雑文工房


「峠」 / 司馬遼太郎


 今日、峠を読み終えた。
 実に4度目である。
 不覚にも、私は電車の中でまた泣いた。

 俗に、「武士は喰わねど高楊枝」という言葉がある。
 戦国の世が統一され太平の時代も長くなると、武士は戦場往来の 質朴さを忘れ、華美になり、諸式格式、礼、贈答といったものに金 を使うようになった。収入が固定されているにもかかわらず物価の 高騰に煽られた支出は増え続け、そのため俸禄では兵役で課せられ た人数すら抱えていられなくなった。ほとんどの侍が商人に金を借 り、結果として大多数の武士が、食に影響が出るほどに貧窮した。
 多くの侍がその日喰うために内職をし、あるいはモノを教え、ある いは魚肉を取るために釣りなどをし、武士だかなんだかわからないよ うな余技に関わらざるを得なくなった。
 しかし、そういう余技を恥とする侍たちも確実にいて、そういうストイ ックで、愚直で、そして悲しい漢たちは、食事を抜き、空腹を抱えたま ま、けれど外面はそれをおくびにも出さず、楊枝を使いながら大通り を歩いたという。
 この言葉は、そういう風景から造られた、侍の悲哀、武士の哀愁を 揶揄したものであろう。

 侍とは美意識であると、私は思っていた。
 己の生と死に対する執拗なまでの美意識。
 「爽やかさ」、「潔さ」で己の生と死を飾るといういわば「詩」 的な情念を、ストイックに、そして悲しいまでに愚直に体現する者こ そ、「侍」という名を与えるにふさわしい存在であると−−実際に言 語的に到達したことはないにせよ−−私はおおよそ規定していた。
 そして、自らそうありたいと、密かに考えてもいた。

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、 多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術 品とまでいえるように思える」

 と、著者・司馬遼太郎は言う。

 氏はこの作品について、「侍とはなにかとういうものを考えて みたかった。それを考えることが目的で書いた」とまで、その「あ とがき」で独白している。
 私の近年の疑問と興味も、まさにこの点にあった。


 司馬遼太郎氏は、数多くの幕末モノ・維新モノを手がけている。
 「竜馬がゆく」・「翔ぶが如く」がその中央に鎮座する巨大な 幹であるとするならば、「燃えよ剣」、「最後の将軍」、「十一番 目の志士」、「新撰組血風録」、「世に棲む日々」、「花神」、 「歳月」などなど、珠玉の作品が枝葉を広げ、全体として「司馬史 観」と俗に言われる見事で巨大な世界樹を構築しているのである (「菜の花の沖」という作品は未読であるため一時おく)。

 本編「峠」は、その枝ぶりがもっとも見事な枝のひとつだろう。

 河井継之介という男をご存じだろうか?
 幕末〜維新にかけて、雲霞の如く英雄豪傑が群がり出たこの時代 で、あるいは随一といえるかもしれない。理想と思想と信念と、そ のための実行力と実務力とを兼ね備えた真のサムライである。

 けれどこの男は、その能力、力量に比べると、その知名度は極めて 低いと言わねばならない。なぜなら彼は、官軍−−薩摩と長州を 中心とする勢力に与せず、越後長岡藩牧野家7万4千石の家老とし て、賊軍の将の名を残した男だからである。

 「峠」は、主人公河井継之介が、江戸への遊学を藩家老に願い 出るところからスタートする。
 藩では中の上くらいの家の部屋住みが、30を越えてなお役にも 就かず、ただものを考えたいがため、自費で遊学するという。当然、 家老は諾と言わない。しかし、継之介は家老邸に日参し、時勢を説く。

「武士の世が、ほろびようとしている」

 時代が沸騰している。
 ときに、安政5年。
 井伊直弼が大老に就任し、安政の大獄と後に言われる思想弾圧を 開始した年である。このため幕威はにわかに騰がり、歴史を知る者 ならば、幕府の威光が最後に輝いていた時期であると理解するだろう。

