口頭無形分化剤 その45


「心」を創ること



 今回は、すこし哲学的なところで遊んでみようかと考えています。
 頭が痛くなったりしないので、お気軽にお付き合いくださいませ(笑


 人間には、「心」がありますよね。
 僕にもあなたにも、自分の「心」がある。
 でも、それって、他の誰にも証明できないですよね? ってところから、話を始め ましょう。

 「心」は見えません。触れません。
 僕らの身体をメスで開いて隅から隅まで探し回っても、「心」というものが出てくる わけではありませよね。これは、あったりまえのことなんですけど、当たり前のことを、 もっともらしく語るのが、「学問」というものなわけです。
 道元禅師も、「らしくすることは大切なことだ」と言ってますしね(笑


 さて。
 では、ちょっと思考実験をしてみましょうね。

 まず、あなたは今、出会い系チャットのサイトを訪問しています。
 あなたが部屋に登録すると、すぐに「とし」と名乗る人が話しかけてきました。
 あなたは「とし」と楽しくお話して、そのチャットを終了しました。

 このとき、あなたは「とし」に「心」があったと思いますか? って話なんですよ。

 「そんなの当たり前じゃん」と思ったあなた、果たして本当にそうなんでしょう か?
 実はこの「とし」は、日常会話をこなすことを目的に作られた、コンピュータプロ グラムだったんです。あなたは何も気がつかず、そのコンピュータプログラムと、なんの支障もなく普通に会話を交わしてしまっていたんです。

 では、このとき、このコンピュータプログラムは「心」を持っているといえるので しょうか?


 みなさんの答えを、ぜひ聞いてみたいですねぇ(笑



 「心」ってのは、どーやって、どこに存在してるんでしょうねぇ。

 たとえば人間に「心」がある。これはいい。
 犬や猫やイルカにも「心」はある。これも、まぁ、いいでしょう。
 では、昆虫にも「心」はあるのか?
 植物には「心」はあるのか?
 微生物には「心」があるといえるのか?

 たとえば植物は、ある種の音楽によって成長が促されたり、 育てる人が声を掛け、手を掛けることで育ちが違ったりする事例が、生産者さんたち から報告されたりしています。こういうものを「心の働き」に含めるなら、昆虫だって微生物だって「心」を持ってるってことにしてもいいんですよ。
 「脳」を持たない植物が「心」を持ちえるなら、同じ理屈で単細胞生物だって「心」 を持てるってことになります。つまり生き物でさえあれば、「心」を持ってるって言え るわけです。

 ただね。
 僕はそういったものは「命」とか「魂」みたいな(名前はなんと付けてもいいのです が)「生物固有の特性」の存在を示す 事例ではありえても、「心」とは分けて考えなきゃいけないと思っているのですね。

 たとえば、今、あなたの腕を切り落としたとしましょうか。
 その切り落とされたあなたの腕には、あなたの「心」はあるでしょうか?
 「心」の出所を、生物特有の性質みたいなところにもっていくと、切り落とされた腕に は腕の「心」がなくちゃいけないわけですよ。単細胞生物にだって「心」があるわけで すから、人間の腕のような複雑な生物に「心」がないわけがない。切り落とされた腕 だって、細胞がすべて壊死するまでは「生きている=生物」ってことに違いないですか らね。

 僕はね。
 この「腕にも『心』がある」って状態が許容できないんですよ。「僕の心」は僕の中 にだけあれば良いし、切り離された僕の腕の中に「僕の心」があって欲しくない。そりゃ 確かに、切り離された僕の腕がしばらく「生きている」だろうことは認めますが、そんな ところに「僕の心」はなくてもいいわけです。

 「心」ってものの定義は、このあたりでするべきだと思うのですよ。

 「人間の心」というものが存在するということにとって必要な条件は、(十分に 発達した)脳があるってことです。
 足が切られても腕が切られても、腰から下が無くなってしまったとしても、「僕の心」 が失われることはありません。けれど頭を失ってしまえば、「僕の心」は確実に失われ ることでしょう。肉体を形作ってる細胞が「生きている(死んでない)」ってことが、 「『僕の心』がある」ということでは、おそらくないんです。

 僕の「心」が「僕の心」であるための条件は、そこに「僕の意識がある」ってことで す。「心」という言葉は、そういう「人間が意識する(内観する)もの」を表すために 生まれた言葉なんですね。
 だから、「心」という言葉を使うときは、自分自身が「心」と感じているそのもの のことを指して言うべきであって、植物や微生物に「心」があるという言い方をする べきではないんです。植物なんかにある(かもしれない)ものは、人間が持ってる ような「心」とは別のものであって、「別の名前で呼ばれるべきもの」なんです。


 さて。
 僕らの「心」にとって脳が重要であるってことは解ってもらえたと思うのですが、 では、この「脳」の代わりを、機械で置き換えた場合、どーなるのか・・・?


