口頭無形分化剤 その40


戦国こぼれ噺 −安国寺恵瓊−


 人間の歴史を眺めるときに、宗教ってのは、避けては通れない モンだと思うんですね。
 今回は、大変難しい問題ですが、戦国と日本人と宗教について 考えてみたいと思います。


 日本人は今でこそ無宗教だとか宗教的に無節操だとか言われま すが、べつだん昔からそうだったわけでもないんですね。

 たとえば神道しかなかったころから2000年近く、日本人は天皇 を古くは神として、また日本人の血の宗家として敬い続け、この 神聖権だけは歴代の支配者、主権者も決して侵すことはせず、その 血統を真摯に守り続けてきました。
 たとえば仏教が渡来して1000年経った戦国時代には、僧の説 く来世と仏の縁を信じ、自らの信心に殉じて死んだ人が文字通り何 十万人といました。
 たとえばキリスト教が弾圧された江戸初期、島原では3万7千もの 人々が幕府の政策に反乱を起こし、不幸にも皆殺しという徹底した 粛正にあいましたが、それでもなお日本にキリスト教が滅びるという ことはありませんでした。

 僕たちの民族は、十字軍の遠征を行った人たちと比べてもなん ら恥じることのない、強烈な宗教的誠実さを確かに持ち合わせてい ました。
 そう考えると、産まれたときは宮に参り、育てば七五三をし、クリ スマスにはケーキを食べ、正月には初詣を欠かさず、盆には墓に線 香を立て、結婚式は教会で誓い、死ねば戒名を授けられるこの国民 性というのは、確かに一神教を奉じる人々には理解できないでしょう し、昔の日本人からも考えられないものだと言えますね。
 これはまったくの私見ですがね。
 こういう生き方が、宗教的にほぼ無理なく行える日本人というのは、 他国人、ことに一神教を奉じる民族に比べて、形而上の思考がとり わけ柔軟にできるようになっているのではないですかね。
 これにはね。
 歴史的、言語的、思想的な背景があると思うんですよ。


 たとえば歴史的側面の表面をなでるとね。

 日本にはもともと神道という民俗宗教がありました。
 八百万の神々ですね。
 天皇という「日本の神の宗家」的な存在が実在していて、古く はそれが実際の政治を執ってもいました。そのころの人と神の間は 決して遠いものではなくて、人々は死ねば神になるものだと素朴に 思っていたし、天災なども神(霊)の怒りが元で引き起こされると 信じていました。
 アニミズム寄りのシャーマニズムの国だったわけですね。
 これは民俗宗教ですから、日本という地域、共同体に住む人々に は、無条件でこれに服する義務がありました。・・・というか、正確 に言えば、神道で説かれる世界観しか、人々には与えられなかった わけです。これは、信じる信じない以前の問題ですね。それしか世 界観がないんだから(笑

 やがて仏教が渡来します(538年)。
 これは世界の中心である(と日本人が思っていた)先進国の中国 からやって来た、日本史上初の世界宗教でした。
 日本人にとって決定的だったことは、この(大乗)仏教が非常に 優しい教義をもっていたということでしょうね。仏教は国家や民族に 関係なく世界に広がっていった宗教ですが、この宗教は、侵攻する 国の地生えの宗教を飲み込んで、それを取り入れ、仏教に組み込む、 という姿勢をとってきていたわけです。
 そう、仏教は他宗を排撃しないんですね。
 この姿勢は、もともと八百万の神を信じていた日本人にすればひど く親しみやすかったハズです。宗教家以外の庶民にとっては、神も仏 も「聖なるモノ」、「尊いモノ」、「有り難いモノ」として一緒くた になり、神道の神々は部分的に仏教に組み入れられ、1500年かか って日本独自の仏教として発展しました。

