鷲 爪 伝
言うまでもないことだが、現在の広島県は安芸と備後を合わせた地域である。
ごく大ざっぱに言えば、広島県の西側――広島湾を囲む地域とその北が安芸の国で あり、 律令制の行政区画が定められて以来、安芸は八つ の 毛利氏は、高田郡の過半と山県郡の一部を領有しており、本拠である吉田は高田郡の 東の端にある。その北の高宮郡と高田郡の一部を高橋氏と宍戸氏が奪い合っていて、北 西の山県郡は過半を吉川氏が押さえている。南方の佐伯郡と安芸郡は守護・武田氏が大 きく勢力を張る地域で、その東の賀茂郡、沼田郡、沙田郡には、国人一揆の盟友である 小早川氏、平賀氏、阿曽沼氏、天野氏といった豪族たちが割拠し、独立系の豪族として は井原氏、及美氏、野間氏などがいる。さらに瀬戸内海には大小の島々が無数に浮かん でおり、 一方、備後は安芸とほぼ同じ面積だが、郡の数は十四もある。 吉田の郡山城から、東へ直線距離で三里も進めば備後に入ることができる。吉田の南 東が 中国山地の山々が連なる安芸の北部はそのほとんどが山林であり、山襞の隙間に無数 の小盆地があり、盆地を連結するように川が流れ、街道が通っている。芸備国境は、平 佐山、毛宗坊山、権現谷山、大土山といった山々で、いくつかの峠道や街道が両国を繋 いでいた。 その境目の山々を左手に眺めながら、山間の街道をゆっくりと南進してゆく行列があ った。女輿を中心にして、五十人ほどの男女が歩いている。 毛利家の姫――お竹の花嫁行列であった。 兄であり保護者でもある元綱は紋服姿で馬上にあり、その馬の口を重蔵が取っている。 毛利本家の代表として志道広良が同行し、元綱の近侍を含め、護衛のための兵が三十人 ほど。あとは道具持ちや侍女などである。元綱には経済力はないが、お竹は「毛利本家 の姫」として飾られたから、輿入れのための衣裳や道具類はそれなりの物が用意されて いた。 季節は初冬――秋の取り入れが無事に終わり、いよいよ雪が落ち始めようかという時 期である。 一行は、陽が西に傾き始めた頃に向原の日下津城に入り、食事を取ってしばらく休息 した後、日没後に再び出立 し、 目的地である井原氏の鍋谷城は、向原から二里ばかりの距離にある。坂氏が管理する 関所を通り抜け、左右が山によって塞がれた谷状の街道を進んでゆくと、井原氏の家来 の人数が花嫁を受け取るために待っていた。 「遠路はるばるようお越しくだされた」 井原氏の重臣らしい初老の男が、人の善い笑みを浮かべて頭を下げた。 「お出迎え、痛み入る」
元綱は下馬して挨拶を返した。 「四朗殿、ようお出でくだされた」
花婿である井原 「小四朗殿、我が妹でござる。ふつつか者ですが、よろしゅう頼みます」
丁重に頭を下げた。 「今日より小四朗殿は毛利の一門となった。井原の弓が味方についてくれたことは、 心強い」
元綱は、妹の前途には何の不安も覚えていない。良い伴侶を選んだという自信と、盃を
傾ける義弟の屈託ない笑顔が、元綱をさらに陽気にした。 「このお屋敷もすっかり静かになりましたね」
と寂しげな笑顔で言った。 「わたくしはそろそろ髪をおろそうかと思います」
と出家の意志を示したのである。
「前々から考えてはいたのだけれど――、お竹も無事に片付いたし、心に区切りがつき
ました。多治比
の
亡父の菩提寺で静かに余生を送ろうというのであろう。 「子が増えれば、またここも賑やかになります。御仏に仕えるのはもう少し先でも良いの ではありませんか」
やんわりと再考を促した。 「年老いたわたくしをまだ煩わせる気ですか」 と明るい声で咎めた。 「出家が叶わぬのは、浮世に雑事が残っておるということを、御仏がご存知だからで すよ」 元綱は自分が孝子だとは思ってない。ことさら親に反発したり逆らったり悲しませたり した記憶もないが、孝行らしい孝行といえば、孫を抱かせてやれたことくらいしか思い当 たらない。「親孝行したいときには親はなし」というが、世俗との縁を切られてしまえば、 孝行のしようもなくなってしまう。
「吉川家のご老体
は、
言いながら、
「高橋と毛利が堅く結んでおれば、吉川もそう易々と尼子に転ぶことはできますまい。毛
利の幸松丸は我が孫ゆえ、毛利がお屋形さまを裏切るようなことは、わしが致させぬつも
りでおりますが、ただ、幸松丸を後見する多治比の元就は、吉川国経の娘を娶り、かの尼
子経久とも縁戚でござる。元就が密かに尼子に通じておらぬとは言い切れませぬ。ここは、
元就より証人(人質)を取っておくことこそ肝要。尼子が何やら手を伸ばして来たとして
も、
と提案し、しかもその人質を自分が預かるということを義興に承諾させたのである。毛
利の人質を高橋が受け取るということは、事実上、高橋が毛利を傘下に収めるということ
であり、義興はそれを黙認したわけである。
「以前した約定の通り、多治比殿の娘御を貰い受けたい」
と志道広良に要求した。
「いやいや、お待ちくだされ。多治比殿の姫御は、生まれてよりまだ一年にも満たぬ乳
