口頭無形分化剤 その39


戦国こぼれ噺 −尼子経久−


 シリーズを始めてみようかと思います。
 タイトルはズバリ「戦国こぼれ噺」。
 毎回ある武将を軸にして、戦国時代というモノを考えてみようかと 思っています。
 初回である今回は、山陰の巨星・尼子経久(あまご・つねひさ)です。
 戦国時代をひらいた、と言われる人ですね。


 初回ってこともあって、まず、戦国という時代に入っていく流れを 確認してみたいのですが・・・。

 まずは1185年。  源頼朝が、日本初の武家政権を確立します。
 言わずと知れた鎌倉幕府ですね。
 力を付けた関東の在地領主がそれまでの公家貴族社会と決別し、 源氏の棟梁たる頼朝を押し立てて革命を起こしたというのがことの起 こりで、この時から武士の時代が始まります。

 で、その100年後。
 後醍醐という困った男が天皇家に誕生します。
 この人は、武家に支配されてる現状に我慢がならなくなって、天皇 による日本親政の昔に返そうと権謀術数の限りを尽くして武家同士 を同士討ちさせ、鎌倉幕府を滅ぼしてしまいます。
 で、自分自身が政治を始めるのですが、この人の困ったところは、 武家という階層が社会の実権を握ってしまっている中で、なんの力も 持たない公家貴族が我が物顔で支配する一昔前の社会を再現しよう とするわけです。
 当然無理ですね。
 たちまち武家から突き上げを食って、奈良の吉野に追われちゃうの ですが、おかげで一時的に天皇が二人並び立つという異常な状況が 生まれまして、いわゆる南北朝時代が始まります。
 このとき後醍醐天皇に良いように利用され、さらにその後醍醐を京から 追って新しい幕府を開いたのが足利尊氏です。

 この足利政権の発足から室町時代が始まったんですが、室 町政権ってのは、日本史上類がないほど愚劣な政権だったんですね。
 なんのビジョンもなんの理想もなんの思想も持たずに成り行きでで きあがっちゃったもんだから、鎌倉以来の武家政権を確認したという くらいの意義しかもってなかったわけです。
 尊氏って人が豪気な性格だったわけでもないのでしょうが、巨大な 勢力の大名を次々と創ってしまったおかげで、肝心の足利家の力が他 の大名よりも小さくなり、結果、将軍家の力は侮られ、力さえあれば 幕府を支配できるという風潮が蔓延します。
 こういう権力のたがの弛みが、「下克上」という風潮を創り上げて いくわけです。

 そして−−
 1467年に「応仁の乱」という日本史上空前の内乱が起こりました。
 幕府を支配していた有力大名同士の諍いに、将軍家の相続問題と 大名家の家督争いが絡んで始まったこの戦乱は、京の都を焼き払い、 その炎は、やがて全国に飛び火して、10年もの間延々と燃え続けます。
 人心が荒廃し、権威が失墜し、モラルが破壊され、人々は塗炭の 苦しみを味わわされました。
 「乱世」と呼ばれる時代が、こうして始まりました。


 ここでやっと、尼子経久が登場します。
 1458年。
 応仁の乱の10年前に、この乱世の寵児は生まれました。
 通称を又四郎。
 出雲守護代・尼子清定の嫡男です。

 まず、「守護代」というものから説明しましょうかね。
 当時、日本は「守護」と呼ばれる大名によって分割統治されてい ました。けれどその「守護様」本人は、貴族ですから都に住みたが るわけですね。領国の統治と経営を他人に任せ、その領国から送ら れてくる金や米で、都で贅沢をしたいわけです。そこで、その守護様 によって任命され、実際に領国に行ってそこを統治する人が必要 になるわけで、多くはその守護様の兄弟や家来がそれを努めました。 そういう現場の統治者を、「守護代」あるいは「小守護」と呼んだ のですね。

 つまり尼子家ってのは、平たく言えば、出雲を支配する権利を幕府 から認められた京極氏という名家の家来であったわけです。
 で、この経久って人も父親の後を継いで出雲の守護代になるのです が、実際に領国を経営し、外敵と命を懸けて戦い、国を守っているう ちに、都でのうのうと暮らしている連中に尽くしてやるのがバカらしく なっちゃったんですね。
 ある時から都に送金するのを止めちゃうわけです。
 支配している領国を、横領しちゃったんですね。

