鷲 爪 伝
多治比元就は、初陣にして安芸の守護 武田元繁を討ち取り、味方に倍する強大な武田
軍を撃退してのけた。過程はどうあれ結果としてそれは事実であり、その結果だけを知っ
た毛利の領民たちは、当然ながら驚き、かつ喜んだ。毛利家の領地には非戦闘員だけで三
千を越える人々が暮らしている。そこへ凱旋した元就は、雪崩のごとく押し寄せる賛辞と
賞賛の美辞麗句の中で、溺れるような数日を過ごすことになったのである。
しかし、戦勝の酒宴の席にあっても、領民たちの歓呼の声に囲まれても、元就の顔は誇 らしげでも嬉しそうでもなかった。常にお愛想ほどの微笑か、あるいは控え目な苦笑を浮 かべるのみで、合戦の事はほとんど口にしようとしない。 ――とても褒められたものではない。 というのが、元就の偽らざる気持ちだったのである。 有田の合戦は、結果だけを見れば確かに勝ち戦であり、戦史にも稀な形の大逆転勝利で あったわけだが、元就にとっては苦すぎる敗戦の記憶でしかなかった。 ――あの 元就は、何の策もなく武田の大軍に正面からぶつかり、当然の帰結としてまさに完膚な きまでに叩きのめされたのである。死力を尽くして敢闘し、善戦した毛利の軍兵たちは、 実に三人に一人が首のない遺体となって有田の地に倒れ、夫を喪った妻、息子を亡くした 母、父親を奪われた子供を、無数に作り出すことになった。すべて、自分の采配の誤りの せいだと元就は思っている。 ――あの時、もし刑部少輔が突出するような愚を犯さなければ・・・・。 そのことを考えると、元就は背筋が寒くなる。 毛利軍が総崩れとなった時、武田元繁が豊富な軍兵を再編して整然と追撃を行っていれ ば、毛利軍は確実に壊滅していたはずである。毛利方の軍兵たちは散り散りになって吉田 まで逃げ帰らざるを得ず、武田軍は一気に毛利の本拠まで雪崩れ込んで来たであろう。吉 田の毛利兵はそのほとんどが有田合戦に参加しており、ごくわずかな守備兵を除けばまっ たく出払っていたわけで、郡山城を守り切ることさえ困難だったに違いない。最悪、毛利 はそのまま滅んでいたかもしれないのだ。 有田城救援のために武田軍と戦うという選択自体は、間違っていなかったと元就は思って いる。そのことは信じているが、有田の合戦の戦い方は、一から十まで間違っていた。彼我 の戦力差を冷静に見詰めることをせず、中井手の合戦の勝利によって得た「勢い」に安易に 乗ってしまったのだ。 ―― ひとたび虎の背に乗って駆け出してしまえば、止まることはできない。止まれば虎に食い 殺されるわけで、それこそ死ぬまで走り続けるしか選択肢はないのである。その勢いを、元 就は「戦機」だと思い込んでしまった。 ――いや、あのとき私はそう思いたかったのだろう。 希望的な観測。自分に都合の好い状況判断。唾棄すべき楽観と思考停止。その無様な帰結 として、元就は数百人の毛利兵を死なせてしまった。彼らの死が無駄だったとは思わないし、 思いたくもないが、元就がより正しい采配を振っていたなら、あれほどの人死にを出すこと もなかったはずなのだ。 ――私が無能であったばかりに・・・・。 元就は、愚痴屋である。済んでしまったことでもウジウジと思い返し、牛の胃のように思 考を ――あの時、せめて四郎の献策を容れておれば・・・・。 有田城でも、吉田に帰ってからも、元就は何度も心中で悔やんでいた。 中井手の南方の小山に陣を敷き、冠川を堀に見立てて防戦に徹していれば、その夜にも吉 川本軍が援軍にやって来ていた。決戦するなら、それからにすべきであったのだ。あるいは あくまで守戦に徹し、武田軍に時間を浪費させるという手もあった。