口頭無形分化剤 その37
「目的」と「手段」と「道草」
なんか、心が宙ぶらりんな感じなんですね。
何があったわけでもないのに、微妙に尻の座りが悪い。
気持ち悪い。
誰にでもあることなんでしょうけどね。
なんなのかなぁと、先日から考えてまして。
僕の場合に限った話なんですがね。
僕のこの倦怠感というか、ダルさというか、やる気のなさってのは、
どうも「目的意識の希薄さ」から来ている気がするのです。
僕はおそらく、「目的に向かって邁進する」ことが好きなのですね。
何らかの設定できるゴールなり場所なりがあって、そこに向かって
努力したり前進したり、そこに到るための手段を考えたり策を弄したり
・・・。そういった、いわばベクトルがはっきりしているときに力が
発揮できるタイプと言いますか・・・。
ってか、こう言っちゃうと、なんか非常に能吏向きに見えて嫌なん
ですがぁ・・・(苦笑
まぁ、ともかく、今の僕には、その明確な方向性が、どうやらない。
考えてみるとね。
こういう状態というのは、僕にとって、そうあることではなかったん
ですね。
何かを選んだり、道を決めたり、そういったことで悩んだことって
のは、考えてみると、今までほとんど僕にはないんです。
それらは、考えるまでもなく答えが常に僕の中にあって、その答
えに辿り着くために多少の時間を必要とすることはあっても、基本的
には決まっていることだったんですね。
進路、就職、恋愛、趣味・・・みなそうです。
僕が僕でいるということに拘れば、僕が岐路でとる行動ってのは、
ほとんどあらかじめ決まっている。
どうでも良いことなら、僕はけっこう迷いますけどね。
「紅茶とコーヒーどっちが良いの?」みたいな。
優柔不断なてんびん座ですからぁ(笑
言うまでもないですが、ここで言う「選択が決まってる」ってのは、
「考えないで選ぶ」こととは根本的に違います。
人生において「考える」といえば、自分の人生でウェイトを置くべ
きものの配分やその優先順位、また自分がこう生き、こう死んでいく
といったような「生き方」あるいは「人生哲学」といったようなこと
に頭を使うということであって、実際の個別の事象を前にして右往左
往するということではないからです。
そのことに関して言えば、今でも僕の基本的な姿勢は変わっていな
いし、それを間違っているとも思いません。
だから、それは良い。
問題は、今あるこの「ダルさ」が、何か問題に直面して起こってい
るのではない、ということ。
平たく言えば、「何の問題も無い」という状態だということで
す。
僕は、「思い通りの操作が可能であること」や「意思で支配でき
ること」が好きなのですね。
だから、必然的に物事が明快であることを好みます。
世の事象が明快でないことは良く知っていますが、明快であればあ
るほど、より確実にそれを操作することができるわけですからね。
そっちの方が、安心できるのですね。
尻の座りが良い。
ただ、今の状態は、なかなか明快な解が得られない。
そりゃぁそうです。
「問い」そのものが無いんだから。
将来、漠然と、「こうするだろう」というのはある。
そのためにクリアし、あるいは身につけ、経験し蓄積しておかな
ければならないものもたくさんある。
それらのことに優先順位を付けることは、まぁ、できないではな
いし、そのことに使える時間が多いわけでは決してない。
だから、今すぐにもしなければいけない。
グダグダ御託を並べている暇はない。
言葉にすると、明快ですね(苦笑
ただ、「感情」ってのは、そう明快にはいかない。
「目的のない散歩」ってあるじゃないですか。
どこに行くでもなくふらふらと、そこで見るもの、聞くもの、触れ
るものを楽しむ。
いわばこれは、「散歩」そのものが「目的」なわけですが・・・。
僕は、これが苦手なんですよ。
「どこかに行くために歩く」、「何かをするために歩く」のなら、
なんの苦にもならない。
それがどんなに遠くてどんなに辛い道のりであろうとも、そんなこ
とは問題にはならない。それは逆にいえば、たどり着いてしまえば、
その分だけの達成感が得られるということだからです。
その達成感が保証されてると、途中の苦労まで楽しめたりする。
「道」があってこその「脱線」。
「目的」あってこその「道草」なんですね。
「道草」そのものを「目的」とする歩みというのは、僕1人では、
どうやら難しそうです。
「目的がないなら出歩かなきゃ良いじゃん」って思っちゃう。
出不精なんですかね(苦笑
こと人生においては、多くの先人が、この「目的の無い歩み」あ
るいは「道草」そのものを楽しむことを薦めています。
僕もね。
人生における「死」をゴールと設定した道のりであるならば、
「道草の意義」は大いに認めるし、目的設定に意味がないこともよ
く知っています。
人間はどうしたって死ぬまでしか生きられないし、その意味では、
生きることを楽しんで死んだ者だけが勝者です。
そんなことは、言われるまでもない。
だから、今の僕の場合の「目的意識」というのは、そういったも
のとは抽象化のレベルが違うのですね。
「一生懸命頑張ったら手が届くかもしれない」くらいの、なんと
なく良いカンジの目標が欲しいわけです。
そして、その「目標の達成」における充足感に飢えているわけで
す。
ぶっちゃけちゃえば、このサイトも、そういった僕が設定した目標
の1つから生まれたのですね。
これは、さっきの「人生」というレベルで言うと、「道草のネタ」
を探しているという状態です。
道端を歩きながら、「面白いこと落ちてないかなぁ」とキョロキョ
ロしているようなモンですね。
「ぼた餅落ちてこないかなぁ」と、上を向いて口をあけてるヤツよ
りはなんぼかマシですが、自販機のおつりを探して回るヤツほどの積
極性もない。
お釈迦様は「足ることを知りなさい」と言いました。
「修証一等」という言葉もある。
「目的」と「手段」と「道草」を、1つにしてしまうことが「悟り」
なのでしょう。
けど、ねぇ・・・?
やらなきゃいけないことは山積しています。
バランスの問題であるということも承知しています。
それでも、もっとこう、スッとしたい。
がむしゃらとか、夢中とかに憧れますねぇ。
もっともっと、温度を上げなければいけない。
ただ、熱く。
そのためには、容器内の圧を高める必要があるんでしょうねぇ。
空気を、圧縮しなければなりません。
そこから噴き出そうとするエネルギーを、形にしたい。
「作品」として、昇華させたい。
僕はまだまだ足りませんからねぇ。
悟って暮らすには、若すぎるんでしょうね。
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