 守護代が、守護をさしおいて名実共に支配者になるという、この 現象こそが、つまり「下克上」の典型です。
 これに怒ったのが、出雲守護職の京極家ですね。
 実力がないもんだから、すぐさま幕府に泣きついて、軍勢を差し向 けてもらいます。
 幕府としても、守護代の領国横領ってのは自分たちの基盤そのも のを脅かす行為ですから、こういう下克上を黙認するわけにはいかな かったんですね。
 将軍の名で、出雲近隣の土着の侍達を呼び集めて、経久を武力で 出雲の主城である月山富田城から追放しました。
 1484年。経久27歳のときのことです。

 経久は弟と共に城を逃れ、野に潜伏します。
 一文無しの素浪人ですね。
 普通の貴族ならそのままのたれ死にしてもおかしくなさそうなもん ですが、彼の凄まじいところは、この頼る辺もない状況から始めて、 わずか2年で難攻不落と謳われた月山富田城を実力で奪い返し、出 雲の支配者に返り咲いたということです。
 この月山富田城ってのは、後に毛利元就が攻めて、力攻めでは陥 とせないと諦めたほどの天下の堅城で、経久のこの大成功は、 まったく神懸かり的だと言わざるをえません。

 このとき経久は、賤民の集団と接触し、これを抱き込むことから 始めました。
 賤民とは、神人、山伏、乞食、遊行民などといった当時の被差別 者たちの総称ですね。

 出雲に「鉢屋(はちや)」と呼ばれる集団がありまして。
 彼らは元々は地侍のような郎党集団で、平将門の乱のときに将門 に味方して破れ、地位を剥奪され被差別民に落ちました。生きていく ために多種多様な方法で糧を得なければならなかった彼らは、結果 すぐれた職能集団になりました。
 その職種たるや、芸能関係では、笛、舞いに長じ、また優れた技 術者でもあり、武器・武具の製造から生活必需品の生産・修理まで を行い、さらにひとたび戦となれば、戦場の諜報、偵察、連絡など を請負って活躍しました。
 こういう集団は全国にあったのですが、いろいろな理由で、出雲 では「鉢屋」という集団が根付いていたわけですね。

 経久はこの「鉢屋党」と結びつき、彼らの不当な差別の歴史を 知り抜いた上で、その社会的な復権をエサに、彼らを傘下におさめ ます。

「わしが出雲の支配者に返り咲けば、お前たちのような言われ無き 差別を受けし者どもを、きっと侍に取り立ててやる」

 と、こんな露骨な言い方はしなかったでしょうが、

「愚者が世を謳い、そなたらのような能ある者が正しく迎えられぬの は、この室町の世の中が歪んでおるからだ。わしはきっと、この不 都合きわまりない世の歪みを正し、優れた者、真に力ある者が上に 立ち、貴賤の区別なく暮らしていける正しき世を創ってみせる」

 くらいのコトを、熱っぽく語ったであろうことは想像に難くないで すね。
 ともあれ経久は、この「鉢屋党」数十人と、集まった旧家臣17名 とその郎党56人を率い、月山富田城を奪回に向かいます。

 時に文明18(1486)年、元旦。
 まだ日も明け切らぬ刻限に、月山富田城に恒例の正月「万歳」の 集団が詰めかけます。
 「万歳」というのは富田城の元旦の恒例行事で、鉢屋の者どもが 笛を奏で、鐘、太鼓を叩き、歌い、踊りながら行列をつくり練り歩く という縁起物のお祭り騒ぎのことです。このときばかりは城の者も酒 を飲み、餅を食いながらこれを見物するのが慣わしだったのですね。
 城方はなんの疑いも持たず、いつものように門を開け、その集団 を城に入れてやるのですが、そのとき城に入った者たちこそが、身を やつした経久主従だったわけです。
 篝火をもって建物に放火して回った男達は、

「火事ぞ!」

「すわ、夜討ちぞ!」

 と叫び回り、用意の刀や短槍を持って大暴れを始めます。
 これに泡を食ったのが城方の武士たちです。
 そもそもほとんどの者がまだ寝入っているような状態で、また起き ていた者たちにしても元旦のお祭り気分だったわけで、当然ながら こんな事態を夢想もしていません。城内はたちまち大混乱になり、 収拾がつかなくなってしまいました。

