口頭無形分化剤 その50


続・「つよさ」の定義



『日本刀のような男になりたいと、考えていたことがありました。

 鞘の塗りが剥げていても良い。
 柄の真田紐が手垢でボロボロに切れていても良い。
 けれど、ひとたびそれを抜けば、人間の骨を肉ごと断ち切る世界で唯一の刃物のように、恐るべ き切れ味を持った男でありたいと――』


 僕が、5年ほど前に書いたエッセイの一部です。


 「強さ」というのは、僕がずっと考え続けているテーマの1つです。

 「強い」人間とはどういうものか。
 どういう人間が「強い」のか。

 こういうことを考えてしまうというそのことが、僕が「強い」人間ではないことを如実に表して いますね(苦笑
 虎は、特別な修練をせずとも最初っから強い。
 本当に強い人間なら、強い自分であることが自然な状態で、そのことに疑問も関心も持たないもの なのかもしれません。
 まぁ、それはともかく――

 どうすれば「強く」あることができるのか。
 「強さ」を持つには、どういう人間になれば良いのか。

 僕は、物心ついて以来、その答えを探し続けてきたように思います。



 「強さ」が何たるかが解らなかった頃、僕は、「弱さ」を隠すことをまず考えました。

 「強い」と感じた人物の生き方や考え方を真似、他人から見たときに「強い」人間に見られるよう に振舞い、それで己が強くなったような錯覚を得て満足していた。
 「弱さ」を他人に見せず、「弱い」自分を認めず、己を縛ることをもって「強さ」に代えていた ように思います。


 硬質な鎧を身に纏うことが「強い」ことだと思っていた頃もあります。

 外界からの刺激に対して打たれ強いこと。
 ダメージに対して、痛みを感じないこと。
 傷つかないこと。
 それが、「強さ」であると――


 「弱さ」というものについても、同じように考えていました。

 外界からの刺激に対して打たれ弱いこと。
 ダメージに対して、たくさんの痛みを感じること。
 傷つきやすいこと。
 それが、「弱さ」であると――


 いやいや、我ながら幼かったと思います(恥



 いつから、というのは明確には特定できませんが、「強さ」や「弱さ」というものは、相対的 なものじゃないのではないかと、僕は考えるようになりました。

 外界からの刺激に対して、どうとか、こうとか。
 そういうものではないのではないか。

 痛みを感じるとか、感じないとか、そういうこととは関係ないのではないか。
 傷つきにくいとか、やすいとか、そういうこととも無関係なのではないか。
 「強さ」とか「弱さ」とかいうものは、そんなこととは根本的に次元の違うものなのではないか。

 心に痛みを感じない人が居たとしますよね。
 その人は、痛みを感じないという意味において外からの刺激に対して無敵なんですが、心の痛み に耐え、それを乗り越えたり克服したりというプロセスを経験することができないということになり ます。
 それは、果たして真の「強さ」でしょうか?
 たとえば、心の痛みをまったく経験せずに「自分は強い」と思っている人が居たとして、それはた だの「無知」なんじゃないかって、気づいちゃったわけです。

 「強い」人間だって痛みは感じても良いんじゃないか。
 その感じた痛みに負けないってことが「強い」ってことじゃないのか。

 こういうことを考えていてね。
 それを突き詰めていったとき、ふと、こう考えるようになりました。


 「強さ」とは、「『普通』であり続けることができる」ということではないか。

 「弱さ」とは、「『普通』を簡単に失ってしまう」ということではないか。


 「常に『普通』であること」は、「『普通』にしがみつくこと」と同じではありません。
 「普通でいなきゃ」と思うとき、その人はすでに「普通」の状態ではないですからね。
 何かに囚われ、何かにこだわり、何かに執着しているとき、その心の状態はすでに「普通」とは呼 べません。


 何が起きても自然体でいられること。
 外界からどんな刺激を受けても、「普通の自分」を失わないこと。

 これが、「強さ」ではないのか。

 自然体でいられなくなること。
 外界からの刺激を受け、「普通の自分」を見失うこと。

 これが、「弱さ」ではないのか。


 怒りを感じること。
 哀しみを感じること。
 あるいは痛みにもだえ苦しむこと。
 これは、人として自然な姿であるように思います。

 感じた刺激に対して、己の心に素直な自分であること――
 外から入ってくる刺激に対して、「自分」を見失わないこと。
 これが、すなわち、「強い」自分で居るということではないのか。


 怒りに支配されて我を忘れる。
 哀しみに沈み込んで周りが見えなくなる。
 あるいは痛みによる苦しみから何も考えられなくなる。
 こういうとき、人は自然な姿で居られてないように思います。

 感じた刺激に対して、己の「普通」を失ってしまうこと――
 外から入ってきた刺激のせいで、「自分」を見失ってしまうこと。
 これが、すなわち、己の「弱さ」に流されているということではないのか。


 僕は、「強さ」も「弱さ」も、常に人の中にあるものだと思います。
 人とは、本来的に、常に揺れ、常に迷い、常に無明の闇の中にあるものだから。
 釈迦やキリストでもない限り――悟達した人間でない限り――人が迷いの苦しみの中から抜け出す ことはありません。
 つまり、心は常に、不安定に揺れているのが当たり前なのです。

 で、ある以上、「強さ」も「弱さ」も、人の中で瞬間的に生起するもので、ある人が「強い」とき もあれば、「弱い」瞬間だってある。
 それは、僕の言い方をするなら、外界からの刺激に対して、「『普通』でいられるとき」もあれ ば、「我を失うとき」もある、ということですね。

 常に普通でいられる人間というのは、「強い」。
 簡単に自分を見失ってしまう人間というのは、「弱い」。

 こういう言い方をすると、多少は解りやすいですかね。


 意識してそれにしがみつくことなく「普通」でいられるとき、人は「強い」です。
 なぜなら、「普通」でいるということは平常心であるということであり、「心に余裕がある状 態」であるからです。

 余裕があれば、外から力を受けても、それをしなやかに受け流せる。
 刺激を受けても、それを上手に吸収し、受け止められる。

 柳に雪折れがないように。
 暖簾が風でふくらむように。
 凹んでもすぐに元に戻れる弾力を持てる。

 「強さ」とは、そういう「しなやかさ」と「したたかさ」を併せ持ったものであるはずです。


 逆に、我を忘れて「普通」でいられなくなったときというのは、人は「弱い」。
 なぜなら、それはなんらかの感情に囚われて平常心を失ったということであり、「心に余裕をなく した状態」であるからです。

 余裕がなければ、外から力を受けたとき、それを受け流すことができない。
 刺激に負けないよう、さらに力を込めて反発しようとしたりする。

 硬いものほど、粉々に砕ける。
 限界を超えたとき、あっさりと割れる。
 凹んだが最後、壊れて元に戻れない。

 「弱さ」とは、何かに囚われて心が「かたくな」になった状態であるように思うのです。


 そのときそのときの感情を素直に受け止め、かつ、その感情に流されないこと。
 傷ついても凹んでも、すぐさま元に戻るしなやかさとしたたかさを持つこと。

 「強さ」などという曖昧模糊とした概念を、言葉で過不足無く表現することはほとんど不可能なの ですが、このあたりが、僕が求める「強さ」の鍵になっていそうな気がします。




 日本刀のような男になりたいと、考えていたことがありました。

 今も、そういう考えを持ったこと自体を悔いてはいませんし、できればそうありたいと思ってい ます。
 けれど――


 そんな男になれたとしても。
 どうも、それだけで僕が欲する「強さ」を手にできるというわけでもなさそうです。

2006/2/10


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