口頭無形分化剤 その7
「毛利元就」について
戦国武将は星の数ほどいますが、なかでも僕が好きな武将が毛利
元就です。
この人、NHKの大河ドラマに取り上げられてにわかに脚光を浴び
ましたが、超1級の人物の割には、どこか華がないのか、いまいち
マイナーな印象があります。
これは、元就が持つ「知将」−−「謀将」のイメージからくる印象
なのかもしれません。実際この人、普通の現代人の目から見ると、
かなりアクの強いコトもやってます(もっともアクがない戦国武将は生
き残ることさえできませんが・・・)。
少々退屈ですが、まずは毛利氏の成り立ちから。。。
毛利氏というのは、天孫系の血族集団です。
定説(というか、言い分ですが)となっているのが、天穂日命
(あめのほのひのみこと)の裔であるという説。まぁ、これは神代
の話なので検証もできないのですが、確実なのは、大江氏からのわ
かれであるということです。
大江氏というのは、学問で代々朝廷に仕える学者の家系で、学問
の神様になっている菅原道真で有名な菅原氏と並ぶ著名な家柄でし
た。面倒な話ははしょりますが、大江広元には触れておかなければ
ならないでしょう。
大江広元−−初代音人(おとんど)の11世の孫で、この人「太平
記」にも名前が出てくる有名人です。
源頼朝の幕府創設の立て役者になった人物で、あの義経が頼朝に
あてた嘆願書を受け取った人物としても知られています。
この広元の曾孫が毛利時親です。
時親をとくに取り上げたのは、この人、あの楠木正成に兵法を指
南したという伝説の持ち主で、ようするに当時から有名な兵略家だ
ったのですね。
このように、元就のご先祖さまといういのは、我が国きっての秀才
揃いなのです。
毛利松寿丸−−後の元就は、天穂日命から数えて49代下った毛
利弘元の次男として乱世に生を受けます。
当時毛利氏は、安芸国(現広島県)吉田庄を支配する3000貫
の地頭でした。「貫」は後の石高になおすのがなかなか難しい単位
なのですが、僕は一応1貫5石の説を採ることにしています。
つまり1万5千石ほどが、当時の毛利氏の力量と言うことになります。
元就は、次男です。
そして元就の兄興元(おきもと)は、なかなかしっかりした青年武
将であったようです。元服すると元就は毛利家から分家し、多冶比
300貫の領主として自立します。
多冶比元就−−後の毛利元就は、1500石の分家の領主からスタ
ートするのです。
時は下克上の気運に満ちた戦国初期。
応仁の乱の戦火が全国に飛び火し、各地で我欲をむき出しにした
殺しあいが始まろうとしています。
小田原では裸一貫からスタートした北条早雲が一国を獲り、隣国
出雲では尼子経久が月山富田城を謀略で獲って守護の支配からの
独立を果たしました。
安芸の国も、当然戦乱に巻きこまれます。
安芸国の守護武田元繁が大軍を率いて安芸を席巻したのは、興元
が酒害で死んだ翌年の1517年、元就が21歳の時でした。
本家では当主が死に、その遺児である幸松丸はわずか3歳。
元就はしかも初陣でした。
しかし彼は、わずか2000に足らない戦力で、4倍近い戦力の武
田軍を打ち破り、守護である武田元繁を殺します。
それまでまったく無名だった地方豪族の次男坊の名が、はじめて
天下に轟きました。
この戦は、その意義と小勢で大軍を打ち破ったその類似性から、
後の歴史家から「西の桶狭間」と呼ばれています(実際の桶狭間
はこれより40年以上も後のことですから、この言い方は滑稽では
あります)。
その後元就は、生涯で200を越える合戦を経験し、齢75にして
その天寿を終えるまでに、安芸、石見、周防、長門など西国10ヵ国
を勢力範囲におさめ、日本最大の戦国大名に成り上がるのです。
毛利元就といって思い浮かぶのは、なんといっても、切れ味の鋭
い知略・謀略でしょう。
日本戦史上、3大奇襲に数えられる「厳島」の前哨戦とも言える
謀略戦をはじめ、手紙の謀略で尼子氏の一族の同士討ちを誘ったり、
敵の間諜を逆利用して相手に偽情報をリークしたり、城に籠もる敵を
寝返らせたり、養子縁組をつかって他家を乗っ取ったりと、数え上
げれば枚挙にいとまがありません。
僕は以前、昔の人というのは現代人に比べると劣った知性しか持ち
合わせていないものと、漠然と思っていました。
科学的知識は当然ですが、社会学、政治学、軍事学といった諸知
識は、時代と共に発達してきたものであり、後世に生まれた我々の知
性は、その時点で昔に生きていた人々に対して一定のイニシアチブを
持っているモノだと、単純に考えていたわけです。
しかし、歴史を学ぶにつれ、そういう考えがまったくの妄想であっ
たと知りました。
いや、むしろ逆であるとさえ言えるかも知れません。
乱世を生き抜いた戦国武将や、その乱世に生まれあわせた人々
というのは、我々が想像するよりも遙かに高い知性とヴァイタリティー
とを持っています。それが、「生きる」という最も根元的な活動の
ためにどうしても必要であったからです。
例えば、戦国武将は戦の前に、領民を煽り、戦時に対する心理
の傾斜を領民に持たせます。また、敵国に対しては、事前に間諜を
送り込み、地元の人間を抱き込んだり、後方撹乱につかったりします。
これらは、いわゆる戦時情報操作ですね。
まったく同じコトが現代でも行われます。
こんなことは些末な一例に過ぎませんが、ようは現代人が知性に
おいて、過去の人々より優れている、というのはまったく通らないの
です。
僕は、毛利元就が、竹中半兵衛、黒田如水らとともに、最も高い
知性を有していた戦国武将であると思ってます。
そして、これは落としてしまいがちですが、元就が当時最高峰の
教養の持ち主であったということも疑いありません。
例えば元就は多くの歌を詠んでいますが、元就の死後、その歌の
価値は大いに見直されてますし、「春霞集」という歌集も出版されています。
三条西実澄はその序文の中で「この詠草一巻により、文武兼備の美
誉芳声(びよほうせい)は永久に朽ちることはあるまい」と元就の
才能を讃えているそうです。
文武両道−−
当時の武士には当然のことであったのですね。
負けてられません。
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