たとえ勝敗がつかずと も、雪が落ち始めても有田城を抜けぬとなれば、敵も遠からず撤兵せざるを得なかったであ ろう。 物事には必ず裏表があり、禍福は常に紙一重である。もし元就がそのような守勢の戦略を 採っていれば、確かに被害をより少なく武田軍を撤兵させることができていたかもしれない が、しかし、そうなれば敵の総大将である武田元繁を討ち取るという奇功もなかったであろ う。武田元繁は毛利家にとって当面の最大の敵であり、たとえ敵軍を撃退できたとしても、 元繁を生かしておけば来春にも再び攻勢に出て来たに違いないのである。あの男をたった一 度の合戦で殺し得たことはまさに僥倖と言うしかなく、勝敗が逆転したことで武田方の多く の武将が命を落とすことになり、結果として武田氏の威勢は大いに衰えた。その意味で、元 就は最小の被害で最大の戦果を挙げたとも言えるのだ。 元就は、政・戦略において徹底した合理主義者だが、一方で熱心な念仏信者でもあり、神 仏の導き――超自然的な力の働きや、運命、宿命といったものに対しては真摯な受容力を持 っている。自分の采配の誤りに気付きながらも、その誤りによって最大の強敵を除くことが できたという現実に、奇妙な不思議さを感じざるを得ない。その不思議さを、人々は元就 の「武運」とか「天運」といった言葉で片付け、無邪気に戦勝を喜んでいるわけだが、愚痴 屋の元就にすれば――そういうものの存在を心の片隅で確かに感じながらも――外野の声に 素直に同調するような気にもなれないのだった。 ――あんな 勝敗は 成功から得るものよりも、失敗から得るものの方が遥かに多い。いずれにしても元就は、こ の華々しくも無様な初陣によって、実に多くの教訓を得ることになった。 教訓ということで言えば、終戦後の志道広良の処置が、政略家としての元就にとって大き な教材になった。 有田合戦が終わり、有田城で休んでいたその夜に、諸将の前で広良はこう言ったのである。 「大内のお屋形に逆らい、国を乱す元凶であったとはいえ、刑部少輔は歴とした安芸の守護 でござる。これを私闘によって討ったとなれば、毛利の家に対する幕府の聞こえも悪しかろ うと存ずる」
広良は、幕府の管領代たる大
内 「執権殿の申されること、いかにも道理にも情理にも叶うておる。さっそくそのようにしよ う」
元就は自ら親書をしたため、それを持たせた使者を京へと走らせた。
「武田の事、国中
上野民部大輔は上機嫌に将軍の言動を伝え、その御内書を届けてくれた。
「多治比の元就とは何者ぞ?」
「あの毛利 「武田元繁は五千とも六千ともいう大軍を集めておったそうだ。これを破るほどの男が、こ れまで名も知られずにおったのか」 「まだ二十歳そこそこの若造だという。しかも此度が初陣であったらしい」 「京にある公方(将軍)さまが、わざわざ毛利に上使を遣わし、戦勝を賞したというぞ」
噂は風のように四方に飛び、安芸どころか隣国の人々もこの合戦の詳報を知りたがった。 「――ほう・・・・」
よく陽の当たる小書院である。初老のその男
は 「刑部少輔が死んだか・・・・」
「は。武田は翌日の合戦にも敗れ、有田から兵を退いたよしにございます。武田に従った熊
谷元直、香川行景、 「多治比の元就――か・・・・」 どこか眠たげな、茫洋とした雰囲気の男とは対照的に、その背後に座した話者は、いかにも 切れ者といった印象を人に与える。眉が濃く、彫りが深く、鼻筋も通ったなかなかの美男で、 年はまだ二十代半ばといったところであろう。 「何年か前、『鬼吉川』が、元就の嫁を我が家から迎えたいと申してきたことがあったな」
「は。そのように伺うておりますが、私はその頃はまだ家督を継いでおりませず、詳しきご