「敵の夜討ちじゃぁ!」

「敵方は大勢じゃ! とてもかなわぬぞ!」

 などと鉢屋衆が騒ぎ立て、事態をいっそう混乱させます。
 もはや名のある武士といえども正常な思考が働く状況ではなく、ま たそういう者は真っ先に暴れ回る経久らの刃にかけられてしまいます から、城方では満足に兵を指揮できる者さえなく、指図を失った雑兵 どもは我先に城から逃げ出しました。
 こうして驚くほどの呆気なさで月山富田城は占拠され、経久らは、 実に450もの敵の首を討ち取り、それを河原にさらしたんだそうです。

 この月山富田城の奪回の瞬間。
 一介の浪人に過ぎなかった尼子経久が、実力をもって城を奪い、 出雲の支配者の地位を得たこの歴史的事件をもって、後世の歴史家 は、「戦国時代」の幕開けであるとしました。
 因みに同時代に、徒手空拳から始めて関東で強大な軍事国家の基 礎を築くという偉業を成し遂げた北条早雲がおり、またもう少し 時代が下ると、素浪人から油売りに転身し、さらに転身して美濃を奪 い取るという離れ業をやってのけた斎藤道三が出ます。
 経久の出雲奪還はいわば彼らの嚆矢であり、この3人をして「戦 国時代をひらいた3傑」と言ってしまって差し支えないと思います。


 尼子経久について触れている資料は、実はたくさんあります。
 その人柄というものを考えるために、それらをすこし覗いてみること にしましょう。

 例えば「雲陽軍実記」によれば、経久は若年より世間の荒波に揉 まれ、艱難辛苦を重ねた人物であったので、他人に対してはかくべつ 仁心が深く、柴をかる下男や藻を取る海女のような者にまで憐憫の 情を持ち、また女子供にはことさらの親しみを示し、彼らもよく懐い たと言います。

「常々は飢えたるには食を与へ、凍えたるには服を賜はりける程な れば、況(まし)て君(経久)の為に命を的にする軍士は(申すに 及ばず)雑兵に至るまで、手負は疵を吸い、医薬を与え、討ち死に すれば、その子孫を寵愛し、職禄を増し、追善誦経まで心をつけ給 ふゆゑ、万人信を通じ徳を慕い、武士たらんものは経久公の命に 代わらんことを本意とす」

 経久の人柄と、人々の彼への敬慕が伺えますね。
 また「陰徳太平記」は、

「知勇全備するのみならず、吾が身露宿風餐(ろしゅくふうさん) の艱難辛苦を経て後、数国の大将と成りたる人なれば、諸士百姓 等に至るまで、それぞれに応じて身の上の苦忠をよく考へ知られた る故、民を使ふに時を以ってし、臣を見るに礼を以ってし、賢を尊 ぶに爵を以ってし、士を招くに禄を以ってするの道を行はれけるに よりて、勇士謀臣風を望み、招かざるに来り、よばざるに集まりぬ」

 と、経久の人徳を評しています。
 「塵塚(ちりづか)物語」という経久没後10年ごろに書かれた と推定される書物に面白いエピソードがあります。
 経久という人は物欲を置き忘れて生まれてきたようなところがあ り、自分の持ち物を人に褒められると、「そんなに気に入っていた だけたならば、貴殿に差し上げましょう」と、なんでもその人にあ げてしまうという珍妙な性癖がありました。

「墨蹟・衣服・太刀・刀・馬・鞍などにいたるまで、即時にその 人におくられけるとなん」

 といったぐあいで、また毎年年末になると、持っている衣服をみ な家来にやってしまって、自分はうす綿の小袖1つを着て寒そうにも せず、「暮春暖気の人相をみるがごとし」であったと出ています。
 そんな経久だから、家臣のほうから遠慮をし、やがて誰も経久の 前で物を褒めるということがなくなたのですが、あるとき何某という 者が経久と談笑しているとき、庭にあった松の姿があまりに見事で あったので、ついこれを褒めてしまうということがありました。その 男も経久の性癖をよく知ってはいたのですが、庭木まで褒めないの も風流に欠けると思ったのでしょうね。