 ここが1つ、ポイントだと思うんですよ。

 我々日本人には、「神」の部類に入る存在を、総じて「有り難い モノ」、「尊いモノ」と感じて、敬い、親しみ、ときに怖れるという 民族的習慣がある。
 つまり日本人にとって、「キリスト教の主」も「エホバ」も「ヤ ハウェ」も「えびす様」も「天照大神」も、「尊いモノ」としては 「同類」なんですね。
 この考え方、感じ方は、一神教−−つまり「唯一絶対の神」のみ を信じ、その世界を「当たり前」と思い、それ以外の世界観を許容 しない宗教を信じる人々にとっては、まったく驚異のはずです。
 そりゃぁそうでしょう。
 「唯一の神」が八百万もいたんでは、何を信じて良いのやら解ら なくなります(苦笑


 言語的側面というのは、「日本語」が、「目に見えないモノ」を 語ることに非常に適した言語である(らしい)ということです。
 日本語は、曖昧な表現や模糊とした言い回しがいくらでも可能 で、それを聞き手が察してくれることを前提に成り立っているような ところがありますよね。「あれ」とか「それ」といった意味の無 い言葉に、非常にたくさんの意味を込めるような作業が、ごく日常 的に行われている。僕は海外の言葉には暗いのですが、アルファ ベット圏の国では、こういうことは割合多くないらしいのです。
 ま、この点は勉強不足ですので、確言は避けますがね。

 思想的側面のほうも、ちょっと語っているスペースがありません。 日本の思想史を概括するだけの知識も、残念ながら僕は持ち合わ せませんしね(苦笑


 さて。
 戦国期の宗教団体ってのがどうなっていたのか、というのは非常に 興味深い話でしてね。今の宗教団体を想像すると、これはまったくと んちんかんなことになってしまいます。

 戦国期以前の宗教団体というのは、これは1種の「国」と言って 良い存在なんですね。寺院ごとに「領地」を持ち、領地の「支配権」 と「統治権」と「裁判権」を持っていて、寺社領に住む人々はそれ ぞれの寺社に税を納めていましたし、寺社は自ら僧兵や神人といった 自衛組織を抱えてもいました。由緒ある寺院は「守護不入」といっ て他の権力の介入を許さない「独立権」まで持っていて、たとえば 寺社領に罪人が逃げ込んでも守護や地頭は勝手に警察権を行使する ことはできませんでした。
 さらに。
 奈良や京の有力な寺社は、「座」という商業許可特権までも持 っていたんですね。
 当時の商業というのは厳格な許可制で、あらゆる商品が「座」と いう一種の組合によって商業的に管理されていて、価格の設定はも とより販売の権利そのものが法的に非常に厳しく取り締まられて いました。つまり、勝手に商売なんてできなかったんですね。無断 でやれば、商業許可権を持っている寺社から神人や僧兵といった荒 くれ男たちが大挙してやってきて、家屋敷を打ち壊し、家財一式奪わ れる、な〜んていう「法的措置」がとられちゃいます。
 有力寺社は、既得権としてこの商業許可権を握っていました。わ かりやすく言うと、寺社は商人に「1年間の商業行為の権利」 を売っていたんですね。つまり、「座」の元締めになっている寺社は、 放っておいても毎年商人たちから売り上げの数パーセントという馬鹿 馬鹿しいほどの現金収入があったんです。
 たとえば奈良の「興福寺大乗院」などは、1つの寺院で、塩、漆、 こうじ、簾、菰など15品目に及ぶ商業許可権を持っていて、下手な 大名よりも遙かに潤沢な資金源を押さえていました。
 まさに「坊主丸儲け」です(苦笑

 ところが時代が「乱世」になります。
 地方の寺社領はことごとく勃興する武家勢力によって奪い取られ まして、有力寺社以外の宗教寺院は根こそぎその力を失ってしまい ました。地方寺社は、大名などの有力な旦那の庇護によって辛うじ て寺院を維持する、といった状況を迎えます。
 ところが有力寺社は、経済力をバックにした独自の武装集団と信 者を基盤にした人脈とを持っていますから、その資金と人材で自衛 力を強化し、軍事勢力化していきます。
 たとえば加賀では一向宗を基盤にした一揆勢力が守護の富樫氏を 滅ぼしまして、加賀一国がまるまる「共和国」化してますし、有力 寺院の典型である比叡山延暦寺なんていうのになると、1山で数千 人の僧兵を抱えてまして、歴代の天皇も近隣の大名も、この軍事勢 力にはずいぶん泣かされてきました。

