口頭無形分化剤 その31


「愛」と「恋」の差異


 祢瑚さんから困ったリクエストを頂きました。
 リクエスト企画の第6弾。
 今回は「愛と恋の違い」について語らねばなりません。

 ホントはね。
 こういうのは、あまり好きではないのです。
 てか、恥ずかしくてね。
 でも、ま、挑まれた以上、応えねばなりますまい。
 気合い入れていってみましょう。


 「恋愛感情」って単語が示すとおり、「愛」と「恋」は、少なく とも類似の関係があるようですね。
 どちらも、「対象を求める」といった類の感情であるようです。
 辞書で言葉を引くと−−

 「恋」−−想いこがれること

 「愛」−−@いとしく思う・可愛がる・恋する
       A好む・好ましい
       B大切にする・惜しむ

 と、なっています。

 あ、図らずも答えが書いてありましたね!
 「愛」の意味に「恋する」が含まれています。
 これはつまり、「恋」は「愛」の公約数ということですね。
 「愛」というものがいま仮にあるとして、その中の「苦しくなるほ ど強く対象を想う気持ち」を、とくに「恋」と呼びましょう、というこ とです。

 あっという間でしたね(笑
 「恋」の定義としては、こんなところで差し支えないでしょう。

 けれどこれは、なかなか示唆に富んでいますね。
 つまり、どれほど「対象を強く思う気持ち」があっても、それだけ では、「愛」と呼ぶには不完全である、ということです。
 ま、もっとも、「完全な愛」なんてものが、人間に生成可能な感 情であるとは、とても思えませんが・・・。

 ・・・いま、気付いたんですがね。
 「恋」の定義が「苦しくなるほど強く対象を想う気持ち」であると するならば、その「想い」自体の性質は、この場合加味する必要が ない、ということにもなりますね。
 つまり「想い」は、「一緒にいたい」でも良いし、「押し倒した い」でも良いし、「滅茶苦茶にしたい」でも良ければ、「壊したい」 でも「殺したい」でも良いというコトです。
 たとえばストーカーが最初抱えているのは、「恋心」ということに なりますね。

 もともと「好き」と「嫌い」は同じ種類の感情でね。ただそのベク トルが、正反対を向いているというだけなんですね。
 だから、たとえば「大事にしたい」と「壊してしまいたい」っての も同じ感情であるわけです。
 これは、「愛憎は紙一重」ということですね。
 さきほどのストーカーの喩えで言えば、ストーキングして秘かに楽し んでいるウチは「恋」、対象に攻撃を加え始めれば「愛」という区分 になるわけです。
 ちょっと面白いですね(苦笑


 さて、問題は「愛」のほうでね。
 煩瑣になるので、話を「恋愛」−−つまり「男女間(あるい は二者間)の愛」に限定しますが・・・。

 「愛」と「恋」の違いについて、最近ずっと考えていたんです がね。
 たとえば、他人から「愛を感じる」という言い方はできても、 「恋を感じる」という言い方は、まぁ、普通できませんよね。
 てか、しません。
 これはね。
 どうやら「愛」が「感じることができるもの」であるのに対して、 「恋」は「感じることができないもの」、もしくは「感じる必要が ないもの」ということなんですね。
 つまり、「愛」が対象とのある種のコミニュケーションを必要とす るのに対して、「恋」は自己完結するものである、ということです。

 僕は思うんですが、こと「恋愛」において、「愛」と「恋」の決定 的な差異は、どうやらこれではないですかね。

 対象への一方的な想いが、「恋」。
 対象と、「『愛』を感じさせる」ようなある種のコミニュケーショ ンが発生しているのが「愛」です。

 「愛」の中に「恋」は含まれますから、この差異は非常に微妙です し、勘違いもしがちですが、「恋愛」に関する双方向の、「『愛』を 感じさせる」ような正しい(あるいは歪んだ)コミニュケーションの 有無を、一応の線引きの目安として良いのではないでしょうか。

 ただ、この「『愛』を感じる」ってのが、実はくせものでして・・・

 「あなたの『愛』を感じるの・・・」

 などと言う女性が居たとして、彼女は、いったい何を感じている のでしょう。

 たとえば男性の毛穴から、「愛」と名付けられたフェロモンが 分泌していて、それを女性が吸引して「『愛』を感じる」わけでは、 すくなくともないはずです。
 けれど、確かに僕たちは、他人の「愛」を感じることがある。

 これは、どういうことか・・・

 結局ね。
 僕たちにあるのは、身体を使った行為だけなんです。
 「言葉を交わす」、「身体を重ねる」、リアルだろうがヴァーチ ャルだろうがなんでも良いですがね。
 これらはすべて、身体をつかって行われる、僕たちの行為に過ぎ ないわけです。
 「愛」なんてものは、そもそもどこにもない。
 ただ僕たちは、相手のその行為に、「愛」を見るのに過ぎないの です。