内談には 「あぁ、そうであったかな」 男は再び静かに墨を磨り始めた。 「人の世とは思いもかけぬことが起こるものよ。あの刑部少輔を討つほどの男が安芸におろう とはな。元就がそれほどの武将なら、あのとき一族の端の者でも我が養女にして、くれてやれ ば良かったか・・・・」 「お言葉ではございますが、此度のことは、元就が云々というよりは、刑部少輔が愚かであ ったと申すほかござりませぬ。総大将ともあろう者が、一騎駆けの葉武者の真似をして討た れるなぞ、笑い話にもなりませぬ。猪はしょせん猪。人並みの知恵がなかったというだけで ございましょう」 墨を磨る手を止めぬまま、男は窘めるような口調で言った。 「わしは京で刑部少輔に逢うたことがあるが、思慮もあり、勇気もある、なかなかの男と見 えた。そう悪し様に申すものではない」 「は・・・・」
「
若さ―― 「その元就、いくつであったかな」 「確か二十一かと・・・・」 「若いな。ゆくゆくお前のよき敵手になるのではないか?」 その台詞は男にとっていわば知的会話のあやで、それ以上の意味はなかった。しかし、後々 の事を思えば、何やら予言めいた響きがあったと言えなくもない。 「まさか――」
若者の口調にわずか
に
「毛利のごとき吹けば飛ぶよう
な 「そうかな・・・・」
男は口元だけで 「生まれたばかりの虎は猫と区別がつかぬが、育てばやがて人の手に負えぬようになるぞ」 「元就とか申す男、虎だと申されますか」
「さて、どうであろうかな・・・・。ただ、誰しも最初
は
この初老の男――名を尼
子
「畏れながら、お屋形さまの偉業
は、 男はその迎合には乗らず、興を失ったように話題を変えた。 「石見のことが済めば、次は安芸じゃ。武田の威勢が衰えたとなれば、国人一揆の者たちが 大内に味方し続けるようでは、少々面倒だな」 同盟した武田元繁に安芸を取らせ、安芸の大小名を遠隔支配するのがこの男の青写真であ ったが、元繁が死に、武田氏が大いに衰えてしまったことで、その戦略は大きな変更を強い られることになった。 「元就が猫にせよ虎にせよ、いずれ飼い馴らさねばなるまい・・・・」
呟いた男の眼が、その一
瞬、 「さっそく手を打ちまする」 安芸の国人一揆の衆を大内氏から引き離し、尼子の味方に付ける。それが自分の仕事であ ると、この明敏な若者は理解した。
「重蔵殿! よう無事で・・・・!」
玄関まで駆け出して来た孫次郎は、顔をくしゃくしゃにして喜び、重蔵の肩を抱くように
して屋敷に招じ入れた。生き残った孫次郎の家来たちも主人と感動を共にし、口々に重蔵の
生還を祝ってくれた。 「お互い生き残り、こうしてまた酒を酌み交わせて、よかった」 注いでもらった酒を美味そうに飲みながら、重蔵が言った。 「あぁ、わしがこうして生きておるのは、まったくおぬしのお陰よ」 この言葉に誇張はない。孫次郎は重蔵を命の恩人であるとさえ思っていた。 「して、おぬしはあれからどうしておったのだ?」 「三十人ばかりの兵に囲まれ――しばらくは斬り防いだが、どうしようもなかった・・・・」 重蔵は経緯を短く説明した。
「あの一軍を率いておったのが、例の今義経――毛利の四郎 元綱殿だったのよ。わしは四
郎殿に 「そうであったか・・・・」
孫次郎の声に落胆と申し訳なさが混じった。
「では、捕らえられた後、毛利方の目を盗ん