 で、時代は織田信長という革命の申し子を現出させます。
 信長はこのような中世的な権威を徹底的に否定しました。
 「座」を廃止して「楽市楽座」を敷き、宗教勢力で武力を持つ存 在を許さず、これを根こそぎ殺し尽くしました。
 信長は比叡山を5千人の僧と共に焼き、一向宗を禁じ、戦って もなんの益もない本願寺と10年に渡って徹底抗戦し、これを屈服さ せました。
 信長の勢力が広がるにつれ、これら中世権威の破壊という現象は 全国的に広がっていきまして、秀吉が天下を統一するころには既存 の宗教勢力は武装することを止め、宗教本来の役割である人の救い と癒やし、そして学問分野に特化して存続していくことになります。


 さてさて。
 ようやく本題に入れますね(苦笑

 今回は安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)という人の話なんです が、この人、日本史上ただ1人、僧侶のまま大名になっちゃった男 なんですね。
 当時の知識人、常識人ってのは例外なく仏教が大好きですから、 上杉謙信だって入道して髪剃ってますし、武田信玄なんて名誉大僧 正(?)みたいな地位に就いてみたりもしてますが、それでも歴とし た高僧から大名に転身したという例は、この恵瓊をおいていないで しょう。
 僧侶というのは俗界とは切れた存在のはずで、だからこ その「聖」なのですが、僧体のままで「俗」の極みとも言える功名 餓鬼−−武士の親玉になってしまったこの恵瓊という人は、少なくと も1度、日本の歴史が流れていく方向を決めた男なんです。

 恵瓊はもともと安芸国(広島県)の守護である武田氏の一族だっ たんですが、恵瓊がまだ子供の頃、この安芸武田氏が毛利元就の 軍勢によって滅ぼされまして、恵瓊は安芸安国寺の僧となることで 一命を取り留めました。
 頭脳がとびきり明敏だった恵瓊は、めきめき僧として頭角を現し まして、やがて京の五山、東福寺の僧へと出世(?)します。その うち西国一の大大名になった毛利家の方がこの男に目を付けまして、 恵瓊は「外交僧」として、自分の一族を滅ぼした毛利家と関わって いくのですね。
 ここは、すこし解説があっても良いですね。
 僧というのは建前としては俗世の因果と切れた存在ですし、学が あり、文章力もあり、弁舌も爽やかですから、大名間の交渉事など にとりわけ重宝がられたんですね。出世した恵瓊は安芸安国寺の住 職と京都の東福寺の高僧を兼ねていましたから、上方情勢を仕入れ る必要があった毛利家としては打ってつけの人材だったわけです。

 恵瓊は毛利家の外交僧として、当時勃興中だった織田家に対する 外交顧問のような存在になります。
 そのとき織田側が対毛利外交のために選んだのが、当時まだ 「木下藤吉朗」だった秀吉なんですね。
 恵瓊は秀吉と初めて逢った元亀2年(1571年)に、毛利家に宛 てて送った報告書の末尾で、こんな言葉を残しています。

「信長の代、五年三年は持たるべく候。明年あたりは公家などに 成らるべく候かと見及び申し候。さ候てのち、高ころびにあをのけ にころばれ候ずると見え申し候。藤吉朗、さりとてはの者にて候」

 思い切って意訳しますと

「信長が盛んな時代は3年や5年は続くでしょう。来年あたりには 朝廷から位階を貰って公家になるかもしれません。けれど、そうこう した後、不測の事態で大きく転んでしまうように見受けました。ただ、 藤吉朗という者は、なかなか侮れない人物です」