飲み子でござるぞ。わずか二歳で輿入れするなどという話がどこにござろう」
「輿入れなぞと、そう重く考えられることはない。わしが元で養育しようと申すのよ。
無論、ゆくゆくは興光の子
と
「しかしですな・・・・」
「執権殿よ、ここだけの話だが――」
久光は広良に顔を近づけ、深刻そうな声音を作った。
「実はな、山口で大内のお屋形にお会いした際、多治比殿より証人を取るつもりである
とお屋形が申されたのだ。多治比殿はご内室を通じて尼子殿と縁戚であり、お屋形が懸
念なさるのも当然であろうとわしも思うたのだが――」
大内義興が毛利に疑いの眼を向けている、と言われたのも同じであり、さしもの広良
も狼狽が顔色に出た。
「しかしながら、
むしろ恩を売るような口調で続ける。
「山口はあまりに遠い
が、
元就から人質を取ることは大内義興の意向であり、そのことはすでに動かし難い。同じ
人質を出すにしても、娘を山口に送れば、女という意味で二流の人質という扱いを受ける
に過ぎないが、阿須那に送れば、高橋氏の跡目の正妻として迎えられる。毛利と高橋の繋
がりをさらに深めることができ、大内義興も納得済みということでその疑いも晴れる。後
者の方が毛利にとって得というものであろう。
「多治比殿とも家中の重臣たちとも相談せねばなりませぬ。しばし時間を頂戴したい」
と言って、数日の猶予を願うのが精一杯であった。
「馬鹿な!」
と憤慨したのは、当事者の元就ではなく、意外にも元綱であった。
「なにゆえ我らが高橋に人質を出さねばならん。大内のお屋形が人質を要求されたという
なら、山口へ人を送るのが筋ではないか。国人一揆はそもそも対等の盟約であり、家々の
間に上下の差はないはずだ。高橋が人質を取るというなら、我らも高橋から人質を受け取
らねば道理が立たぬ」
形式論としてはまさしく正論であろう。
「四朗、解り切ったことを事々しく申すな」
元就が常にない語気の鋭さで言った。
「隠居殿は
ムッとした元綱が睨むと、兄は眉間に深い皺を刻んで瞑目していた。
「多治比元就の逆心は明らかである」
と大内義興に
「元就をわしの言いなりにするか、それができぬなら、いっそ元就を排除する」
そのあたりが久光の魂胆であり、毛利の間接支配をより徹底するために、もっとも簡
単で手っ取り早い手段
を
「大内のお屋形がご納得なされておるとなれば、このことに関してもはや議論の余地は
ない。隠居殿の申される通
り
努めて表情を消し、元就
は
「よう申してくだされた」
深く頷いた志道広良が、短い言葉で元就の決断を褒めた。
「そんな・・・・」
夫から事情を聞いたお久は、信じられないという顔をした。
「お菊はまだたった二つでございますよ」
歩くことさえできぬ幼児ではないか。
「お前の辛さは痛いほど解る。だが、こればかりはどうしようもないのだ」
家臣には決して見せられぬ苦渋の表情で、元就は頭を下げた。
「すまぬ・・・・。こうなってしまったのもすべて私の無力のせいだ」
そう言って責任を背負ったが、
「元就さまのせいでは――」
お久は唇を噛んだ。悲憤の涙が溢れ、頬を濡らして落ちた。
「お菊は人質として扱われるわけではない。高橋では大切にしてくれるであろう。十年
先――、興光殿のお子が成人なされば、お菊はその正室となる。もともと婚約はできて
いたのだ。藤掛城に住み、幼い頃から共に過ごしておれば、きっと仲睦まじ
い
それが何の慰めにもならないと知りながら、それでも元就は言葉を継いだ。
「おのれ、高橋め・・・・!」
この高橋氏の動きに激怒したのが、尼子氏の重臣・亀井秀綱であった。
「厄介な年寄りよ・・・・」
秀綱は吐き捨てるように言った。
「要は、高橋の隠居一人を亡きものにすれば済む話でござろう」
と言ったのは、鉢屋弥之三郎である。
「当主である興光は未だ十七、八の小僧――。隠居の大九朗さえいなくなれば、高橋は死
に体となりましょう」
「それは申すまでもないが――」
実際、高橋久光さえ消えてくれれば、いくらでも手の打ちようはあるのである。久光の
甥である
「どうやる?」
「藤掛城に忍び込み、寝首を掻くまでのこと」
「暗殺か・・・・」
秀綱は露骨に厭な顔をした。
「尼子の名が世に出てはならぬ。家中の士を使うわけにはいかぬぞ」
尼子家の武士に偽りの罪を被せて浪人させ、高橋家に仕えさせ、隙を見て久光を刺させ
る、などという方法は使えないということである。
「では、我が手の者を使うわけにも参りませぬな・・・・」
刺客を放つにしても、弥之三郎子飼いの鉢屋衆を使って万一それが捕えられることにで
もなれば、やはり尼子の仕業ということが露見してしまう。
「さすれば、他国者で腕の立つ者を密かに集めましょう。その分、多少時間も掛かりまし
ょうが――」
「お屋形さまが石見を取るまでにはしばらく時が掛かろう。それまでに仕遂げねばなら
ぬ」
「お任せを――」
弥之三郎は口元に冷笑を浮かべ、軽く低頭した。
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