口頭無形分化剤 その42


「公人」の論理と倫理


 田中真紀子元外相が議員辞職をなさるという出来事がありました。
 時事ネタはすぐに風化するので、エッセイの枕で取り上げるのは ホントはイヤなんですが、こういうことでもない限り、なかなか政治 に関する話なんてする気になりませんからね。


 「政治」という言葉の意味は、為政者が民の為に行う「政」を 指すのが、まぁ一般的なわけですが、他にも例えば、「さまざまな集 団の間にある利害の調整や奪い合い」なんて意味合いもありますよ ね。
 今日のこの議論では、解りやすくするために前者をとくに「民政」 と呼び、後者を仮に「政略」と呼ぶことにしましょう。


 日本の歴史を見ますとね。
 ちょっとみなさんビックリするかもしれないんですが、戦国時代が 始まるまで、日本に「民政」はなかったんですよ。

 これがお隣の先進国である中国になると、卑弥呼の時代ですでに、 あちらの為政者には強烈な「民政」意識があります。王は民の為に あり、万民の幸福の為に「政」をする。建前ではありますが、曹操 も劉備も孫堅も、民を意識した政を行っていたことは論をまたないで しょう。
 ところが日本の為政者たちは、そうではない。
 ほとんど信じられないことですが、日本の為政者たち−−−大和 朝廷から始まって、奈良朝、政権が武家に移って鎌倉幕府、室町幕 府と、時の為政者たちは、ただひたすらに利権の争奪戦をして いただけなんですね。これは「民政」ではありません。言うまでも なく「政略」です。
 1500年近い間、時の権力者で百姓の暮らしの心配をした人な んて、皆無じゃないですかね。公家が政治をしていた頃は、公家と いう階級の人々は京の都の外に住んでいる人々を「同じ人間」だとは 思っていなかったでしょうし、室町将軍に爪の垢ほどの民政意識が あったとしたら、戦乱と飢饉で毎日何百人と餓死していく京の人々を 横目で見ながら、銀閣寺を造って喜んだりはしないでしょう。

 日本では、「民政」の部分は長い間、直接その土地土地を支配して いる中間の管理職たちが担当していていました。つまり為政者が派遣 した地頭に、荘園の実際の経営を任せきりにしていたわけです。
 これが、結果的に律令体制を崩壊させました。
 直接の地主である百姓たちと実際に結びついていた地頭が、全国的 な規模で荘園の主であった為政者階級から遊離し、自立し始めます。 京で豪奢に遊び暮らし、権力闘争に明け暮れていた為政者階級は、 経済的な基盤を根こそぎもっていかれたわけですから、これはもう枯れ ていかざるを得ません。
 こういう機運を背景にして、いわゆる戦国時代が始まるわけです。

 戦国の為政者階級というのは、その成立にはいろいろな背景を持って いて、規模の大きさや成立の過程から多くの呼び名があるわけですが、 煩瑣な議論をする気もないので、ここでは一緒くたに「戦国大名」と 呼ぶことにしましょう。
 戦国大名たちにとって、戦国の世においてもっとも必要なことは、 富国強兵でした。国を富ませ、兵を強くすることができなければ、 他の実力者に攻められ、滅ぼされ、取り込まれてしまいますから、 この戦国大名たちは今までのどの時代の為政者とも違って、必死です。
 国を挙げて農地を増やそうとし、収穫を安定させるために灌漑に気を 配り、外貨を得るために殖産興業に力を入れ、国に鉱物資源があればそ れを貪欲に掘り起こし、海に近ければ貿易を積極的に奨励し、とにもか くにも国を富まそうとするわけです。
 冷静に見れば、これは経済的に右肩上がりの状態なんですね。戦国時代が 殺伐とした戦続きの時代であったにも関わらず、なんとなく人々が明るく 開放的で活気に溢れていたのは、地方地方が、それまでのいかなる過去とも 比べられないほどすごい勢いで発展し、豊かになったということが理由の1つ としてあったんだと思います。

 さて、戦国大名が為政者として初めての民政家であったと述べ てきましたが、日本の面白いところは、その戦国大名でさえも、「地 主」ではないんですね。地主はあくまでも実際に土地に張り付いて いる武士や農民らの地主階級であり、戦国大名たちは「自分の土 地」をほとんど持っていないんです。戦国大名が全国で行っていた のは、いわば「やくざの縄張り争い」のようなもので、大名たちは 「自分の縄張りの税収権」と「縄張りから徴兵する権利」を持って はいるものの、大名自身の土地となるとほんのわずかしか存在しな いわけです。このあたりがヨーロッパの貴族階級とまったく違う、 日本の封建制の面白いところと言えるでしょうね。