 という感じでしょうか。
 この予言は、すべて的中しています。
 次の年、信長は朝廷から位階を貰って昇殿を許される身分 (公家)になり、このときからさらに10年後、部下の明智光秀によ って本能寺で殺されてしまいます。
 そしてその後を受けて天下を取ったのが、「藤吉朗」こと豊臣秀 吉です。

 実際、恵瓊ほどの時代観察者は、この時代のどこを探してもちょ っといなかったでしょう。
 元亀初頭の織田家というのは、京都に旗を立て、足利将軍義昭 を追放したころでして、ようやく信長が安定期に入ったあたりです。
 状況はたしかに四面楚歌ではあるんですが、畿内の平定を終え、 最大の脅威だった武田信玄が死に、手を焼いていた朝倉・浅井を 相次いで滅ぼしています。最初は「信長などすぐにも滅ぶ」と見 ていた人々も、信長の強運とその働き者ぶりに驚き、「あるいは天 下を取るかもしれぬ」と認識を新たにし始めたころでしょう。
 当時の信長の当面の敵と言えば、信長を「仏敵」と呼び、全国の 門徒に働きかけて信長と全面対決の姿勢を見せている大阪の本願寺 勢力と、越後の軍神・上杉謙信くらいのものですね。
 恵瓊は、その信長の状況を分析した上で、「この男は保つ」と 大局的にまず断を下し、さらにその後のアクシデンタルな破局までも 予言し、呆れたことに、何人もいた織田家の武将の中から当時まだ 中級将校に過ぎなかった秀吉の名を挙げることまでしてのけています。 未来を見通す能力というのが「神」の部類に入る技能であるとした ら、この頃の恵瓊の時勢観察眼というのは文字通り神懸かっていた としか言いようがありません。
 この手紙を書いたとき、恵瓊はまだ36歳でした。

 やがて、織田家は恵瓊の予言通り近隣諸国を次々と降し、毛利領 へと矛先を向けます。
 その中国平定事業の司令官が、羽柴と名を変えた秀吉でした。
 恵瓊は織田と毛利の外交交渉に尽力します。
 そして−−

 天正10年6月2日未明。
 信長が本能寺において、非業に倒れます。
 そのとき秀吉は、備中の高松城を囲んで毛利の大軍と対峙してい ました。有名な、「高松城の水攻め」ですね。
 凶報を知った秀吉は、すぐさま毛利と講和を結び、「中国大返し」 と呼ばれた大移動を敢行します。
 信長横死の報は当然ながら毛利方にもすぐさま届き、毛利家では 「秀吉を追撃すべし」という議論が沸き返ります。このとき毛利家を 思いとどまらせたのが、元就の三男である小早川隆景と恵瓊でした。
 実際このとき、恵瓊が対織田外交の顧問として強硬に秀吉追撃を 主張していれば、秀吉は光秀と決戦することもままならず、遠からず 滅びていたでしょう。
 恵瓊は、秀吉が織田家の相続争いに勝ち、天下を取ることを見越 した上で、これに恩を売ることで「先物買い」をしたわけです。この ときの選択で、毛利家は中国7カ国の大勢力を保持したまま豊臣政権 最大の大名の1つとして存続します。
 秀吉にとって、恵瓊は恩人の1人になりました。

 才能好きの秀吉は恵瓊の外交手腕を愛し、四国征伐を機に、恵瓊 を自分の大名に取り立てます。恵瓊は毛利家に籍を半分置いたまま、 秀吉政権の下、伊予で2万3千石の大名になりました。
 こうして、日本初の僧侶大名が誕生します。
 恵瓊はこの後、僧侶としては「南禅寺」の住持として5山の頂点− −禅僧の最高位を極め、大名としては6万石の城持ちまで出生します。