で 「いや、そうではない」 重蔵は一息に盃をあおった。 「四郎殿というご仁は、若いながら器量が大きい。わしのことなど眼中にないというだけ かもしれんが――『従いたければ従え、逃げたければ逃げよ』なぞと申して、わしは縄を 掛けられることさえなかった」 「ほう・・・・」 「合戦が終わって、毛利軍が吉田へ戻るというので、わしは吉田まで従った。そこで四郎 殿に断りを入れ、ここへやって来たという次第だ。わしが生きておるという事を、孫次郎 殿に報せておきたかったでな」 「なに? すると、おぬしは吉田に戻る気でおるのか?」 「あぁ、明日にも帰るつもりだ」 静かに頷く重蔵に、孫次郎は声を荒げた。 「馬鹿な。せっかく自由の身になったのではないか。その四郎殿か、その仁にしても、お ぬしが戻って来るなどとは思うておるまい」 よほど優しい人柄なのか、単に甘いだけなのかは知らないが、自由にしてやるつもりで 重蔵を送り出してくれたと考えるのが自然であろう。わざわざ奴隷になりに戻るなど、馬 鹿正直にもほどがある。 「いや、これはわしの心持ちの問題なのだ。あの仁からは大きな恩を受けてしまったから な。それを返さずにおいては、わしの気が済まんということさ。気が済んだら、その時は 吉田を離れるつもりでおるよ」
事情を理解した孫次郎は、重蔵の律儀さには好意と敬意を感じつつも、なお釈然としな
い。重蔵ほどの男が下人になるというのがいかにも惜しく、納得できないのである。まし
て、毛利氏と熊谷氏は敵同士であり、ひとたび合戦となれば、戦場で重蔵と殺し合うこと
になるかもしれないのだ。
「わしを援けてくれたがために、上北面
の 「よしてくれ。わしはもともと浮浪の身よ。境涯というなら、さほど悪くもなっておらん さ。それに、あの今義経――四郎殿という仁は、なかなか面白い」
重蔵はことさら気軽な笑みを浮かべて言った。
「おぬしも知っておろう、水
落 いずれもあの御前試合に出て来た勇者たちである。なかでも重蔵と戦った水落 源允 直 綱は、熊谷元直の叔父であり、孫次郎とも血縁がある。家中随一の槍仕で、安芸でも名の 知られた侍大将であった。熊谷元直と共に彼らを喪ったことはまさに痛恨事と言うしかな く、熊谷家の武威は無残なまでに衰えていた。 「殿のご遺体さえ城にお帰しすることができず、わしは奥方さまにも若君にも合わせる顔 がなかったわ」 孫次郎は自嘲気味に笑った。生き残ってしまった者の悲哀と言うべきであろう。 「その夜のことじゃ。奥方さまが供も連れずに城を抜け、たった一人で中井手に向かわれ た。翌日になってそのことを知らされた我らは、驚くやら慌てるやらで、えらい騒ぎであ った」
帰ってきた家来たちから事態を聞かされた熊谷元直の妻は、熊谷の大将ほどの者の遺骸
が戦場に放置されていることの無念さと不甲斐なさ
に 「そのようなことが・・・・」
戦国の世にも珍しい美談である。重蔵も思わず感動した。
「武家の妻女の あの御前試合の時、殿舎の広縁に座った夫人の凛とした姿を重蔵は思い出していた。 「若君はまだ元服さえ済ませておられぬ。奥方さまが毅然としておってくださることで、我 らは救われておるのだ」
孫次郎は詠嘆するように言った。 「四郎殿」 近付いて声を掛けると、振り向いた元綱は怪訝な顔をした。 「おぬし――本当に戻って来たのか」 「はい」 笠を取った重蔵は、慇懃に頭を下げた。 「四郎殿から受けたご恩は、我が命でござる。この命をもって返さねば、我が一代では返 し切れぬやもしれませぬが・・・・。借りを返せたと思える日まで、お仕えさせていただ きとうござる」 「律儀というか、酔狂な男だな・・・・」 元綱はやや呆れたように言い、額の汗をぬぐって磊落な笑顔を見せた。 「まぁ、気の済むようにするがいい。だが、俺は部屋住みの身で領地を持たぬゆえ、禄は与 えてやれぬぞ。ここに住むというなら飯くらいは食わせてやるがな」 「それにて十分」 若者の笑顔に釣り込まれたように、重蔵も笑った。
|