 脳ってのは、簡単にいうと神経細胞のかたまりなんですが、今、あなたの脳の神経細 胞を、たった1個、機械で置き換えたらどーなるでしょう?

 脳の神経細胞の1つ1つってのは、その働きだけを見れば、十分に機械で代用可能な んですね。神経パルス(信号)を、リンクしている別の神経細胞に伝えるってだけの 仕事をしてるわけですから、その仕事を機械で代用させることは難しくないんです。
 あなたの脳細胞のなかのたった1個を、今、機械に置き換えたとしましょうよ。
 そのとき、あなたから、「あなたの心」は失われますかね?

 たった1個の脳細胞で、僕らの「心」が消えちゃっちゃぁたまりませんよね。
 では、機械で10個置き換えてみたらどうでしょう?
 100個なら?
 10000個なら?
 あなたの脳細胞の半分を、機械で代用したら、あなたから「心」は消えるんでしょう か・・・?

 僕は実はね。
 半分機械に換えても、全部を機械に換えたとしても、脳の神経細胞の機能を1つ1つ きちっと果たしてさえいれば、「心」はなくならないのではないかと考えているのです よ。
 こういう論理で、「心」が発生するための条件は、「生体」である必要性を、必ず しも感じないんです。
 つまり、「心」は機械でも実現可能ではないのかと思っているんです。


 こういう言い方をするとね。
 すぐ、「じゃ、パソコンに人間の『心』を持たせることができるっての?」ってい うようなことを、飛躍して考えちゃう人がいるんですが、これは無理です。
 なぜならば、人間の「心」ってものは、「人間の身体」があってはじめて作られる ものだからです。
 猫に猫の「心」があるように、コウモリにコウモリの「心」があるように、「心」 には意識の主体たる身体が絶対条件として必要になります。もし100年後、200 年後にコンピュータが「心」を持つに至ったとしても、それは「コンピュータの心」 が生まれたのであって、「人間の心」が作られたわけではないんですね。


 僕はね。
 技術の進歩が無制限に歓迎されるべきだとは、実は思っていないのですよ。
 たとえば、コンピュータに「心」を生み出すだけの技術を人間が持ったとするじゃ ないですか。そのとき、その「心」を持ってしまった機械を、人間は勝手に電源を切 ったり、壊したり捨てたりしてもいいもんなんですかね?

 たとえば今、あなたの前に宇宙人が下りてきて、こう言ったとしましょうよ。

「お前は実は、俺たちが創ったロボットなんだ。見た目は人間となにも変わらないけ れど、お前の中身は、俺たちの技術の粋を集めて創られたものなんだ。
 実はな、最近、最新型のロボットが創られて、お前は廃棄されることが決まったんだ。
 お前は、創造主である俺たちの決定に逆らう権利を認められていない。
 悪いが消えてくれ」

 あなたにしてみれば、とても認められる話じゃないでしょう?
 とてつもなく理不尽じゃないですか。


 クローン人間なんかの話も同じなんですけどね。
 「心」とか「意識」とかを創ってしまうっていうような話は、倫理的な問題を封印 したままで無制限に突き進んでしまっていいものではないんですよね。
 「社会」が、そういうものを受け入れることができるだけの十分な成熟を遂げる前に 技術だけが一人歩きしてしまうと、本来必要のない悲劇を産み出す可能性を持っている わけです。もちろんコロンブスの卵みたいなもんで、そういう悲劇を意識的に巻き起 こすことで、社会的な成熟を一気に加速させることもできるわけですが、僕は、ごく 素朴に、そこまでして急いで創る必要はないじゃんって思っちゃうんですね。
 もちろんクローン技術は医療問題や食糧問題に劇的な変革をもたらす可能性があるも のですし、研究は進められるべきだし、技術も開発されるべきです。けれど、たとえば 実験として、あるいは部品として人間をクローンニングするなら、ごく初期の段階で 大脳を摘出してしまうとかして、少なくとも固体に「人間としての意識」を待たせな い処置を施すべきだと僕は思っています。

 「意識」や「心」といったものの創造は、本来「神の領域」に属すべきものです。
 人間がそれを現実問題として意図的に行おうとするならば、少なくとも人間を創った 神と同じだけの精神的な高みに、人類が登ってからにすべきなんじゃないのかなぁっ て、僕は思いますね。

H.14 12/21



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