 やがて、秀吉が死にます。
 天下取りの野心を露わにし始めた徳川家康に、豊臣家の執政官 だった石田三成が兵を挙げようとします。
 ところが。
 三成方である西軍は旗頭といえる男がなく、なんとも頼りない状 況だったのですね。三成本人はわずか20万石ほどの領地しかなく、 しかも横柄な性格であったため哀しいくらい諸将に人気がない。け れど相手は、関東に250万石の大勢力を持つ、あの家康です。
 これに対抗するには、大毛利家の当主であり豊臣家の大老だった 毛利輝元を、西軍に引き込むしかない。
 このときも、恵瓊は重要な役割を演じます。
 毛利家は、数十年に渡って時勢を観察し続けてきた恵瓊の言葉に は信を置いていたのですね。恵瓊は、毛利が味方すれば必ず西軍が 勝つと説き、ついに毛利輝元を西軍に参加させることに成功しました。
 このとき、恵瓊はすでに63歳でした。

 恵瓊はね。
 秀吉が創った豊臣政権に、ある種の愛着があったハズなんですよ。
 「自分が秀吉に天下を取らせた」とまでは思わなくとも、自分の 選択が豊臣政権を創る重要な鍵であったという思いはあったハズで ね。
 だから恵瓊は、時勢にどこまでも敏感な目を持ちながら、家康に 決して馴染もうとはしなかった。彼はためらい無く西軍の中枢に入り、 三成と結び、家康と戦う選択をしたんです。
 それに、目も曇ってはいない。
 「毛利家が荷担する方が勝つ」という恵瓊の読みは、ある意味で 当たっています。実際「関ヶ原」で毛利家の軍勢が動けば、家康は 負けていたでしょうし、そこで家康本人を殺すことができなかったとし ても、関東に割拠した徳川家を全国の大名で潰すのは、そんなに難 しいことじゃない。
 恵瓊はまた、自分が歴史を創るのだと思ったでしょう。

 ただ、「関ヶ原」。

 毛利全軍の采配を握る吉川広家という男がいるんですが、この男 が恵瓊とは徹底的に馬が合わない人物だったんですね。
 彼は毛利家の西軍荷担に最後まで反対し、信じられないことに、 毛利当主の輝元に内緒で、勝手に家康に内通してしまったんです。
 毛利軍の指揮を執る広家は毛利軍を南宮山という高い山の上に 登らせ、「関ヶ原」が始まっても、一兵たりとも兵を戦闘に参加さ せませんでした。
 吉川広家が指揮を任されていたのは西軍最大の毛利軍2万。その 毛利軍が動かないため、その前面に配置された長曾我部軍6千を筆 頭に、長束正家や恵瓊が率いる総勢1万の軍勢も結局戦闘に参加で きませんでした。
 恵瓊の「関ヶ原」は、呆気なく終わってしまいます。

 「関ヶ原」における直接的な西軍の敗因は、ご存じの通り小早川 秀秋の裏切りによるものなんですが、南宮山の3万が家康の背後を 突けていれば戦況はその瞬間に決まっていたわけで、日和見して いた小早川秀秋が裏切ることもなかったでしょうし、西軍の快勝に 終わっていたことはまず間違いないです。
 けれど毛利軍は動かず、「関ヶ原」は東軍の大勝利に終わり、 恵瓊は捕らえられ、三成らと共に「関ヶ原」の首謀者として首を打た れます。
 享年63歳。


 恵瓊という男には、頭が良すぎた印象がありますね。
 仏教僧、とりわけ禅僧ってのは、目指すところは「無」。なにも ない境地を目指すわけですが、恵瓊はエネルギーがありすぎ、頭が 良すぎ、モノが見えすぎた。彼が、僧として世の権勢に無頓着な姿 勢を貫いていれば、日本史はよほど変わった姿になっていたでしょう。
 彼は、秀吉と家康という、2人の天下取りのために天が配した道化 であったようにも思えます。歴史には、こういう役割を果たす人間が 必ずいるもんなんですよね。

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