雑文工房


「銀河英雄伝説」 / 田中芳樹


 腐敗した民主共和政治と、清廉で公正な君主独裁政治。
 この両者は、どちらがより民衆にとって善であるか――
 田中芳樹がこの壮大なスペースオペラで問い続けた命題は、人類にとって未だ確答を 出しえぬものである。

 人類にとって、永遠の政治体制というのは存在しえないのではないか。
 民主的な共和政治も、独裁的な専制政治も、時間の経過とともに必ず停滞し、腐敗し、 やがては自壊していくよう宿命付けられたものであるのかもしれない。
 人はその流れ行く歴史の中で、自らの理想に生き、思想に生き、欲望のために、また 野望のために生き、そして死んでいく存在であるのだろう。それだけは、この物語にお いてさえ、どうやら間違いではない。


 1人の偉大な指導者によって国が創られることがある。 何百年かに1人、野心と理想と能力とを備え、運を味方にし、天の時を得て現れる、 英雄とか偉人とか呼ばれる人たちがだけがなしうる、奇跡がそれである。専制君主の 国家とは、多くはそうして出来上がる。
 絶対の権力を握る君主による独裁政治における弊害とはなんだろうか。
 それは、ひとたびその君主が暴走を始めたとき、それがどれほど愚劣で、どれほど 残虐で、どれほど悪辣な施策であったとしても、それを阻止できる権利が民衆にない ということに尽きる。無制限な権力というのは、人を堕落させる麻薬であり、ひとたび その麻薬に汚染されれば、その君主が生ある限り悲劇が際限なく続くということになる。 また、どれほど偉大な人間であっても、その生が無限であることはできず、創業の偉大 な人間の後を継いだ人間が、同じように偉大である保障はどこにもないのだ。
 絶対的な権力を、個人に握らせることの恐ろしさはここにある。何百年に1人出るか どうかという英雄や偉人のためにあるのが専制君主制という政治形態であり、専制君主 制が正しく機能するのは、まさにそのときのみなのである。
 専制君主制という政治形態の恐ろしさは、民衆にとって偉大な指導者を戴く可能性よ り、凡庸な、あるいは愚劣な人間が君主になってしまう可能性の方が、実際は遥かに高 いということであるといえる。

 近代に生きる我々には、専制君主制というのは中世の遺物であり、古臭く劣った 政治形態であるように思えるかもしれない。しかし我々が獲得した――あるいは選択し た――民主共和制というのは、果たしてそれほど素晴らしい政治形態なのだろうか?
 この作品は、その疑問も、我々に突きつける。
 民主共和政治というのは、多数決の社会である。それは少数が切り捨てられていく 社会であり、派閥がものをいう社会であり、政治責任が分散される社会である。これは 権力を――その人間の品性に関わらず――より政治的野心の強い人間に与えるという 政治形態でさえある。そこでは人間が清廉であり、公正であり、勤勉であることよるり も、人気取りが巧みであり、大衆心理の操作が巧緻であり、 責任回避能力が高いことの方がより重要であり、高潔な現実主義者よりも誇大妄想的な 扇動者が好まれる。権力への野心が強い人間が、たまたま公正で高潔な人間であるごく 僅かな例外を除いて、この政治体制では、常に権力者が脂ぎった野心に満ち、自己の 保全と利益誘導にのみ達者な人間ということになる。
 そして、民主共和制の最大の害悪は、ひとたび政治が腐敗し自浄能力が崩壊すると、 何人政治家を殺しても容易にその軌道を修正できないということである。専制君主制であれば、 君主1人を殺せば社会が劇的に変革する可能性があるのに対し、共和政体では、民衆の 過半数の意識が変わらない限り、何も変化が起こらない。共和政体ではドラスティックな 改革というものが進めにくく、失政に対する責任は分散し、物事は常にうやむやになる。 民衆が政治に飽き、参加意欲を喪失したとき、それはもっとも醜悪で低俗な衆愚政治 に陥ることになる。現状に対する諦めは政治的主体性の喪失を生み、やがては政治離れと いう現象に結びつき、腐敗をいっそうに促進するという負のスパイラルに陥る。
 衆愚政治の行き着く先は「英雄待望」であり、偉大な指導者が現れて現状を打破「し てくれる」ことを人々は望むようになる。つまり、政治という「めんどうな」ことにつ いて考えることを拒否し、「誰か」が「なんとかしてくれる」ことを期待するようにな るのだ。現代の日本社会がまさにそうであり、人にとって「偉大な指導者に(少なくと も政治という面において)支配される」ことが暖かいベットのように魅惑的なものであ ることはどうやら間違いがない。
 民衆の政治的危機感をもっとも効率的に刺激してくれるのが専制君主による暴政で あり、血の生贄であるというのは、皮肉というには辛辣なアイロニーである。