 これはどういうことかというとね。
 極言すれば、総てが僕たちの想像の産物だということです。

 誰かのある行為について、そこに愛を感じる人もいれば、感じな い人もいる。
 そしてそもそも、その誰かがその行為に「愛」を込めたかどう かさえも、観察者である僕たちには確かめる術がない。
 その誰かの「愛」の存在そのものさえ、僕たちには証明できない のです。
 つまり穿った言い方をすれば、僕たちは、どこまでも勝手に、他人から の「愛」を感じているに過ぎないわけです。

 だから、「あなたは私のこと愛してるの?」なんて質問は、そも そもナンセンスなのかもしれませんね。
 相手がどれほどその人のことを愛していたとしても、感じる側に 感じてやる気がなければ、それは決して発生したりはしないのです から。
 嘘でも「愛を感じさせる」という努力を怠ったのだとしたら、それは 確かにその人の側が責められてしかるべきですが、意外と受け手側 の問題であることも多いのかもしれません。

 ちょっと論旨がずれましたね(苦笑
 話を元に戻しましょう。


「私は彼をこんなにも愛しているの・・・」

 と、ある女性が言ったとします。
 でも、その「愛している彼」が、たとえば「ドラマの俳優」であっ たり、「漫画のキャラクター」であったり、「対話すらしたことのな いサイトの管理人」であったりした場合、その感情は「恋」であって、 「愛」と呼ぶに値しないと言えば、言い過ぎでしょうか・・・。

 こういう健全な双方向のコミニュケーションがはかれない状態とい うのは、「ファン心理」に近い感情であるように、僕には思われるの ですね。
 「ファン心理」というのは、つまり「贔屓する」ということです。
 これは、確かに「愛」と言えなくはないですが、それは広義の 「愛」であって、「恋愛」における「男女間の愛」とは一線を画し て考えるべき別の事項であるような気がするのですね。

 「恋愛」において、「『恋』が『愛』へと昇華する瞬間」みたい なモノは、きっと無いんだとは思うのです。
 ゆるゆるとした個人個人の歴史の中で、いくらかの共有された時 間があって、それはいつの間にか、意識さえせぬうちに生成されて いるものなのでしょう、きっと。
 けれど、たとえばそれは、「相手と共に過ごす時間」がなければ、 けっして創られるモノではないはずで、だから、「恋」が「愛」に 昇格するために必要なのは、僕は、健全な(たとえばセックスなん てものを含めた)コミニュケーションであると、しておきたいですね。


 「愛」の中の「苦しくなるほど強く対象を想う」という属性が「恋」 であるとするならば、「恋」に、あとどういった属性がプラスされれ ば「愛」と呼べる状態になるか、ということを考えるのも、「愛」と 「恋」の違いを考える上では有意義かもしれませんね。

 このキーワードは、「包容力」ではないのかと、実は思って いましてね。

 「恋」というものは「対象に対する強い想い」なのだから、これ はどうしても利己的な部分が前面に出てしまいがちですね。
 「手に入れたい」、「独占したい」、「セックスがしたい」、 まぁ、想いの種類は何でも良いですが・・・。
 この状態では、どうしても中心を自分にせざるを得ません。
 ところが、「愛」というものの重要な側面として、「自己犠牲」 というか、「自分を中心から外した思考」のようなものがあるように 思うのですね。

 「相手のために何かをしたい」みたいな思考です。

 もちろん、突き詰めれば、相手を喜ばせることで、結果として自 分が嬉しくなる、ということですから、自分のためであるのは間違 いないのですが、自己の直接的な欲求を満たそうとする想いから みれば、思考として、より次元があがっているわけです。
 この状態になってはじめて、ただの「恋」からは脱却した状態 と呼べるのではないか。
 自己満足の階層化。
 より高次の思考形態を獲得しているわけです。

 そこで、「包容力」ですがね。
 「包容力」ってのは、要するに「受け入れること」なんですね。
 相手のあるがままを受け入れる器量です。

 「人間の幸福」みたいなものを考えるとね。
 「幸福」の定義はとても難しいのだけれど、確実に言えることは、 「精神が安定した状態」というのがとても大事だと思うのですね。

 幸福な貧乏人もいる。
 不幸な金持ちだっている。
 どんなに裕福に暮らしていても、食事の回数はせいぜい3度で、 金持ちだからといって、そうでない人の何倍もの量が食べられるわ けじゃない。
 そういうことで、人間の幸・不幸は決まらないのです。

 人間は、どこにいたって、何をしていたって、気の持ちよう次第で いつでも「幸福」になれる生き物です。
 人間の「幸福」にとって唯一絶対に必要な条件。
 結局それは、継続的な「精神の安定」につきるのです。
 そして、好きな人に、この「精神の安定」を提供するという行為 こそ、「相手のあるがままを認め、受け入れる」ということではな いのかと思うのです。

 「包容」は、大事な人に「幸福」で居て貰うために、他人ができ るほとんど唯一の働きかけのような気がします。
 そしてその人の器量の大小で、与えられる「安定感」の量が決ま ってくるのでしょう。

 大事な人に、より「幸福」で居て貰いたいと思う気持ち。

 僕はこれが、「恋」に欠けた「愛」の重要なエッセンスであるよ うに思います。

H.13 11/12



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