口頭無形分化剤 その43
「豆腐」の噺
自慢じゃないですがね。
僕は、豆腐さえあれば酒が飲めますね(笑
つーか、豆腐ラブなんですよ、とにかく。
そんなわけで、今日は肩の力を抜いてもらって、豆腐の話をしま
しょう。
冷や奴に麻婆豆腐、湯豆腐は言うまでもなく、味噌田楽に豆腐ス
テーキ、忘れちゃいけない揚げダシ豆腐。
豆腐料理ってのは、ホントに枚挙にいとまがありませんね。
値段といい、調理の手軽さといい、食材としてのクセのなさといい、
これほど庶民に愛されている食材もないんじゃないかしらん?
僕は冷や奴なら毎食出されても平気ですし、冬なら毎晩湯豆腐でも
文句言いません(笑
ご存じの方がどれほどいるのか知りませんが、この豆腐ってのは、
実は日本で発明された食材じゃないんですね。
豆腐が日本で創られ始めたのは、奈良時代らしいです。
本家は、いうまでもなく中国ですね。
中国では、一説によると今から2000年ほど前に発明されたと言
われていますが、実はよく解っていません。
この豆腐の製法が、僧によって日本に輸入されるわけです。だか
ら豆腐料理ってのは、もともと精進料理から始まってるんですね。
精進料理は茶道の広がりと共に庶民へと普及していきましたから、
一般庶民が豆腐に親しむようになったのは、室町時代から、という
ことになります。
醒狂道人・何必醇(せいきょうどうじん・かひつじゅん)というふざ
けた名前(ペンネームでしょうが)のオッサンが大阪におりまして。
この人が江戸時代(1782年)に「豆腐百珍」という料理本を
出版しました。実に230種以上の豆腐料理のレシピを網羅したという
呆れた本なんですが、当時非常な人気を呼んだらしくて、今で言う
ベストセラーになりました。
調子に乗って、「豆腐百珍続編」、「豆腐百珍余禄」なんて本も
出版したらしいんですが、もうこれだけで、豆腐が庶民の生活にと
ってなくてはならない食材であったことがわかりますね。それだけの
豆腐料理が、当時から存在していたってことです。
余談ですが、この「豆腐百珍」の成功で味を占めたのか、その後
「甘藷(いも)百珍」などのいわゆる「百珍もの」が多数出版され、
江戸や大阪を中心に、空前のグルメブームが到来したそうです。
これは、「ブームはマスコミよって創られる」のもっとも古い例
じゃないでしょうかね?(笑
さて。
「豆腐を愛した人」で僕が浮かぶのは、大村益次郎です。
彼は幕末、長州藩が滅亡ギリギリの時に彗星のように世に現れて、
長州藩の軍事総裁として雲霞のごとき幕府軍をさんざんに破り、大
政奉還後は臨時政府の軍事を受け持って、江戸の彰義隊を魔術的
な手腕で壊滅させ、戊辰戦争の戦略指揮をほとんど1人で行った上、
明治新政府の軍事的基礎を築いた後、役目を終えた役者が舞台から
消えるように刺客に暗殺された人物です。
この大村益次郎−−旧名・村田蔵六が、大阪の緒方塾で語学勉
強をしていた青年のころから、その若すぎる晩年−−太政官の大官
であり、新政府の軍神的存在であり、天下に聞こえた存在である
にも関わらず、破れ書生のように貧相な暮らしをしていた−−まで、
毎晩豆腐を食いながら決まり事のように冷や酒を2合飲んでいたら
しいです。
彼は、彼の粗食をバカにする者に、こう答えたらしいですね。
「豆腐は日本のチーズであり、命を養うに足る」
幕末の日本にどれだけの栄養学的知識があったのか、僕は寡聞
にして良く知らないんですが、ほとんど無かったハズだと思います。
しかし、大豆が「畑の牛肉」と呼ばれるように、豆腐が非常に栄養
価が高い食材であるという彼の言葉に間違いはありません。
たんぱく質はいうまでもなく、カルシウム、脂質、カリウム、ナトリ
ウム、糖質、ビタミンB1、ビタミンB2、食物繊維・オリゴ糖など、ま
さに命を養うに十分な栄養素が含まれています。
ま、別に僕は栄養を考えて豆腐を食ってるわけじゃないですけど
ね(苦笑
豆腐には、木綿と絹ごしがあるのは、みなさんもよくご存知ですね。
この両者はどこが違うかといいますと、簡単に言うと、豆乳を固め
るときに圧力を掛けたものが木綿。圧力を掛けずに固めたものが
絹ごしです。絹ごしは絹の布で濾(こ)したように、滑らかで、き
めの細かい肌目をしているのでこう名付けられたらしいのですが、
別にホントに絹の布で濾してるわけではありません。
ま、どーでも良い話ですね(苦笑
そろそろ秋の気配が感じられる季節になってきました。
食欲の秋は、豆腐の秋ですね(笑
湯豆腐にはちと早いですが、豆腐を食うためだけに、京都とかに
旅行に行きたいなぁ〜、とか思う今日このごろです。
H.14 8/28
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