 こういう状況は江戸期になると顕著になります。
 江戸期の大名は、ときに幕府から「国替え」を命ぜられたりしま す。これは幕府が、民と大名の強い結び付きを嫌って行った政策な んですが、そういうことが可能なほどに「地主」の側面が薄くなっ てるんですね。「鉢植え」と揶揄されたのはこのためなんですが、 もともと大名が持っているのは「縄張りの徴税権」であるわけです から、どこの土地に移ろうとそれほど大きな問題にはならないわけ です。
 余談ですが、このため江戸末期になると、地生えの大名といえ ば毛利氏、島津氏、伊達氏など、ほんの一握りしか存在しなくなり ます。維新の原動力となった長州藩毛利家は、300年以上かかっ て醸造した君臣の親しみと愛国精神によって身分を越えた挙国一致 体制を創り得たわけで、そういう長い目で歴史を眺めて見るのも面 白かったりしますね。


 さて、ここからが今日の本題です。

 江戸時代というのは、世界史的に見ても稀な250年にも渡る太 平楽の時代でした。「島原の乱」を最後に合戦が絶え、戦闘者−− 軍人であった武士は仕事がなくなります。しかし仕事がなくなった といって解雇できるようなものでもありませんから、大名たちはそ れらを総て一種の「役人」にしました。結果、5人で済む仕事を 20人で回り持ちでこなす様な不合理さはあるものの、武士たち は「公人」−−すなわち「国のために働く人」という側面を得たわ けです。
 このことが武士階級にとって、「自分たち(武士)は庶民(他 の階級)とは違う」という誇りになり、「(広い意味での)国の政 治に参加している」という意識にも繋がりました(もっとも、こうい う意識が、庶民を差別する侍を作ったこともいなめませんが)。

 江戸期は日本始まって以来の教養時代でもありました。
 まぁ、人々の生活にそれだけゆとりができたということでもあるわ けですが、武士はいうまでもなく富裕な庶民階級にも読書の習慣が 根付きました。
 幕府は政策として、武士階級に儒教道徳を身に付けることを奨励 しました。これは戦国の気質ともいうべき「武士の荒々しさ」を封 じるという厭武政策からきているのですが、武士が官僚に変質して いく時代においては、なかなかに的を得た政策であったと言えます。
 と、いうのも、儒教というのは、極言すれば「どうすればみんなが 幸せに暮らせるか」を考える学問なんですね。親を敬い、子を慈しみ、 上司を尊敬し、部下を労い、同僚との和を重んじるというところから始 まって、果ては国を治め、民を安んずるという治世の道徳論です。
 こういう教育を、江戸期の武士は子供のころから叩き込まれるん ですね。
 安定社会において、つまり平和な時代にあっては、この教育手法 は非常に有効に機能しました。

 一例を示しましょう。
 幕末の少し前の話です。
 山口県の片田舎に、吉田寅次郎という少年がいました。
 後に「松陰」と号する人物なのですが、彼は長州藩毛利家の 藩学である「山鹿流兵学」の師範をつとめる家(親戚)に養子に いきました。ところがまだ幼くして養父が没したため、わずか5歳 で吉田家の当主となります。
 武士は「公人」と先にも言いましたが、寅次郎はわずか5歳で 「公人」として教育をされることになります。というのも、吉田家は 藩の兵学の師範の家であり、寅次郎の養父が死んで幼い寅次郎だ けになれば、藩の「山鹿流兵学」が絶える心配があるわけです。 藩は吉田家の親戚連中に「藩命」として寅次郎の教育を命じました。 この瞬間から、寅次郎に学問教育をすることが「公務」になったわ けです。
 幼い寅次郎は、その意味で、子供とは扱って貰えません。
 彼の師は、寅次郎に、

「お前はただの幼童ではない。毛利家36万9千石の山鹿流兵学 師範である。お前が一日勉学を怠れば、国家の武は一日遅れるこ とになるのだ」

 と繰り返し言い続け、まだほんの子供に過ぎない寅次郎に、強烈 な「公人」としての自覚を刷り込みます。
 たとえば少年が勉学の途中で頬を掻くと、師は彼を張り倒し、強烈 な折檻を加えました。

「貴様の勉学は『公』。痒みは『私』ではないか。掻くことは 『私』の満足に過ぎず、『公』にあるときに『私』の満足を許せ ば、長じて人の世に出たときに私利私欲をはかる人間になる。だか ら貴様を殴るのだ」

 この師の論理は、強烈な「公」という意識によって裏打ちされて います。江戸期も200年を過ぎると、武士とは「『公』に尽くすも の」という非常に抽象的なレベルにまで思考の形態が高まっている んですね。
 「公人」として、私心を捨てた「武士」という人格を創るには、 幼い頃からそういう教育を施す以外になく、つまり極端にまで私情を 排した「公人格」を、体罰的な恐怖と本人の重い自覚とから創ってく ほかない、ということを、彼は言いたかったのでしょう。

「武士は産まれるものではない。創るものだ」

 と、彼は口癖のように言っていたそうです。
 寅次郎の師は、確かにこの当時からみても行き過ぎのきらいがあ るのですが、いずれにせよ多かれ少なかれ、当時の武士が自認して いた「武士」というものの側面を窺うことができます。

