口頭無形分化剤 その5
「人工知能」について
僕は大学で人工知能を学んでいました。
人工知能−−AIといったほうが、皆さんには馴染みが深いかも
知れません。
本当ならその技術を学ぶべきだったのでしょうが、僕は性格から
か、哲学的思索のおもしろさに転んでしまい、結局理論をもてあそ
んだだけで修学期間を終えることになりました。
いま思えば、かなり不本意なかたちで卒業したと言えますが、僕
の能力を考えると、まぁこんなものか、とも思っています。
さて今日は、その人工知能について、つらつらと。
人工知能とは、そもそも何でしょう?
「知能」という単語は、定義が難しい言葉なのですが、いまこれ
を仮に「知恵の働き」くらいに広く解釈するとしますと、「人工知能」
とは、「人工的に創造された知恵の働きをするモノ」というくらいの
意味になります。
けど、これでは少々困りますね。
「人工的に創造された知恵の働きをするモノ」では、例えば電卓
や、ひょっとするとソロバンといったモノさえも、広い意味での「人
工知能」になってしまいます。
僕が語ろうとする「人工知能」はそんなモノではないし、皆さん
が想像するのも、そんなチャチなものではないでしょう。
テューリングという人がいました。
もう半世紀も前の人ですが、このテューリングさん、テューリング・
マシン−−いわゆる計算機の生みの親として知られています。
そのテューリングさんが、「人工知能」という言葉に対してある
提案をしています。これは、本質的な議論とはあまり関係ありませ
んが、とりあえずそのテューリングの提案についてごく簡単に触れて
おくと・・・
チャットの状況を想像して下さい。
アナタは、アナタの知らない2人の相手と順番にチャットで話をし
ます。
実はこの二人、1人は本物の女性で、1人は会話をするコンピュー
タプログラムです。
いま仮にアナタがこの2人と会話をしたとして、どちらが本物の女
性であるか判断がつかない状況であったとしたら、このコンピュー
タに知能があるという言い方をしよう、と、こうテューリングは提案
したわけです。
以来この方法は「テューリングテスト」と呼ばれ、一般に「人工知
能」の判定方法として、長く使われていました。
この「知能があるという言い方をしよう」という言い回しは、現代
においてもなお、かなり注意深く考えてみなければならない、含蓄
ある言葉であると思います。
「人工知能」と言われて安易に僕らが想像できるのは、例えばチ
ェスをするプログラムであったり、ご飯を上手に炊くプログラムであ
ったり、もしかするとポストペットであったりするかも知れませんが、
ここで重要なのは、僕らが「人工知能」という言葉を使うとき、そ
の「人工知能」という意味を、「何かの問題解決能力を持ってい
る」というくらいで考えている、という点ですね。
「人工知能」というものの実現の難しさは、実はこのあたりにあ
るのです。
「知能」という言葉は、例えば「話す能力」や「将棋を指す能力」
といったものとは違って、「能力を指す」単語ではないのですね。
それはもっと漠然とした、いわば「概念を指す」言葉で、これが
ため、これを機械で実現するのは理論的に無理なんです。
なぜなら機械には特定の設計仕様が必要であって、「概念」とい
った漠然としたモノを設計に織り込むことは実際的に不可能ですし、
またその完成品は、設計仕様を越えることはできないからです。
「知能」のような「概念の世界」のモノを創ろうと思えば、これ
は「概念を生成可能なモノ」を創るしか方法はありません。
つまり、「心」を計算機で創って、これを「概念」の生成が可能
になるまで複雑に「成長」させるしかないわけです。
僕は最初、もっと力ずくでこの「人工知能」が創れるのではない
かと思って、いろいろ考えていました。
もしかしたら、「インターネット」というものがその試金石になる
かもしれないと考えたこともありました。ネットの世界は事実上無限
の広がりを持っており、また、いまこの瞬間も宇宙のように成長を
続けており、このネットを脳のように見立てて、その上を走るロボッ
トを上手く創れれば、機械に意味論(ごく狭い意味での「心」)を
持たせることが出来るのではないかと、漠然と考えたのです。
けれど、これは技術的にも理論的にも不可能でした。
これを実現させるためには、そのロボットにも「心」を持たせる
ことがどうやら必要であり、デカルトが陥った「機械の中の幽霊」
の誤りを犯しています。
そこで僕は、「人工知能」を考えるために、まず「心」というモ
ノの考察から始めなければならなくなってしまったわけです。
まったく滑稽ですね。
「心」の考察なんて、それだけで一生の研究テーマになり得ます。
たかだか大学生の卒論で、その「心」の考察を踏まえて、さらに
「人工知能」を語ろうとしたのですから、この無知には馬鹿さ加減
を通り越して儚さすら感じてしまいます。
ま、それでも後悔はしていませんがね。
卒論うんぬんよりも、その製作過程での考察そのものが、僕にとっ
てはそれなりに価値のあるモノであったから。
あ、「人工知能」を語るつもりが、昔話になってしまいました。
ま、随筆なんてこんなもんでしょうか。。。
ちなみにその卒論は、
ここにあります。
H.13 6/16
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