口頭無形分化剤 その53


日本語って難しい



 明治大学で教鞭を執っておられる加藤徹先生の『中国古典からの発想』という本を読ん でおりまして。
 目からウロコが落ちるような気分になった箇所があって、それについてちょっと書いて みたくなりました。

  人間五十年 下天げてんの 内をくらぶれば 夢幻の如くなり

 信長が愛したことで有名 な『敦盛あつもり』の一節で す。
 実はこの「人間」って単語が曲者でして――。

 僕は、これを普通に「人」という意味に取っていました。

「人はせいぜい五十年しか生きない」

 という意味で読んでいたのですね。戦国時代の平均寿命はそれくらいであったのだと、 そういう解釈をしていたのですが――。
 この「人間」という単語、現在一般に使われている「人」という意味で扱われるように なったのは、どうも江戸時代に入ってからなのだそうでしてね。「人間」はもともと漢 文――というか、中国生まれの単語で、「人の世」とか「世間」とかって意味らしいの です。現代日本語でいえ ば「人間じんかん」という読 み方がそれに近い意味になるでしょうか。
 つまり、戦国時代を生きている信長は、「人間」という言葉を「人」という意味ではな く、「人の世」という意味で使っていたことになるわけです。

 それを踏まえて『敦盛』のあの一節を見直すと――。

 「下天」というのは、仏教の世界観であ る六道りくどう(天道、人間 道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)における最上位・「天道」の中の世界のひとつ です。
 天道、すなわち天界は、日本の大乗仏教では階級が上位から28天あるそうで、「下 天」はその中でも最下位、つまり人間界にもっとも近い位置にあり、天上界への侵入者 を監視する四天王が暮らしている場所とされています。「初天」、あるいは「第一天」、 正式には「四天王衆天」と呼ばれます。
 天界では上位世界の住人ほど寿命が長いということになってい て、第二天たる「?利天とうりてん」 の住人は寿命が3600万年、最下層である「下天」の住 人――「四天王」(持国じこく天、 増長天、広目こうもく天 、多聞たもん天(毘沙門 天とも))とその眷属けんぞくた ち――でさえ寿命が990万年とされています。
 天界の住人はそれだけ長寿なわけで、「下天」における一日の長さは、人間界の五十年 に相当すると考えられていました。
 つまり、『敦盛』の作者が言いたかったのは、

「人の世の五十年なんてものは、『下天』の神にとれば一日の長さに過ぎず、それより上 部の神々から見れば、それこそほんの一瞬、人間にとっての夢幻のようなものに過ぎない んだよ」

 という主張であったわけです。
 なんだか受ける印象がずいぶん違いませんか?
 人間の人生が五十年だなんて趣旨はどこにも入って来ないのです。
 ちなみに信長は自ら「第六天魔王」――つまり下から六番目の天であ る「他化自在天たけじざいてん」 の王であるとうそぶきましたが、 「無神論者」と極論される信長でさえ、ここまで述べてきた程度の仏教知識は常識として 持っていた、ということを示してもいます。

 信長が49歳で横死してしまったこともあって、僕もこの「人間五十年」にはすっかり 騙されていました。
 考えてみれば、平均寿命なんてのはいい加減なものです。昔の平均寿命が短かったのは、 現在ならば治癒可能な病気で死ぬ者が多かったことと、戦乱の犠牲(戦死や戦病死はもち ろん、耕作地の破壊や働き手の不足から起きる食糧不足なども含む)になる者が多かった こと。何より幼年期での死亡率が現在より圧倒的に高かったからでしょう。
 僕は「人間五十年」の「人間」の意味を取り違えていて、戦国時代は50代ともなると 一般に「老人」扱いというような錯覚を覚えていました。けれど、現代人の50代はむし ろ働き盛りですよね。60代になっても老い のかげを感じさせない人は たくさんいます。現代がそうであれば、昔もきっとそうであったと思い直したんです よ。

 信長のような大名階級を例に採らずとも、武将と呼ばれるような高級武士なら、日常生 活で食うことには困らなかったはずです。栄養的に戦国時代は現代よりも貧しかったでし ょうが、そもそも和食が長寿食、健康食であることは現在では広く知られています。戦国 武将をざっと見渡しただけでも、80代、90代まで生きた人は実はたくさんいるんです。
 この知見は、まさに目からウロコでした。


 日本語がなぜ難しいか。
 僕は今回、思ったのですが――。
 その理由のひとつは、日本語を使う側が、その言葉に対する基礎的な知識を失ってしま ったからなんじゃないですかね。
 日本語は、日本文化は、日本人の思想は、古代中国の文化や思想の影響を色濃く受けて います。歴史小説を書くようになって、日本の歴史を知りたいと思うようになって、日本 について勉強すればするほど、己の無知を思い知ります。
 思い知るのですが――。
 知見が広がる、ということの喜びを知ってしまうと、さらに貪欲にそれを欲してしまう 自分があります。

  学而時習之 不亦説乎
  学びて時に之を習う ま たよろこばしからずや

 孔丘こうきゅう先生はやはり いいこと言いますね。

2010/11/2


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