 事実、江戸期の官僚というのは、非常に私心がなく、不正も少な かったようです。
 僕たちがテレビドラマの時代劇などで見る江戸時代というのは、 悪代官を始めとする不正官僚がはびこっているような印象がないで もないのですが、実際の武士官僚というのは、例えば天領(徳川家 の領土)の代官などは、人間的にも非常に温厚な能吏、良吏が多 かったらしく、伝統的な賄賂やまいないはあったにせよ、法を犯し てまで私服を肥やすタイプの人間はほとんどいなかったようだと、モノ の本で読んだことがあります(江戸時代の法というのはまったく粗雑 で、人々はそれを巧みに運用することで実際の行政を行っていまし た。「たてまえ」と「本音」の存在が行政上の通念になっていて、 賄賂やまいないといった不正が、不正でないとも言える社会だった のですね)。
 不正が明るみに出たときの罰則が、現在よりも格段に厳しいとい うことがあったにせよ、当時の官僚、公務員たちが、公金を横領し たり、過度の私利私欲に走るといったことが非常に少なかったのは どうやら事実で、そのことは認めて良いように思います。


 さて。
 先述の寅次郎の師匠の話ですけどね。
 彼は名を玉木文之進といいまして。
 いろいろと逸話の多い人物なんですが、この人は、松陰の師匠を した後、認められて藩の役人になり、民政家としての腕を買われて 数郡を宰領する地方官になり、さらに抜擢されて藩の重役になった りします。
 地方官に就いたころ、この玉木先生は、それまで放り出されてい た貧民の実状調査に乗り出します。台帳を作ると、直接の行政官で ある庄屋連中を引き連れ、彼自身が1軒1軒貧農の家を回り、土間に 上がり、家族に直に対面し、主人からその窮状を聞き、ときにはその あまりの貧しさに呆然とし、その不幸な話に涙を流したといいます。
 庄屋たちはこの代官の異例としか言い様のない振る舞いに呆れま したが、次第に彼に信服し、これまで貧民をほったらかしにしていた 自分たちの怠慢を詫びたという話です。
 それでも、かつて苛烈な暴力教師であったこの玉木先生は、庄屋 たちを叱るようなことはいっさいしませんでした。彼は役人になるや、 別人かと思うほど優しくなった人物で、下僚を叱ったり攻撃したこと がないということで有名でした。
 江戸封建時代の役人というのは、賄賂や饗応がつきもので、それ がまた大目に見られる風潮がありまして、特に直接市民に触れ合う 下部の汚職は甚だしいものがあるのですが、それに関しても玉木先 生はいっさい手荒な処置はせず、しかし自らは潔癖・清廉であるこ とを守り続け、部下たちが自分たちの「貪婪」の薄汚さを自然に 悟るように仕向けたと、松陰自身が、その「吉日録」に書き留め ています。

「百術不如一清(百術一清にしかず)」

 「行政上の百のテクニックなど、行政者の一清に及ばない」と いう言葉を彫り込んだ印を使っていたという玉木先生は、これを自 らの座右の銘にしていたらしいですね。
 松陰は、この玉木文之進が、師弟を育てるについては苛烈なば かりの教育者であったのに、ひとたび民政家として民にのぞむや 別人のように優しくなったことについて、自分の師の見事さとして 生涯の誇りにしました。

 余談ですが、この玉木先生は、後にあの乃木希典(のぎ・まれ すけ)を預かり、例の苛烈な教育を施したそうです。


 僕は思うんですがね。
 官僚や公務員に必要な資質というのは、実はこの玉木先生が 言い尽くしているような気がしてるんですよ。
 確かに江戸時代の日本は近代法治国家ではありませんし、その 意味で法治国家でない国に生きていた玉木先生の行動すべてが今 日の日本でそのまま通用するとは僕も思っていませんが、彼が実践 した「公人」の心意気には見るべきものがあるように思います。
 もちろん頭が切れ、教養があり、弁舌に優れ、能力が高い方が 良い官僚であることには違いないのでしょうが、僕から見ればそれ は「公人」の必要条件ではない。そうあるに越したことはないって だけのことです。

 公人にとってなによりも必要なのは、自分が「公僕」−−公けの 僕(しもべ)であるという自覚です。
 人様の税金で生かされ(もちろん本人も「私人」としては税金 を納めているわけですが)、人様のために仕事をするということに 対する強烈な自覚と自負がなければ、どれだけ能力があろうとも、 それは俗吏に過ぎないでしょう。
 私心を捨て、私欲を去り、公共の福利のために挺身し、他人に優 しく、自らに厳しく、「公」のために尽くせる人格を持った人間だけ が、「公人」たるべき資格をもっていると思うわけです。

 たとえば政治家にせよ、公務員(公人)という意味では同じです。
 どれだけ私心を排し、国のため、人のために働けるかが問題なの であって、僕たちが欲しているのは、くだらない政略に没頭している 利権屋や、俗に堕ちきった族議員ではないですよね。

 100年先の僕たちのために仕事をし、(良い意味で)歴史に名を 残すほどの政治家が、はたして今、日本にいますかねぇ?
 もっとも、そんな連中を選んでいるのも、僕たちなんでしょうけどね。


 たくさんのことを望んでも詮無いし、無駄だと知ってもいますが、 「公僕」であることがイヤな人は、「公人」にならないで欲しいで すよねぇ。

H.14 8/26



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