口頭無形分化剤 その51


「リアル」と「ヴァーチャル」の境界



 この数年、ネットを介した犯罪が新聞を賑わすようになっている。
 そこまで問題を大きくしなくとも、たとえば2chのような掲示板サイトや個人サイトの掲示板 に対する書き込みを例にとっても良い。

 匿名だから。
 ネットだから。
 バレないから。
 リアルとは違うから。

 ネットの世界を勘違いしている人間というのは、思いのほか多いものらしい。
 別の人格を演じ、あるいは自分自身を虚構で過剰に飾り、匿名を良い事に己の吐いた言葉に 責任を持とうとしない人間があまりに多い。

 アホかと思う。

 ネットの世界を「ヴァーチャル」なものだと勘違いしているらしいが、そもそも「リアル」と「ヴ ァーチャル」に、どれほどの違いがあるというのか。

 この世にヴァーチャルなものなど、ひとつもない。
 あるいは、この世はすべてヴァーチャルである、と言い換えてもいい。

 僕に言わせれば、「ネットの世界」と「現実世界」に、境界なぞはありはしないのだ。



 僕たちが生きているこの世界は、僕らの脳が僕たちのために作った「ヴァーチャル世界」である、 と言えば、突飛な意見に聞こえるだろうか。

 僕たちはこの世に生を受け、この世界の構成要因の1つとなって今を生きている。
 僕とあなたが、「同じ世界」に生きている。

 そもそもこの認識は、正しいものなのだろうか――



 人間は、例外なく、2つの世界を同時に生きている。
 僕たちの外側に広がった世界――「公的な世界」と、僕たちの内側の世界――「私的な世界」で ある。

 今、たとえば、目の前にリンゴがあるとする。
 僕とあなたが、そのリンゴを同時に見ているとする。
 「公的な世界」におけるリンゴは、僕とあなたとの間で同じモノである。同じリンゴを見ている のだから、それは当然だろう。

 けれど、「私的な世界」において、僕とあなたにとって、そのリンゴは必ずしも同じモノではな い。
 僕とあなたでは、リンゴに対する知識の量もそれを見たときの印象も違う。リンゴに対する好 悪も違えばリンゴに対する思い入れも違い、リンゴにまつわる思い出も当然違うであろう。
 リンゴが大好物な人と、リンゴアレルギーの人が、共に同じリンゴを見ていると想像すればい い。
 「公的な世界」では1つのリンゴに過ぎないモノが、「私的な世界」ではまったく別のモノになる。

 僕たちが目で見、手で触れているこの世界は、僕たちの「意識」によってそれぞれに認識され、 それぞれに構築された「それぞれの世界」であり、その意味で一人一人にとって別々の世界である。
 断じて、「同じ世界」ではない。
 「私的な世界」は個人にまったくユニ−クで、100万人の人間がいれば100万の世界の形が あり、その認識がある。

 つまり、「公的な世界」に属する「身体」よって外界を知り、「私的な世界」に属する「意識」に よってそれを認識する人間にとって、「私的な世界」と「公的な世界」の関係が、そもそも「リア ル」と「ヴァーチャル」の関係であると言っていい。

 「私的な世界」で生起し、「意識」によって認識されたものは、その人にとってすべて「リア ル」である。
 「公的な世界」で生起し、「意識」によって認識されたものは、その人にとってすべて「ヴァー チャル」である。

 「リアル」と「ヴァーチャル」の正しい線引きは、これ以外に有り得ない。



 ネットの世界のどこが「ヴァーチャル」なのか、僕にはさっぱり解らない。

 僕たちは、目でディスプレイの文字を読み、指でキーを叩く。
 「ネット世界」と境界を引いたところで、それを認識するのは僕らの身体であり、それに影響を 与えることができるのも僕らの身体以外にない。
 身体は「公的な世界」に属しているモノだから、その意味でこれらの行為は僕らの「意識」にと ってすべてヴァーチャルである。
 逆に、すべてが身体を使ったリアルな行為でもある。

 僕が、「この世にヴァーチャルなものなどひとつもない」と言い、「この世はすべてヴァーチャ ルである」と言ったのは、つまりこういうことである。



 「ヴァーチャル」という言葉が、「仮想現実」という日本語に訳されてから、日本人は何やら勘 違いをしているような気がしてならない。
 「仮想」だから何をしても許される、とか、責任を取らなくていい、とか、「仮想現実」だか ら「現実」とは別のものだ、とかいう印象を持つのかもしれないが、考え違いも甚だしいと思う。

 人間は、常に、どんなときでも、どんな精神状態にあったとしても、その身体を使った「公的な 世界」の「行為」に対して責任が発生する。
 「言葉」も「文字」も例外ではない。声は身体を使って発し、キーを叩くのもマウスを動かすのも 身体である。

 つまり、身体を使った「行為」であれば、その「行為」から派生したすべての現象や結果に対し てすべからくその責任を負うのが「大人」というものなのである。
 「公的な世界」に生起する事象をヴァーチャルと呼ぶなら、ヴァーチャルな世界にこそ責任が発 生すると言っていい。

 人間が責任を負う必要がないのは、「私的な世界」に生起し、「公的な世界」に影響を及ぼさな い事象のみである。それは妄想の世界であり、想像の世界であり、心の中の世界である。
 「私的な世界」に生起する事象をリアルと呼ぶなら、リアルな世界にこそ責任が発生しないと言 えるであろう。



 人間にあるのは、この身体のみである。
 人間に成せるのは、この身体を使った「行為」のみである。

 この点を踏まえれば、ネットの世界だから責任を負わなくても良い、などという発想はそもそも 有り得ない。
 責任は「行為」に由来し、「行為」はすべからく身体によって成されるのだから。
 そして、己の身体によって成したすべての「行為」に責任を負う覚悟を持った者のことを、「大 人」と呼ぶのだ。


 残念なことだが、どうやらネットの世界には、「大人」になり切れていない者が多いらしい。
 「大人」になりきれていない者のことを、僕たちは普通、「子供」と呼び、あるいは「ガキ」と 呼ぶ。

 ガキにはガキの遇し方があり、そのあしらい方があるべきだろう。

2008/1/24


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