無  題


 失踪のレシピ 



 「殺人事件」というものについて、川上勉は考えていた。

 「殺人」は、犯罪である。過失で起こしたものでなければ、どんなに軽くても 10年近い実刑になる。そしてそれは、社会的に多くのものを失うということと 同義であり、とても現実的に可能性をうんぬんできるような話ではない。

 では、殺人事件を殺人事件だと認定させない方法はあるだろうか?

 そもそも殺人事件とはなんだろう?
 いうまでもなく、それは「殺人が行われた」ということである。
 つまり「殺人が行われた」という証拠がなければ、その事件は殺人事件であることが できないということになる。

 では、「殺人が行われた」証拠とはなんだ?

 そこまで考えて、勉は頓悟した。

  (死体さえ出なきゃ、殺人事件じゃないのか・・・)

 死体が存在しない以上、殺人事件は存在しえないのだ。
 つまり、たとえば凶器があり、動機があったとしても、死体さえなければ、殺人も ない、ということになる。
 あとは、死体を消す方法さえ考えれば良い・・・。


 勉には、消してしまいたい存在がいた。
 正確に言えば、綺麗に別れてしまいたい人間がいた。
 水野仁美という、元看護婦の29歳の女である。
 勉とは、2年ほどの付き合いになる。勉がよく行っていたランジェリーパブで、 バイトをしていたのが仁美であった。
 顔は人並だが、なんとなく男好きする色気があり、何よりも下着姿のスタイルが 良かった。勉がお客であった頃は、愛想もよく、仕事以外の細やかな気遣いやちょっと した仕草などに好感を持っていた女だったのだが、それらがすべて仁美のテクニックに すぎなかったと勉が気づいたのは、仁美が勉の部屋に自由に出入りするようになって からのことだった。
 仁美が勉に狎れるようになってから、勉は、この乳がでかいことだけが取り柄の 女になんの情感も持てなくなっている。
 ろくに料理が作れないことも、化粧を落とした顔が疲れきっていることも、金遣い が荒いことも、ギャンブルが好きなことも、掃除を面倒がることも、洗濯物を限界ま で溜め込むことも、他の男を自分の部屋に連れ込んでいるらしいことも、まだしも ただの恋人――セックスフレンドであったころなら我慢もできた。しかし、一緒に 生活をしていくとなれば、こんな女はまっぴらなのである。
 何度別れたいと言ってみたかしれない。
 しかし、そのたびに勉は、ヒステリックに荒れ狂う女から逃げ惑わざるをえない 状況に陥った。部屋中の陶器を粉々にされたこともある。ボーナスで揃えたAV機器 を壊されたこともある。手当たり次第に物を投げつけられ、血を流したことも1度や 2度ではない。仁美がついに刃物を手にするようになったとき、勉は説得する努力 を放棄した。

(他の男に気が移るまで、我慢するしかない・・・)

 最初はそう長い時間が必要だとも思っていなかったのだが、勉の誤算だったのは、 仁美という女にとって、勉が持っている社会的地位――そこそこ知名度のある会社の 課長補佐という肩書きと、将来的なものも含めた安定した収入と――がどうにも手放 せないものであるらしいということであった。

「30までには結婚したいのよねぇ」

 などと、いつしか仁美は言うようになった。
 勉には、限界がきていた。


 重要なのは、死体をいかに消すか、ということであった。
 焼却するのはいただけない。生半可な温度では骨が残るし、焼く場所がそもそも必要 である。焼いているあいだじゅう煙と臭いがでるし、その現場を目撃される恐れさえあ るのである。リスクが多すぎる。
 同様に埋めるわけにもいかない。やはり骨が残るし、埋める場所が必要で、穴を掘る のもなかなかの重労働だ。
 海に沈めるのは一見良さそうだが、いつなんどき浮き上がるかもしれないし、やはり 相当の期間骨が残ってしまう。

 ノートに思案を書き殴って、勉は一服入れることにした。
 書きながらものを考えるのは勉の癖である。昔から、思考の過程なり、論理の経過 なり、閃いた断片的な情報なりをメモすることが習慣になっている。電話をするとき も、読書をするときも、寝るときでさえも、勉は思いついたことをいつでもメモできる ように、常にノートをそばに置くようにしていた。

 考え方の角度を、すこし変えてみる必要を、勉は感じていた。
 なにも、死体を死体のまま、処理しなきゃいけない法もない。
 死体とは思えない状態に加工して、捨てる方法だってあるのだ。

 たとえば、薬品で溶かして捨てる、というのはどうだろう。
 これは、なかなか良さそうだ。溶かしてしまえばトイレにだって捨てられるし、 絶対に発見されることはない。けれど、たんぱく質を強力に溶解する薬品 ――たとえば硫酸のような――を都合よく手に入れられないし、無理に手に入れたとこ ろで、そこから事件が発覚する恐れがでてくる。日本の警察は優秀なのだと、テレビで 言っていたのを聞いたことがある。
 けれど、これは良い線のようにも思える。

