口頭無形分化剤 その4


「サムライ」について


 少し前から、サムライというものについて考えています。
 残念ながら、まだ辿りついてはいませんが・・・。
 今日は、言葉にしながら、脳内のデフラグ作業を少し。

 お得意の、司馬遼太郎さんの言葉を借りると、

 「武士という人間像は、日本人がうみだした、 多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の 芸術品とまでいえる」

 という存在が、サムライになるわけです。
 この場合、「サムライ」とわざわざカタカナを使ってるのは、こ の言葉が、過去生きていた「侍」、「武士」を指すモノではなくて、 それらの人々がもっていたであろう「精神」、「魂」といった普遍 のモノをとくに指すことを意図しているからですね。
 司馬さんの言う、この「奇形」ってのが問題でして・・・


 サムライを定義するのは難しいけど、ポイントとなるキーワードは いくつかあって、「信念」、「潔さ」、「美意識」ってのがそれを ひも解く鍵に当たるのではないかと僕は考えています。

 サムライをサムライたらしめている要素は、まず「美意識」です。

 己の「生と死」に対する執拗なまでの「美意識」。
 「生」を美的に完成させるために、完結としての「死」に対する こだわりと憧れ。
 この徹底したストイックさ。
 西洋のことは知りませんが、「禅」を持つ日本人だからこそ辿り つけた境地ではないかしら(「禅」の本家の中国ではこういう「奇 形」は生まれていないと思うけど・・・)。
 このあたりが、「奇形」とも絡んでくるのでしょう。

 「美」に対するこだわりは、「潔さ」へのこだわりに転化します。

 「潔い」から「美しい」わけですね。
 進退の「潔さ」。
 「生死」に対する「潔さ」

 「生」と「死」を同列に見るようなこの思想は、やはり「禅」から きているのでしょうか。

 「禅」を語ることは、あるいはサムライを語るよりも難しいでしょう。
 なぜなら、釈迦の教えのうち、「言葉に出来ない部分」こそが 「禅」なのですから。
 ただ言えるのは、「禅」は「宗教」ではありません。
 だから、仏教の一つくらいに思っていると、足下をすくわれます。
 「禅」はいわば「生き様」の修行であり、「到達のための手段」 とでも解すべきでしょうか・・・。
 「禅」についての考察は、別の機会にゆずります。

 さて、「信念」ですが、
 「信念」は、「サムライが譲ることが出来ない一点」と定義する ことにしましょう。
 刀を賭けて−−つまり命を賭けても「譲れない一点」。この信念 を貫くことが出来るか、出来ないか。
 それを貫くからこそサムライなのでしょう。
 そしてそのために、それ以外のものを(結果として)無情に切り 捨てるコトが出来るからこそ、「潔い」のでしょう。

 ここらへんが司馬さんの言うサムライの「奇形」であって、「純 粋さ」であるのだと思います。


 サムライへの憧れは、いつの頃からでしょうか。

 「生」と「死」。
 特に「死」というものについては、幼い頃からけっこう素朴に考 えることがあって、「何のために生まれて来たのか」とか、「何を して生きてゆくべきか」ということとともに、「どうやって死ぬか」と いうことも、結構大きな問題としてひっかかってた時期があったので す。
 ただ、サムライというモノを考えるようになって、「どうやって死ぬ か」は、あるいは考えるべきでないのかな、とも思うようになりまし て・・・。
 「どうやって死ぬか」に引っかかると、「自由な生き死に」−− 「自由な進退」にとってマイナスになってくるのですね。

 「自由な進退」を封じると、すべてにおいて「潔さ」に欠けてし まいます。
 「潔さ」を失った時点で、その魂はサムライたるに値しま せん。
 これはつまり、サムライたろうとする魂にとって、おそらく常に 「犬死にする覚悟」が必須になってくるということでしょう。

 少し整理されてきましたね。

 「信念」を持つことは誰にも出来ますから、サムライであること にとって必要条件ではありません。
 「美意識」が「潔さ」の原点であり、より根元の概念であるとす れば、「美意識」を持つために必要であるモノも、「犬死にする覚 悟」に還元されるのでしょうか・・・。


 これは・・・「武士道とは、死ぬことと見つけたり」ですね。


 ちょっと不満ですが、今日はここまでです。
 この「サムライ」については、まだまだ考察が必要ですね。
 ただ確実なのは、サムライの「完成」には、「死」が必要である、と いうコトでしょうか。

H.13 6/11



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