 けれどこの時期、河井継之介はすでに幕府の行く末を見通し、こ の先越後長岡藩がどのように進んでゆくべきか、わずか百石取りの 部屋住みに過ぎない境遇で、懸命に考えていたのである。
 その当時の継之介はすでに数回の遊学の経験があり、あるいは 黒船を見たことくらいはあったかもしれない。けれど、外国人に接 したことはおそらくなく、当然その脅威を肌で感じたという経験もな かったに違いない。
 驚くべき時勢眼というほかない。

 江戸期300年は教養の時代である。
 その罪功はともかく、世界史上でも希有と言っていい3世紀もの 平和の時代を作り上げた徳川政権は、家康の時代から儒教を正統 とし、中でも朱子学をその官学と定めた。
 これは武士から粗暴さを取り上げるための家康の厭武政策の 一端で、儒教というのは、誤解を恐れずに極言すれば、「どうすれ ば公共の福祉につながるか」という課題を考える学問であると言え る。
 藤原惺窩、林羅山、新井白石などを出した朱子学というのは、 それまでの日本になかった形而上的なものの考え方を大胆に採用 した儒教の一学派で、理(ことわり)を尊び、自然知識偏重に寄 るきらいがあるにしても、この形而上的な思考の獲得によってはじ めて、我が国に、武士道、忠義、滅私奉公、尽忠報国、尊皇など という、幕末おなじみの概念が登場するのである。

 しかし、我らが継之介はこの朱子学を採らなかった。
 彼は王陽明を尊敬し、自らを密かにそれに擬した。

 陽明学は当時、異端である。
 陽明学の陽明学たるゆえんは、その行動主義にある。
 陽明学では、思想は実践・行動を伴わねばならず、机上の議論に 決して満足しない。その最も顕著な例が大塩平八郎だろう。
 中斎・大塩平八郎は、陽明学者であった。彼は西日本に甚大な 被害をもたらした飢饉に発憤し、町奉行職にありながら、私費を投 じて難民に食を提供し、その惨状を幕府に訴え、措置を迫り、聞き 入れられずついに蜂起し、難民と共に大阪城を攻め、敗れて死んだ 人物である。
 この件に関して、正邪の判断はここでは下さない。
 私では勉強が足りないし、それはこの項の趣旨でもない(いずれ エッセイなりコラムなりで取り上げたい)。ただ、一ついっておきた かったのは、継之介の能力が、この大塩平八郎を遙かに上回ってい たということである。

 継之介はおそらく、大塩のその決断を多としたとしても、一分の 勝算もない無計画な決起を芯から軽蔑していたであろうと思う。

 継之介は、維新の内乱中最も甚だしい流血を伴った北越戦争を、 その本意ではなかったとはいえ、ほとんどたった1人で切り回した。
 自ら台本を書き、舞台を整え、演出家となり、さらに主役と狂 言回しまでも兼ねたのである。ある意味不幸な偶然が重なったと はいえ、これは驚異的としか言いようがない。

 継之介は百石取りの家柄から執政にまで成り上がった(無論通 例なら不可能であるが、この種の奇跡は乱世にはつきものであろ う)。
 その間、わずか7万4千石の経済力しか持たず、それさえも倒壊 寸前の大赤字状態だった藩財政をたった4年で建て直し、借財を完 済し、それどころか藩庫に10万両の余剰金を積み上げた。
 厳格な行政改革を断行し、徳川期の通例だった賄賂を禁じ、畜娼 を戒め、娼館を廃した。
 行革や家宝の売却や銭・米相場で捻出した莫大なカネを、すべて 軍備増強に振り向けた。
 その結果、越後長岡藩牧野家は、表高わずか7万4千石でありな がら、その火砲装備は日本随一の精強さを誇るに至り、どころかそ の水準はもはや先進諸国と同レベルといってよく、さらに驚くべきこ とには、当時アジアに3門しか届いていなかった最新兵器であるガ ドリング砲の内2門を、この長岡藩が所有していたのである。
 継之介が藩の執政になったのは明治元年。繰り返すが、初めて 藩の重役に抜擢されてからここまで、わずか4年しかかかっていな いのである。継之介の行政家、実務家、財政家、改革家、軍政家 そして投資家としての手腕は、ほとんど常軌を逸している。