 「人類の歴史」のような長いスパンで人類の社会意識的な成長や「善」の方向へのア プローチといったものを考えるとき、政治機構というものは、ある振幅の範囲内で相克 を繰り返していくものなのかもしれない。腐敗し、自壊あるいは崩壊した政治体制から、 その現状を打破する体制が生まる。しかしその体制も時間が流れるうちに腐敗し、ある いは機能不全を起こし、やがて崩壊をきたす。
 我々に必要なのは、ベストの政治体制を決めてしまうことではなく、そのときどきに おいて、もっとも良いであろう選択を、主体的にし続けていくということであり、モア ベターを模索し続けるということなのではないか――

 著者はこの広大な世界観を持った物語を通じて、人類にとって非常に難解なこの命題 に対して、1つの回答例を提示してのけた。


 この物語は、「継続していく人類社会」という巨視的な視線を持って、激動期に生き るの人間たちの、複雑に織り上げられる生き様と死に様を活写しぬいたという点で、 まさに非凡であると言わざるをえない。
 著者がこの思考実験の為に用意した人材は、まことに華やかであった。

 ラインハルト・フォン・ローエングラム――
 軍略の天才であり、稀代の戦術家であり、清廉で誇り高く、潔癖であるという点で 類まれな改革者である彼は、天工の彫刻もかくやというほどの至上の美の体現者 でもあった。ラインハルトは恒星のように歴史上に光り輝く存在であり、その周りには 無数の将星が引力に引かれるように集まってくる。

 そして、ヤン・ウェンリー――
 巨視的な歴史家の目を持ち、戦争と民主主義の矛盾、そして善政を敷くラインハルトの 「善」と民衆にとっての正義の意味を誰より知りながら、腐敗した民主共和政治のため に戦い続け、それでも戦えば必ず勝った天才戦術家である。「不敗の魔術師」と呼ばれ る彼の元には「自由・自主・自尊・自律」の気概を持つ「お祭り人間」たちが集う。

 著者は周到である。
 ラインハルトの属性は、500年に渡って全銀河を支配し続けた愚劣な独裁政治の 破壊者として性格付けられる。
 少数の世襲的特権階級と、彼らに搾取されるためだけに存在する民衆――
 ラインハルトは民衆の解放者であり、旧秩序の破壊者であり、善政を行う改革者で あった。彼は軍事的に、また政治的にほとんど理想的な独裁者となり、さらに宇宙の 半分を勢力下に置いていた腐敗しきった民主共和政府を打倒し、物語の前半で、全銀河 を統一する覇者となる。
 愚劣で自己の利益のみをはかる「民衆の代表者」たちの下で、翼をもがれた鳥のよう になりながら、それでも戦い続け、そして勝ち続けるヤン・ウェンリー。しかし彼の努力 もむなしく、戦術の勝利はいくら積み上げても戦略的優位を覆すことはできず、民主共 和政治の国家は滅び、銀河帝国の名の下に宇宙は統一されるのである。
 独立勢力となったヤン艦隊は堅牢無比な要塞に篭り、宇宙の片隅で、民主共和政治の 火を後世に残すために活動を続けるが、ヤン自身はテロリストの凶弾に倒れてしまう。
 戦争・陰謀・策謀・反乱――多くの登場人物がタペストリーのように物語を組み上げ、 銀河帝国の皇帝ラインハルトの病死と共に、歴史は動乱期を終える。
 宇宙に強固な基盤を築いた新しい帝国が完成し、ヤンの思想――「民主共和制の理想」 は、彼の意思を継ぐ者たちによって受け継がれ、彼らの指標となることで、死後のヤン は生き続けていく――


 単行本10巻――文庫本にして20冊――原稿用紙5300枚にもおよぶこの大長編 は、その読み応えにおいても、その内容の濃さにおいても、壮大な世界観においても、 登場人物たちの魅力においても、難解なテーマにおいてさえも、一筋縄でいくものでは ない。
 けれど、手に取ることをためらう必要は、いささかもない。
 この物語は、抜群に面白いのである。

[H.14 12/1]

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