無  題


仮 面 の 下



 地球が丸いと気付いたのはガリレオだったか−−

 四角く切り取られた空を眺めながら、斎木は思った。

 いや、ガリレオが発見したのは地動説であって、地球の丸さとは 関係ないぞ−−

 空を丸いと言った人もいたけれど、狭い部屋の狭い窓から見る 空は、ちっとも丸くなんてない。

 するとニュートンになるのか−−? 

 林檎が地球に引き寄せられるのは引力があるからで、引力のベク トルは宇宙では常に中心に向かわざるを得ないから、星ってのは丸 くならなきゃしょうがない。

 そもそも地動説だって、最初に言いだしたのはコペルニクスで整 理したのがブルーノだったハズだし、するとニュートンが何か言い出 す以前から、きっと地球は丸いと思っている人たちがいたんだろう。

 だって水平線は丸いしね−−

 そう地球は丸いのだ。
 それは、誰に聞いてもそうだろう。
 けれど、本当に丸いのかどうかは、実はどうでも良いことである ような気もする。

 たとえばインドでは、世界は象の上に乗っかっている。
 何で読んだかは忘れたけれど、奇妙なオブジェのような世界観を インドの人は持っているらしい。
 本当の世界に住みながら、それとはかけ離れた世界観を持ってい て、それでも何も不都合はない。

 昔の人もそうだったろう。
 人間は割と最近まで、地球を板のようなものだと思っていたらしい。
 地球が丸ければ、下の方に住んでる人は、空に落ちなきゃいけな くなる。
 引力なんて考えるより、板の世界の方がよっぽどわかりやすいし、 それで何も不都合はない。

 地動説を獲得して、人間は、地球こそが宇宙の中心であるという 自信と資格を失ってしまったんだそうである。
 そりゃ、キリスト教も面食らっただろう。
 宗教裁判も頷ける。

 科学で明かされるのが神秘なら、壊されるのは幻想だろう。
 知らないで済ます方が幸せなことはある。
 幻想の呪縛は、人には心地よいのだ。

 そして幻想の仮面の下は、常に冷酷なのである。


 そこまで考えて、斎木は嫌になった。
 なんでこんな良い天気に、屋内でディスプレイを眺めてなければ ならないのだろう。


 斎木はシステムエンジニアである。
 というと聞こえは良いが、その境遇は、ようするにただのプログラ マーである。
 来る日も来る日もPCに向かい、キーボードを叩いている。
 ディスプレイに表示される結果を見ながら、バグを拾い、細部をい じり−−はたから見るとまったく無駄としか思えないようなことに労力 と神経を使い続けている。

 くだらないこと−−

 斎木の指がまた止まる。
 どうにも今日は作業効率が悪い。
 休日出勤の会社のフロアには斎木以外の人影がなく−−だから斎 木は誰に気を使うこともなく、独り言を呟くこともできれば、鼻歌を 歌うこともできた。

 里美は何をしているだろうか−−

 もともと今日は、彼女と逢う約束になっていた。
 ただ、斎木が携わってるソフトの開発が一向に捗らず、結果責任 者である彼には休日が無くなってしまったのである。

 もうそろそろ終わりかな−−

 里美とは、逢う間隔が微妙に長くなり始めている。
 斎木が以前ほど、熱心でなくなったからだ。


 ネットの世界は面白い。
 今の仕事をするようになって、斎木は思うようになった。
 このディスプレイの向こう側で、逢ったこともない人々が、自分 と同じようにディスプレイを眺めて、笑ったり、泣いたり、怒ったり、 果てはあえぎ声をあげたりしている。
 出会い系サイトは、物騒になったとは言いながら、それでも大変な 賑わいだし、どんなに夜中だろうが朝方だろうが、チャットをしてる 人間はたくさんいる。
 この世界は、求めさえすれば、何でも与えられるのである。

 寂しい人妻もいれば、ド淫乱な女子高生もいる。
 どれもみな、後腐れのない人間関係。
 責任を感じる必要もなく、しがらみと気にする必要もない。
 楽なのである。

 必要なときに、好みのシチュエーションを選んで、無料でセックス させてくれる女がいれば、べつに特定の彼女がいる必要はない。
 いまの斎木の本音だった。
 結婚なんて、まだ当分先で良い。
 新しい出会いと、気持ち良いセックスの方がはるかに魅力的なの である。

 リアルの魅力が薄らいでいく。
 境界が、曖昧になっていく。

 ネットの世界は、拘束がゆるいのだ。


 例えばこの間知り合った35歳の人妻は、逢ってすぐ、酒も飲まず にホテルに誘ってきた。
 セックスが、したくてしょうがないと言う。

 もちろん彼女にも、表の顔はあるだろう。
 貞淑な人妻。
 優しい母親。
 そういう呪いに縛られて、リアルの彼女は暮らしているのだろう。

 けれど、ネットの世界では、その呪縛が解かれる。
 くだらない幻想の仮面を捨てた、本当の彼女になれる。

 ベットの彼女は、ただの淫乱な雌犬だった。
 しきりに哀願し、命じればなんでもした。
 それが、呪縛が解かれた、彼女の本性なのだろう。
 それが、生き物として自然な彼女なのだろう。

 そして斎木も、いっぱしのサディストになった。
 自分にも、こういう部分があったのだと、新鮮な印象があった。

 実直なサラリーマン。
 真面目な好青年。

 斎木に被せられた幻想の仮面。
 くだらない呪縛から、斎木は解放されていた。

 いつしか斎木は、その世界の虜になっていた。


 携帯の着信音で、斎木は不意に、現実に引き戻された。

 メールが来ている。
 最近知り合った、20歳の女子大生だった。
 相当の好き者で、バイセクシャル。
 最近の若い者事情に、かなり面食らった憶えがある。

 逢えないか、と書いてある。
 女の子を1人、連れて来るという。

 斎木はOKの返事を書いた。
 夜までに、仕事を終えねばならなくなった。
 3Pの経験はない。
 新たな発見の期待に胸が踊った。



 翌日、都心のとあるラブホテルで、男性の遺体が発見された。
 男性は縛られた状態で相当の暴行を受けており、直接の死因は 内臓の破裂によるものであったという。
 男性は、出会い系サイトなどで知り合った複数の女性と性的関係 を持っていた様子があり、警察も犯人の特定にたいそう手を焼いて いるという話である。


 呪縛が解けることが、正しいとは限らない。

 被った仮面が1枚とは限らないし、その下にどんな本性を持 っているかなんて、結局誰にもわかりはしないのである。

−了−

2001 9/23


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