 継之介は己が信じるままに藩の舵を取り、ほとんど独力でこれら の改革を成し遂げ、長岡藩をして、東北で一目も二目も置かれる存 在にまで育て上げた。とくにその火力は東北最強の会津藩をも遙か に凌ぎ、官軍にとっても侮りがたい軍事力になった。
 継之介の政治家として尋常でないところは、この軍事力をもって、 長岡藩の政治的重みを持たせるということに眼目が置かれていたと ころである。政略を背景に持たない軍事力など草賊とかわりがない。 政治家河井継之介はそのことを誰よりもよく知っていた。

 継之介は、己が握ったこの軍事力を背景に政治的発言をし、徳川 家の名誉をいささかでも回復し、また東北に広がりつつある戦火を 鎮めるべく、調停勢力になろうとした。
 歴史にIfは無意味だが、もし継之介が、例えば100万石の国力 を持つ雄藩か、あるいは西国の裕福な藩に生まれていれば、明治 維新はよほど違った形になっていたであろう。

 けれど天は継之介を、わずか7万4千石、雪深い北越の小藩 に生まれしめた。配剤というほかない。

 継之介の見たきわどい夢は、結局成就することはなく、官軍と 東北の同盟藩の戦争を回避することは出来なかった。そして長岡 藩は朝敵とされ、結果としてもっとも苛烈に官軍と戦うことになる。
 こうして不幸にも凄惨な北越戦争が始まるのである。
 官軍は、叩きのめされてはじめて、とてつもない天才が敵に回 してしまったことを知っただろう。
 そして継之介は、決して勝てない滅びの坂を、自らもの凄い勢い で駆け下り始めたことに気づいていたであろう。


 この「峠」という作品は、上巻で何の起伏もない継之介の前半 生を丹念に追っていく。読者はこのあいだに河井継之介という漢 がどういう人間であるかをあらかじめ詳細に知る。
 そして時勢が進むにつれ、まるで峠を登っていくように時代の機 運と緊張が徐々に徐々に高まってゆき、臨海点を越えた瞬間、一 気に物語が急転し、壮絶としか言いようがない官軍との殺し合い が始まる。
 この機微は、流石である。

 またさらに付け加えるならば、この河井継之介という一見理解 しがたい人物を、陽明学と武士道倫理というフィルターを通して、 終始一貫した姿勢でもって描ききった司馬遼太郎氏の手腕は、 やはり凄いと言うほかない。
 氏は「手彫り日本史」の中でいう。

「河井継之介という人は、たいへんな開明論者で、士農工商は やがて崩壊するということを、かなり明確に見通していた。封建 制度の将来をあれほど見通していた男は、おそらく薩長側にもい なかったろうと思うんですが、その男が幕府側に立ち、官軍と戦 って、自藩まで滅ぼしてしまう。それはどういうことなんだろうか、 というわけです」

「自由人である河井継之介はいろいろなことを思えても、長岡 藩士としての彼は、藩士として振る舞わなければならない、そう いう立場絶対論といったふうの自己規律、または制約が、河井 の場合は非常に強烈だったろうと思うんです」

「結局、彼は飛躍せざるを得ない。思想を思想としてつらぬかず に、美意識に転化してしまうわけです。武士道に生きたわけです」

 侍にとって、武士にとって、美意識は至上のものでなければな らない。継之介がサムライである以上、彼にとって戦いは避けるこ との出来ないものであり、結果としての「死」は、むしろ彼の人生 における「武士道」、「美意識」の完成と定義すべきである。

