口頭無形分化剤 その49
悪人論
何を隠そう、僕は「悪人」です。
このことは、この「無明堂」では何度も何度も言ってますね(笑
僕は、ネットで出逢いがある度に、出会ってくれたその相手に、わざわざ「僕は悪人ですよ」と
断ることにしています。
僕は、自分を「悪人」だと思っている。
「悪人」でありたいとさえ思っている。
それも、「狡猾な悪人」であるのが理想です。
けれど、この「悪人」という言葉は、どうも人に誤解を与えてしまうものらしいですね。
言葉というのは、誰もが意思疎通のために使うもので、しかも使っているそのときは、たとえばある単
語を、誰もが同じ理解の仕方で使ってくれているはずだという前提があるわけですが、この前提は、実は
結構危険な思い込みに過ぎないのかもしれません。
僕やあなたが普通に使っているその言葉。
ある単語1つとっても、その言葉の意味づけや重みが、本当は個人によって常に違うのです。
けれど、僕たちは、自分の理解の仕方で、人もその言葉を理解してくれていると思いがちですよね。
抽象的に話をすると、解りにくいかなぁ。。。
たとえば、「愛してる」という言葉について。
ある人は、「大好き」ってくらいの意味でこの言葉を頻繁に使ってるかもしれないし、ある人は、1人
と決めた人以外にはその言葉は断じて使わないと決めているかもしれません。けれど、そんな二人が愛す
る人について話をしたとすれば、同じ「愛してる」って言葉を使って気持ちを表現することになる。
二人の「愛してる」は、意味も重みも結構違うのに、それで普通に話が通じたりする。
お互いに、自分の言葉の定義で相手の気持ちを理解した気になりながら。。。
割りと解りやすい喩えでしょ?
世の中には、人と同じ数だけ価値観があり、言葉の使い方があります。
この「価値観」や「言葉の使い方」が近い人ってのは、感性や考え方が近い人だと思って良い。
合う、合わないで言えば、「馬が合う人」ってことになるでしょう。
で、「悪人」の話です。
「悪人」って言うと、皆さんはどんな人間を想像するんでしょうかねぇ。
たとえば、人を平気で騙す人とか、身勝手な振る舞いをする人でしょうか。
それとも、残虐な人間や冷酷な人間を連想するんでしょうか。
僕から言わせれば、身勝手に平気で人を騙す人間ってのはチンピラとか小悪党とかであって、「悪
人」の範疇に入れる価値もないと思うし、残虐さや冷酷さは「悪人」が持つ要素の1つであっても
「悪人」そのものを指してるわけじゃないように思うのですが、そもそも普通に人生を生きてる人たち
にとって「悪人」について深く考える必要があるとも思えないし、多くの人は、そんなくだらないこと
は突き詰めて考察したこともないのではないかしらん?
それはそれで正しいし、何の問題もないのですが、それでは僕と「悪人」の認識が噛み合わなくなっ
てしまいます(笑
だから、今日は、僕の思う「悪人」ってものについてひとくさり。
僕の定義では、「悪人」とは、「目的を達成するために、あらゆる手段を選ばず、あらゆる苦しみを
意に介さず、初志を貫徹できる強さを持った人間」のことを指します。
目的のために必要なら平気で人を騙し、平気で人を殺し、そのことに罪悪感を覚えず、あるいは罪悪
感を覚えてもそれを押し殺し、不動の心で目的に向かって邁進できる人間のことです。
「目的」そのものの善悪は、ここでは問題ではない。
その「目的」は人助けであっても良いし、世界平和であっても良い。世界征服でも良いですし、自分
の欲望を満たすことでも良いです。
ただし、「目的」の大小は、問題になります。
小さな目的しか持てない人間は、器が問われますからね。小人が「悪人」を気取ったところで、それ
は小悪党に過ぎません。
目的は、あくまで大きくなければなりません。
そういう目的に向かって、心を折らず、脇目もふらず、犠牲を問題にせず突き進んでいける人間を、
僕は「悪人」と呼びたい。
そして僕は、そういう人間でありたい。
そういう人間でなければ、限りある「生」を意義付けるような大きな「仕事」を残して死んでゆくこ
とはできないんじゃないかと、僕は思っているのですね。
やっぱ解りにくいですかね?
じゃぁ、また具体論を。
歴史を見渡せば、僕が指す「悪人」は、日本にもたくさん居ました。
解りやすい例を挙げれば、たとえば織田信長がそれですね。
信長は、己の理想を貫くために、夥しい数の人間を殺しました。
伊勢長島では、一向宗の男女4万を焼き殺し、越中加賀でも数万単位で一向門徒を撫で斬りにしま
した。「天正伊賀の乱」では伊賀に住む人間を残らず殺し、家畜から犬猫までを皆殺しにしたと記録に
ありますし、延暦寺を焼いたときは僧俗4千の人間を虐殺したと言い、謀略やだまし討ちによって信長
に殺された人間の数も、数え上げることが不可能なほどに膨大です。
けれど、そんな信長が、僕は必ずしも嫌いではない。
己が作ったルールを天下のルールにし、室町体制の悪弊にがんじがらめに縛られていた日本を一新す
るという信長の理想と、その理想を達成するために手段を一切選ばず、わき目も振らずに邁進したその
精神性に、僕は一人の男として、むしろ強く惹かれるものさえ感じます。
人間50年――という時代ではすでにないけれど、今も昔も、人が死ぬまでしか生きられないという
真理は、少しも変わっていませんからね。
死ぬまでに、生きた証となるような「仕事」を、何か1つでもし遂げてみたいと願うならば、これ
は「悪人」になるしかないのではないかと、僕は思ったりしてるのですよ。
人間は、必ず死にます。
そして、人間は死ぬまでしか生きられません。
人間が死んだ後に残るのは、その人間が生前行った「仕事」のみであり、事績のみです。
「仕事」や事績は、場合によっては何百年も生き続ける。
その「仕事」や事績によってしか、死後の人間には価値がないのです。
僕には、何か1つでも良い、自分が納得できるだけの「作品」を遺して死んでいきたいって目標があ
ります。
「目的」としては小さいかもしれませんが、「目的」の客観的な大きさや価値は、僕が創り遺し
た「作品」の評価によって決まるとも言えますから、今はその大小を問題にしていません。
「目的」に向かって燃焼し、燃え尽きるように前のめりに死んでいきたい。
まったくの書生気分だと自分でも解っていますが、そういう想いが、僕の中で常に鬱々とたぎってい
ることも認めねばならない事実なんです。
だからこそ、僕は「悪人」でありたい。
それも、「狡猾な悪人」でありたい。
かの坂本竜馬は、
「大奸智たる、無欲人であれ」
という言葉を座右の銘にしたと何かで読んだ記憶があります。
人が考えつかないほどの悪知恵が働く、無欲な人間であれってくらいの意味ですね。
己の欲のために、その悪知恵を使うなってことでもあります。
無私無欲に、悪知恵を振り絞れってことでもあります。
そういう人間でなければ、大きな「仕事」はできないってことだと思います。
だからこそ――
僕は、「狡猾な悪人」でありたいと思います。
無欲な「悪人」でありたいと思います。
2006/1/17
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