが、どちらでも良い。同じ山である。

 現在から500年ほどの昔――戦国時代の初頭――斉藤道三という英傑がこの山を要塞化し、難攻不落の城を築いた。

 斉藤道三というのは、一介の素浪人から下克上を繰り返してついには美濃一国を奪い取ったという一種の怪人で、 同じような経歴の男として徒手空拳で関東に大北条王国を築いた北条早雲がいるが、道三が活躍したのは、この早 雲のわずかに後ということになる。
 伝えられる斉藤道三という男は、若い頃は京の妙覚寺で知恵第一と呼ばれた学僧であり、諸芸百般到らざるはな く、舞い、笛は名人の域に達し、果ては武芸から軍略までをも極めたという万能の人で、還俗して油売りに転身す るやたちまち巨利を博すほどの商才を見せた。その後、野望を抱いて美濃の土岐家に仕え、権謀術策の限りを尽く して一代で極官に上り詰め、ついには土岐家を滅ぼし、美濃の太守にまで成り上がった。それまで惰眠を貪ってい た美濃侍たちを巧みに手なずけ、美濃 斉藤家を乱世向きの強大な軍事大国に作り変えたのも、道三の仕業である。
 近隣の大名たちは道三を“美濃の蝮”と呼び、この男を憎み怖れること蛇蝎の如くであったという。

 この斉藤道三が、渾身の知恵を絞って創り上げたのが、稲葉山城である。
 この急峻な山に本拠を据えたのは、道三の慧眼と言うしかない。たとえ百万の軍勢に囲まれても、稲葉山の天険があ ればビクともしないであろう。事実、この稲葉山城は、あの織田信長が何度攻めても落とすことができなかったので ある。


 信長が生まれた織田家というのは、尾張(愛知県西部)の出来星(新興)大名である。
 “尾張の虎”と怖れられた信秀(信長の父)のときに大いに興り、たびたび隣国の美濃(岐阜県)に攻め入り――お そらく現在の国道22号を北上して――何度も稲葉山城に攻撃を仕掛けた。
 が、その度に手痛い目にあって逃げ帰っている。
 父の跡を継いだ信長も、やはりこの稲葉山城を何度も攻め、そのつど敗走した。

 要するに、力で落とせるような城ではないのである。

 信長は、この稲葉山城がどうしても欲しかった。
 いや、正確に言えば、美濃という国が欲しかった。

 美濃は、天下の要地である。
 日本列島の中心であり、王城の地である京にも近く、しかも街道が四通八達している。南に下がれ ばすぐ東海道があり、西の関ヶ原に出れば北国街道、東山 道、伊勢街道が集まり、さらに木曾三川の大河を下ればすぐさま海――伊勢湾へと出られる。
 美濃というのは肉に喩えるなら上質な脂身のような土地で、その地勢は広やかでどこまでも田園が続き、米の取れ 高にすれば65万石――8千騎とも言われた美濃侍たちを養って余りある穀倉地帯を持っている。また 街道が交差するから人と物の往来が激しく、商業経済的に見ても非常に美味い。
 早くから天下統一を夢見、京に進出したいという野望を持っていた信長とすれば、涎が出るほどに欲しい国で あったろう。

 一代の英傑であった斉藤道三が死に、この物語が始まる頃の美濃 斉藤家は、道三の孫 竜興の代になっている。竜 興は暗愚と言われた男であったが、これを補佐する美濃侍たちの結束は固く、度重なる信長の美濃侵入 を跳ね返し続けていた。
 美濃の兵は強い。もともと個々の武士が武勇に優れ、名を惜しむ気風がある上、斉藤道三という軍略家によって 手塩にかけて丹精されたために武将たちの戦闘指揮が巧みで、東海地方では最弱といわれた信長の織田兵ではまと もに戦ってはとうてい勝てない。しかも美濃は大国であり、斉藤家の動員力は信長の織田家を遥かに凌ぐのである。 敵地に遠征しなければならない織田軍は尾張に守備の兵力を残さねばならないから、さらに分が悪いということに なる。
 信長が美濃を取るためには、この非常に厳しい条件で天下の稲葉山城を落とさなければならないわけである。


 この時期――永禄6年(1563)の夏――信長は突然、尾張の清洲に置いていた本拠を10kmほど北方の小牧山に移し た。
 美濃を攻めるために、である。

 信長は、これまで清洲から大軍勢をもって木曽川を越え、美濃に侵入し、長駆して直接に稲葉山城を囲んでいた。 しかし、そのたびに鋼の壁にでもぶつかるようなあっけなさで跳ね返され、その長い道程を命からがら逃げ帰らざる を得なかった。
 合理性の塊のような信長の感覚で言えば、この戦い方は無駄すぎる。

 信長は、度重なる美濃攻めの失敗から、多くのことを学んだ。
 そして、これまでの戦略を決定的に変更することを決めた。敵の本拠を一気に衝くのではなく、外側からじわりじ わりと圧力を掛け、紙に水が浸透してゆくように少しずつ美濃に織田家の影響力を増してゆく、という方法である。
 つまり、美濃の地侍や豪族たちに先行きに対する絶望と恐怖を与え、与えることによってそれらを織田家に寝返ら せ、取り込み、美濃の斉藤家を内部から崩壊させてしまおうというのである。いかに稲葉山が堅城であろうと、それを 守る者がいなくなれば落ちざるを得ないであろう。
 美濃の地侍や豪族たちに間断なく圧力を掛け続け、脅威を与え続けるには、美濃の国境近くに常に大軍勢を駐屯 させておくほかなく、それをするためには、国境付近に本拠を移すしかない。
 信長はその着想から、本拠を小牧山に据えたのである。

 この「本拠の移転」というのは、後世の我々の感覚からすると至極当たり前のことのようだが、当時 としては革命的な発想と言わざるを得ないことであった。中世の武士というのはもともとそれぞれが父 祖伝来の土地を守る領主であり、大名というのは一面でそれらの武士たちの利権を保護すべき存在であ り、いかに自分の家臣であるといっても武士たちを土地から切り離すことなどできたものではなかった のである。
 これは、性格的に天性の独裁君主であった信長だからこそできた決断であったろう。戦国の日本を見 渡しても、武田信玄も上杉謙信も毛利元就も北条氏康も、本拠を移すことなどできはしなかった。
 少し余談になるが、この「本拠の移転」によって織田家では兵農分離が決定的に進んだ。元は在地豪族として半 士半農であった織田家の家臣たちが故郷から切り離され、信長の膝元である小牧に屋敷を構えて常時そこで暮らす 専業の武士となり、織田家の軍政に重大な変化が生じることになったというわけである。

 稲葉山に向かって無策な猪突を繰り返すだけだった信長が、戦前の政略と調略を積極的に用いるようになったの が、まさにこの「本拠の移転」の時期からであった。要するに信長は、自分のそれまでの戦略思想を一変させるほ どに、美濃という国が――稲葉山城という城が――欲しかったということであろう。


 その稲葉山城が――

 信長が目の色を変えて欲しがっている当の稲葉山城が、

「すでに、落ちておるらしい」

 という奇妙としか言いようがない風聞が小牧まで聞こえてきたのは、年が明けた永禄7年(1564)2月の半ばの ことであった。




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