「いやぁ、このお庭の古松、まことに趣向よく拝見させていただき ました。そもそもこの木は、どこのどなたがここに植えられたもの でしょうか? それとも昔からこの庭に自然に生えていたものでしょ うか? このような姿の美しい松は、私は今まで見たこともありませ ん。ぜひお大切になさってください」

 と言って、帰って行きました。
 翌日経久は驚いたことに、家来に言いつけてこの松を掘らせ、 「知恵を使って、このままの姿で、かの人にお贈りしなさい」と命 じました。
 この命令に困ったのは家臣です。人夫を使ってどうにか松を根から 掘り起こしはしたものの、なにせ10間(18m)以上もある老木で車 に乗せることも容易でなく、また乗せたところで、城にはそんな大き なものを通せる通路がありません。
 途方にくれて正直に経久に報告すると、経久は、

「そういうことなら致し方ない。その松を細かく切ってお贈りしなさ い」

 と言って古松を切り砕かせ、それを牛車に乗せて残らず贈らせたそ うです。
 この挿話は、「まったく不思議としか形容しようのない人柄である」 という言葉で締めくくられているのですが、経久という人物をよく表し ていて非常に興味深い噺であると思います。

 経久は、己の趣味や嗜好といったものには関心が薄かったように 見えます。
 「大欲ある者は、一見無欲に見える」と言ったのは兼好法師です が、経久がまさにこれであったように思います。
 戦乱の時代を生きる経久にとっての関心は、自分の物欲を満足さ せることなどではなく、いかにして人の心を執るか、というこの一事 であったのでしょう。その彼にとってみれば松の名木なぞ薪の木とど れほどの違いもなかったのだろうし、それを愛でるのはまだ良いとし ても、それに執着しようとする自分の心を常に諌めねばならなかった のでしょう。そういう心を諌めるためにこそ、冬でも自ら進んで薄着 をしたし、愛蔵するモノはみな人にくれてやったわけです。それはモ ノをやった相手を喜ばせると同時に、この乱世においてむしろ爽やか 過ぎるほどの自分の人柄を人々に宣伝するということであり、また自 分の小欲を常に監視し、これを拘束し、抑圧し、擦り潰してしまうと いうことでもあったように思えます。
 経久は自分の綺羅(きら)をモノで飾ろうとは思わなかっただろう し、そういう心がこの実力本意の乱世においていかに無用であるかと いうことを知るだけの聡明さが、当然あったでしょう。
 彼は浪人の境涯から実力で月山富田城を奪回し、その武力をもっ て出雲一国を切り取り、近隣諸国を侵し、山陰一帯に巨大な勢力を 張るに至るわけですが、彼の周りにはその異数の出世を快く思わ ない者も当然多かったことでしょう。そういう者達の上に君臨し、彼 らを追い使うように働かせ、ときに死地に送り出さなければならない 経久にとってみれば、自分の我を一個の機関のように統制し、これを 知力によって自在に使いこなすことはむしろ必須であって、その程度 のことができなくては、稀代の謀将として後世まで名を残すことなど できるはずがありませんね。

 「謀り事(はかりごと)多きは勝ち、少なきは負ける」

 という言葉が、彼が愛読したという中国の兵書にあるのですが、 経久は己の日常生活さえもその「謀り事」として捉え、それに組み 込むことによってそれを血肉とし、過酷な乱世を渡って行ったのでしょ う。


 経久は最終的に、出雲、石見、備後、伯耆など、最大で山陰山陽 11カ国の太守となり、その生を終えます。しかしながら彼が育て上げ た尼子家というのは、尼子経久という途方もなく巨大で魅力に富んだ 人格でもって維持運営されていたという側面があり、彼の死後、曾孫 の代で、勃興してきた毛利元就によって滅ぼされます。
 尼子家の血筋は毛利家によって保護され、命脈だけは保つのです が、「戦国大名」としての尼子家は、その時滅びたとみるべきでしょ うね。


 僕は、この尼子経久という男が大好きです。
 血生臭いことも平気でやった人物ですが、彼は確かに自分の領民 を愛し、家臣を愛し、家を愛し、愛することによって非情に徹してい た感があります。
 目的のために手段を問わない冷徹さは乱世の武将にはつきもので すが、彼はそれを正当化して余りあるほどの事績を残しています。
 男としてこの世に生を受けたならば、それだけの仕事を残して死ん でいきたいと、秘かに思ったりもしてしまいますね。

H.14 5/30



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