(使う道具は、日用品がいいだろう。どこの家にも、あって不思議でないもの・・・。 そこから足がついたりしないもの・・・)

 こういう風にあらためて考えてみると、死体を消すというのは、なかなか難題である。
 それも当然といえば当然で、これが難解でなかったら、きっと世の中には行方不明の 人間が激増するだろう。

 すでに勉は、その思考そのものを楽しみ始めていた。

 動物に食わせるというのは、どうだろう?
 これは綺麗に死体を消してくれるようにも思える。骨が問題だが、細かく砕けばカル シウムであるには違いないし、なんとか食べてくれる動物もいるかもしれない。
 しかし、勉は動物が嫌いである。それを飼う努力を考えるのもおぞましいし、そもそ もなんの知識もない。その意味で、この線は可能性はともかく、実現性は著しく低いと 言わざるをえない。けれど、動物は微生物でもいいわけで、死体を細かく砕けさえす れば、海に蒔こうと土に埋めようと、これは問題ない気がする。けれど、それだと死体 を蒔いてるときに目撃される可能性が残る・・・。

 誰もいないところで実行でき、なおかつ確実に証拠が残らないものでなければなら ない。
 あんな女を消すために、自分の人生を台無しにするリスクは犯せないのだ。

 そのとき、勉は天啓のように思い至った。

――凍らせればどうだろう?

 死体をいくつかの肉片に解体して、いったんそれを凍らせる。凍らせた肉片なら、 鉋のような大工道具でも、ミキサーのような台所用品でも簡単に細かく砕くことが できるように思える。砕いた状態ならば、ごく短期間に微生物に分解されるだろう から、トイレにでも流してしまえばまず証拠のようなものも残らないのではあるま いか・・・。
 勉の部屋には、1人暮らしには大きすぎる冷蔵庫がある。解体した人体全部を 一気に冷凍室に入れることは無理としても、入りきれない部分を冷蔵室の方で保存 しつつ冷凍した部分を処理していけば、腐って腐臭を放つということもないだろうし、 作業をすべて風呂場ででも行えば、部屋から一歩も出ることなく――つまり誰にも見 られることなく――死体を消す作業をまっとうできるということになる。
 この場合、問題になるのは、骨と歯と髪の毛の処理である。DNA鑑定というもの ができてしまっている以上、これらの処理も軽視できない。
 水道管に詰まった髪を溶かすという薬品が、普通に家庭用品として販売されている から、何度かに分けて髪を溶かして、それを下水に流せば、髪の方は問題ないだろう。
 骨と歯は、やはりハンマーのようなものでごく細かく砕いて、できれば顆粒状にし たいところである。やり方を注意深く、かつ努力を怠らなければ、これもなんとか クリアできそうに思える。

 この線か――

 と、勉は行き着いた。
 そこで、勉は自嘲的に笑わざるをえなかった。
 これらの思案のごく初期の段階において、彼にとって絶対的に無理があるというこ とを、勉は誰よりも承知していたのである。

 勉は、血生臭いものが病的に苦手であった。情けない話だが、自分で流した鼻血を 見て貧血を起こしたことさえあるのである。スプラッター映画は言うにおよばず、医療 関係のドキュメンタリーを見ることさえ苦痛だった。そんな勉が、人間1人を血まみれ で解体するなどできるはずがない。

 最初から、勉はわかっている。
 結局、自分はそういう思考――空想あるいは妄想――を楽しんでいるだけなのだ。
 ノートを放り出し、勉は思考を止めた。
 結局自分はなにも為さず、あのどうしようもなくずぼらでヒステリーな女に引きず られて生きていくことになるのだろう。その責任は、すくなくとも半分は勉にある。 そのことも、勉にはよくわかっていたのだった。




 川上勉という男が失踪してから半月ほど経って、水野仁美の元に警察手帳を携えた男が 二人、訪ねてきた。男たちは勉の家族から捜索願が出ている旨を告げ、失踪前の彼と 交際があったという仁美の話を聞きにきたのだと言った。
 仁美は彼らを部屋に上げ、彼らが十分に満足する程度の受け答えを、8割の真実と 2割の嘘をもって注意深く、そして完璧に行った。
 男たちは、仁美の部屋にある本棚にも当然目を向けたのだが、本や雑誌に挟まれた ノートの1冊が、失踪した川上勉が使用していたものであった事実については、ついに 気が付くことはなかった。また当然ながら、彼女の家の冷蔵庫の中を、あえて確認する ということもなかった。
 後日、水野仁美がそのノートを焼却し、この世から完全に消し去ったことは言うま でもない。

−了−

2002 11/20


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