 けれど、継之介のなかの「武士道の完結」は、彼の「作品」で ある越後長岡藩を地獄の底に叩き込むことを意味していた。

 戦闘は、熾烈を極めた。
 この方面の官軍は、3万とも6万とも言い、実数はよくわからな い。これに比べて、継之介が握る長岡軍は、全軍新式装備とはい えわずか千数百。これに会津・桑名の友軍があわせて千と少しと いった具合で、普通に考えればそもそも戦争にならない。
 けれど継之介は戦えば必ず勝った。
 開戦までに取られていた諸方の要地を瞬く間に奪回し、官軍の 先鋒部隊を一撃で壊走させた。
 長岡の人々は継之介を「不識庵(上杉謙信)の再来」といっ たという。なるほど、戦闘指揮に限定しても、あるいは越後が 産んだ伝説の戦闘芸術家以来の大天才であったろう。
 官軍の増援につぐ増援と、不幸な濃霧のために長岡城を一時 明け渡したが、野に下った長岡軍は、むしろ翼を得た虎のように 暴れ回り、局地戦で官軍をことごとく破り、これがため、新政府 は外国からの信用を失い、北越戦争は負けているという認識が 世間を覆うようになった。
 さらに継之介は陥とされた長岡城をも鮮やかな奇襲で奪回し、 この方面の官軍に決定的な敗北を与えている。

 けれど、このあたりが人間の限界であったろう。

 さらに増派された官軍の逆襲にあい、再び長岡城は官軍の手 に落ちる。そしてその戦闘で、継之介は膝の下を砕くほどの銃創 を受け、戦闘指揮が不可能になった。
 全軍の士気はにわかに衰え、敗走を余儀なくされた。
 結局継之介はこの傷の膿毒のために死ぬ。
 そしてその死と共に、長岡軍の抵抗も熄むのである。


 継之介というサムライは、我々に何を残してくれたのだろうか。
 彼の墓は、死後十数年たってようやく長岡に建てられた。しかし その墓が出来たとき、墓石に鞭を加えに来る者が絶えなかった。 多くは、戦火で死んだ者の遺族であったらしい。そしてその墓石は、 しばしば彼らによって打ち砕かれたという。
 継之介を扱った小編「英雄児」を、司馬遼太郎はこういう言葉で 締めくくっている。

「英雄というのは、時と置きどころを天が誤ると、天災のような害を することがあるらしい」

 彼は間違いなく英雄児であり、稀代の天才児であったろう。
 ここで、独断と偏見ながら、河井継之介という男と、同時代の 著名な人物の能力とを比べてみたい。

 例えば、軍略の才。
 人のあらゆる才能の中で、最も希少なこの才を、継之介は持って 生まれていた。この時代、官軍でこの神のごとき才能を所持し、それ を発揮する幸運に恵まれたのは、長州の大村益次郎のみであり、僅 かにそれに似た仕事が出来たのが、薩摩の伊地知正治であった。 私は、継之介の能力は大村には及ばないにしても、その奇抜さ、柔 軟な思考において伊地知を遙かに凌駕すると信じている。

 戦闘指揮者としての才能を言えば、桑名の軍神立見鑑三郎にはわ ずかに及ばないにしても、例えば土佐の板垣退助、薩摩の黒田清隆、 長州奇兵隊の山県狂介らと比べれば、これを凌駕する力を持ってい たとしたい。

 政治家としての能力は、寝技を好まないということで言えば薩摩 の西郷、大久保には及ばないにもせよ、ついに評論家の域を出な かった木戸孝允は上回るであろう。

 彼が行った数々の斬新な藩政改革と、それを断固実行した実務 力を見れば、例えば後の江藤新平にも決してひけをとるものでは ない。

 先見性や世界認識は、賢候と呼ばれた人たちでは薩摩の島津 斉彬と佐賀の鍋島閑叟が、わずかにこれに比肩し得るのみであ ったであろう。おそらくその分野で日本一であった福沢諭吉や桜 痴・福地源一郎と比べても継之介にさほどの遜色はないように思 われる。

 これほどの人間が、時勢をはるかに見通しながら、己の立場 を守ることに固執したために、壮絶な北越戦争を引き起こし、多 くの人間を無用の死に至らしめ、後々まで人々の恨みを買ったの である。
 そして継之介は、卓越した将棋指しがそうであるように、ある いはそこまですべて読み切っていたのではあるまいか。

 それでも彼は己を−−サムライであることを貫いた。
 サムライの「奇形」。悲しさがここにはある。

[H.13.5/18 15:24]

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